量子飯

ご飯はまだかのう?

「悦子さんや、ご飯はまだかのう?」


 台所に入るなり、そう言う義父に出くわした。それを見て私は首をかしげた。


「何を言っているんです、お義父とうさん? さっき食べたばかりでしょう」


 そう、ついさっき夕飯を済ませたばかりなのだ。なのに――――


「は? “ここ”ではまだじゃよ? まだ済ませてはおらぬぞ」


 ――本気で言っているの? もしかしてこの人、認知症にでもなったの? それに“ここ”ではとか、何やら妙な言い方をしている。よそで食べてきたとでも?


「酷い、酷い嫁じゃ。いたいけな老人に食事もさせてくれぬとは……」


 この世の終わりとでも言わんばかりの言いよう。泣き崩れてテーブルに突っ伏してしまった。おいおい――という嗚咽の声は結構大きく、外まで聞こえているのじゃないかと思えた。ご近所に知られてしまう?


 ――なによ、まるで私がこの人を虐待しているみたいじゃないの!


 胸の奥からぐつぐつと煮えたぎるような何かが頭を擡げた。例えようもない理不尽を感じ、怒りの炎が燃え滾り始めたのだ。


「ちょっとお義父とうさん、人聞きの悪いにも――」

「程があるとな?」


 一転してはっきりとした物言いに私の言葉は腰を折られた。


「――なっ……?」


 いつのまにか義父は顔を上げていて私の方を見ていたのだが、その目が……何と言えばいいのか? ともかくも、言葉を続けることができなくなってしまった。


「食事はまだ済ませてはおらぬぞ、“この世界”ではの。ほら、テーブルの上にはお前さんがこしらえたばかりのご飯とおかずが並んでいるではないか」


 カッカッカ――と笑う義父。まるで水戸の御老公のよう。それはそれとしてこの人は何を言っているのか? “この世界”? また変な言い方して。ご飯はさっき終えたばかり、キレイに平らげて後片付けも済ませているじゃないの。もう何もありはしない――――

 そこで思考が止まった。


 テーブルの上が奇妙に揺れている、そう見える。ユラユラと揺れるさまはまるで蜃気楼のようなもの。そんなものがテーブルの上に現れているというのはどういうことなのか? 目がおかしくなったのか、それとも頭の方? 幻覚でも見ているのかと思うが、意識ははっきりしていると自覚している。ではこれは何だというのか?

 目をこすり、しばたかせる。それでも蜃気楼みたいなものは消えなかった。それで一度目を固く瞑り頭を二、三度振った。そしてゆっくりと目を開けたのだが……


「そら、豪華な食卓じゃ。お前さんが腕によりをかけてこしらえた夕飯じゃぞ? 忘れてしまったのかえ?」 


 義父の言葉は聞こえてはいたが、頭には入って来なかった。目撃したものに囚われてしまい、思考も何も追いつかなくなっていたからだ。

 蜃気楼は大きく渦を描き始めていて、次第に何かの姿を浮かび上がらせていた。幾つもの色彩を示し、形を急速に固定……いや、収束とでも言うべきか、はっきりと姿を現した。

 それは――――


「ほっほっほ、今日も最高じゃのう。お前さんの腕前は、そんじょそこらの料亭など及びもつかぬ。それほどのものじゃ」


 それはご飯とおかずだった。今まさに作ったばかりといった風情で、優しい温もりと食欲をそそる香りを漂わせる料理の数々。そう、確かに私の作ったものだ。

 だが――――


「全く、お前さんの意地悪も大したもんじゃ。こうやってちゃんとこしらえてくれておったというのに、もう済ませたでしょ――なんての」


 舌鼓を打ちつつ、箸をとる義父。そのまま食べ始める。


 ――いや待って。どういうこと、これ? 夕飯ならもう済ませているわよ! 食器も洗い終えて後片付けも終わっているわよ!


「んまい、んまい」


 考える私のことなど知らぬ存ぜぬとばかりに食事を楽しむ義父、心底楽しそうなのが忌々しくも思える。


 ――どういうことよ? そもそもテーブルの上には何も残ってはいなかったわよ。料理どころか、茶碗一つ、お皿も箸も何も置いていなかった。全部片づけたはずなのに。


「なのに何でそれが現れたのか? それが不思議なのじゃろ?」


 まるで私の思考を読んだみたいに繋がれた言葉に、私はギョッとしてしまった。見ると楽しそうに私を見つめる義父と目があった。それを見たら更にギョッとするものを憶えた。 


「――いったい……ど……う――」


 ようやくといった呈で言葉を繰り出したのだが、しかし遮られた。


「観測したのじゃよ」


 唐突に語られた義父の言葉を、私は理解できない。だが理解させようというのか、或いはそんなのは知ったことじゃないのか、ともかくも彼は話し続けた。


「斯くあれと事象を選択。望む状況を手繰り寄せ、観測。その結果として存在が確定したわけじゃよ」


 何を言っているのか、義父に言うことは一切理解できなかった。


「量子もつれにより相関した多数の世界線の分枝は常に並存しているのじゃ。観測者たる儂はそのうちの一つを自らの意識で認識し、その結果として相関した分枝世界の一つが観測可能な状態として眼前に現出したということじゃな。選び取ったとも言える。この場合は“夕飯をまだ終えていない状態の観測”――になるか。いや何、今日のお前さんの夕飯は格別に美味かったからの、もう一度味わいたかったのじゃよ」


 私は何も言わず――いや何も言えずにただ、義父を見るだけだった。そんな私を見て義父は苦笑するのだった。


「まぁ理解できぬのも無理からぬこと。この儂とて正確なところはよく分からないからの」


 私の場合は“よく”どころか全く分からなかった。それでも何とか知りたいという意識は働き、問いかけることにした。もっとも、そのための言葉を選ぶのも一苦労だった。何しろサッパリ分からないのだから。


「つまり……お義父とうさん、あなたは自分の好きな状況というか、世界そのもの? ――を創り出したってことなのですか?」


 義父は再び苦笑、肩を竦めて首を振った。何だかバカにされたような気がして腹がたってきた。


「お義父とうさん――」


 義父は手を上げて私を制した。


「まぁ怒るな。別にバカにしたわけじゃないよ」


 ――では何だというのよ!


「儂もよく理解していないからの、だから上手く説明できぬのだが……」


 一度言葉を切り、頭を盛んに上下させ始めた。色々と考えているのが分かり、どう言ったらいいのか、本当に自分でも分かっていないと感じさせるものがある。


「えぇと……世界を創ったというより、選んだと言うべじゃろうな」


 そこで言葉を切っている。もう説明する気ないの?


「あの……だから、その……選ぶって……?」


 もっとちゃんと説明してほしい。


「さっきも言ったじゃろ。世界線は多数分岐しているってこと」

「その世界……線? そこから分からないんですけど?」

「うぅむ……世界は幾つもあるってことじゃよ。それこそ無数に、無限と言ってもいいらしいよ」


 頭が混乱してきた。要するに並行世界ってヤツなのかな? SFとかファンタジーなんかでよく出てくる話?


「これは空想でも何でもないよ。量子力学では昔から語られてきた話だ」


 うわっ、量子力学とか……なんだか小難しいこと言い出したよ。そう言やこの人、昔は教師をやっていたっけ?


「ヒュー・エヴェレットなどが述べた多世界解釈が有名じゃ。外部環境からの揺動の影響を受けて波動関数が収束する話じゃ。観測者の認識が一つの揺動作用になるのじゃな。ここでは儂の“夕飯がまだ”という認識の作用を受けて、食事前の世界線を選び取ったことになる。お前さんの今日の夕飯をもう一度食べたいという儂の欲望が波動関数に影響を与えたのじゃな」


 いやいや、全く理解できないのですけど?


「えぇと……お義父とうさんは世界の状態に影響を与えた? つか、過去を書き換えたことになる?」

「ふむ、多世界解釈の中にはタイムトラベル的要素も含まれるかな。違う過去を選んだことになるな」

「そうなのですか?」

「世界線そのものを移動したわけじゃよ。いや、世界線の方を儂らの意識に繋げたことになるのかな? ともかく儂の観測によってまだ食事前の世界が現出したことになる。その時点に移動しているのじゃよ」


 私の頭には「?」しかない。まるで理解できないのだ。ただ――


「お義父とうさん……何も解らないけど、あなたは世界そのものを書き換えることができるって言うのですか? 一人の人間にそんなことができるのですか?」

「いや、世界の書き換え――というか、世界線の移動なのじゃが。まぁ重なる部分は多いかな――なんてのはしょっちゅう起きていることだよ」


 ええっ⁉ 何てこと言ってんですか、この人? そんなしょっちゅう世界の書き換えなんてことやらされた日にゃ、私たちの人生なんて無茶苦茶でしょうに。


「今現在認識できる世界は観測・選択の結果として現出した一つのものだから何ら混乱はない。意識はその一つの結果を観るだけだからの。過去現在、矛盾は一切ないさ。未来はまた選択の結果になるがね」

「いや……でも……」


 どうしても理解できず、釈然とすることなど何ひとつないのだが、質問しようにも前程として知識がなさすぎるので容易にできない。量子力学なんて知らないっつーの!


「ま、儂もよく分からないんじゃがの」


 ふと思い立ち、一つ聞いてみた。


「お義父とうさん、あなたは自分の意識の作用で食事前の世界を現出させたってことになるのですね」

「そうじゃの」

「そんなこと、一人の人間にできることなのですか? まるで神か何かの次元のような話ですよ」

「そんなの不思議でも何でもないさ」


 えー……いや、不思議そのものでしょ? 一人の人間が新たな世界を選んだっつーか……この場合は移動なのか? そんなこと普通できる?


「少し前に言ったじゃろ? しょっちゅう起きているって。世界、というかこの宇宙には無数の人間――いや、宇宙全体を指すんなら地球外知性も含むかな――ともかく数多の意識する存在があり――あるだろうと儂は思う――観測と認識を繰り返しておるのじゃ。それら意識群の相克の中から世界線の一つが選び取られておる。その繰り返しとして今の宇宙があり、その歴史が存在している」


 うう、また分かりにくい言い方をする。


「でも、それだと一人の人間、というか意識にとって都合のいい世界が現出するとは限らないでしょ? 相克とやらの中から選ばれるのなら」

「うむ、多数決じゃな。宇宙全体ではそうなる。じゃが意識の中には観測力とでもいうのか……その強弱があっての、特に望む状況を選び取れる力のある者もいるのじゃよ。ほれ、異常に運のいい奴とかいるじゃろ? そういうのは大抵観測力が高いのじゃ」


 幸運にはそんな力が働いていたのか! 望む世界線を選択できる能力が高い人、つまり未来は思いのまま……嗚呼、いいなぁ。私もそうなら……


「お義父とうさんもそんな幸運の人なんですか?」

「まぁ、人よりは。しょっちゅうじゃないし、今日の場合はお前さんの料理が特に美味かったからの、その想いの強さが実現させてくれたみたいじゃ。ま、個人的な次元の事象にしか影響は与えられないし、まして世界・宇宙全体の事象を転換させるなんてことは流石に不可能じゃよ」


 はぁ……やっぱ分かんないや。でも料理が褒められるのは嬉しいかな。


「ま、話はこの辺でいいじゃろ。んじゃ食事を楽しむとしようか」


 そう言って箸をとるのだが、私は慌てて指摘した。


「ああ、でもさっき食べたばかりだし、もう満腹なのでは?」


 すると義父は「チチチ」と言いつつ指を振る。またバカにされたような気がしてきた。


「“この世界の儂ら”はまだ食事前なのじゃよ。お前さんも空腹じゃろ?」


 そう言えばそうだ。かなりお腹が空いているのを自覚した。そうか、世界線を移動したからか。


「では食うとしよう」

「そうですね」


 こうして私たちは夕飯をとった。それはいつにも増して美味しいものに感じられた。ただ――――


 私には記憶がある。世界線を渡る前の私の記憶、既に夕飯を終えた私のもの。それはこの世界線の私とは違うのではないのか? どうも私も義父と一緒に移動したってことになるらしい。巻き込まれたようなもの? 

 一緒に夕飯をとる義父を見ながらそんな疑問を感じ続けていた。


 ――“この世界の私”はどうなったの? 一つになった? 融合した?


 分らないけど、まぁいいかと思った。今は食事を楽しもう。それで後から考えればいい。これはこれで面白い話だし。量子力学とやらの勉強でも始めてみるかな。

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量子飯 @bladerunner2017

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