後
途中にわかなる雨などに遭い、
峠を越え、眼下に満々たる湖をいだいた守り地があらわれると、一行はそのうるわしさにどよめいた。
折しも十月、
「……
誰かが、畏怖とも陶酔ともつかぬ声をこぼす。そのつぶやきを攫うように風が吹き、湖をきらめかせた。
そうして一行が峠を下ると、水際にひとりの老人が立っていた。朽ちかけた花のような枯茶の水干と短いくくり袴をまとい、脇に小舟を寄せている。姫様の輿をみとめ、ねんごろに頭を下げた。
「何奴か」
武人が前に出て
「つばいち、と申します。あや様のご命で、そこなる姫君様をお迎えに上がりました」
「なんだと。我々は忍びの旅にてここまで参ったというに、其方はすでに我々を知っていたと申すか。あや様の御名にかこつけた騙りではあるまいな」
「断じて、さようなことは。……ほれ、この通り、私めは花の精にてございますれば」
老人が一旋袖をひるがえせば、ふわりと赤椿の花があまた
「はや老い果てた朽ち身では、
「……しかし」
「よいわ、ころく。わたくし、このお爺様を信じるわ」
渋る武人を下がらせたのは姫様だった。随身の手を借りて輿を降り、垂れ布もないままに老人と向かい合う。紅の
「お爺様。わたくしを、あや様の御元までお連れくださいまし」
姫様がふかぶかと礼をとれば、老人は尉面のように笑った。姫様はしずしずと、その導きにまかせて舟へ乗り込もうとする。私は姫様、と焦る一行の中から抜け
「姫様」
「……しろ?」
おどろく姫様を抱き込むように、むりやりに舟に乗る。そうして目をまるくしている一行をふりかえった。
「私が、姫様のお供をいたします」
「しろ。わたくし、……」
黙らせるように姫様の腰を抱く。そこで、静観していた老人が舳先に跳び乗った。
「よろしいですかな、姫君様がた。それではいざいざ、参りましょうぞ。――そうれ、ほうれ、
老人が身がるく韻を踏み舞えば、小舟はさらさらと進みだした。ひびく柏手の音も涼やかに、またはらはらと椿が散る。花は
これはたしかに、はなよめの道ゆきであるのやもしれない。血を流し、いちど死に、あらたな家のいのちを宿す女としてよみがえる。
ならば、私はそのはなよめの道をむしりとる女となるのだ。
なぜなら私は、姫様の
*
舟は軋みながら島へついた。
老人に助けられて降り立つと、そよとした風が渡る。紅葉した梅の葉がいっせいに裏返り、氷の柱を叩きつらねたような音がした。姫様と私は、そのお方を仰いで声もなく立ち尽くす。
あや様は梅の樹の女神であり、穢れなき少女神だ。ひとであれば十二、三歳ほどのそのおからだは半ば樹と混じり合い、半ばひとがたを保ったまま、森のような大樹を伸ばし眠っておられる。
なめらかな黒髪は
ぞっとするほどうつくしく、けだかく、なまめかしくも恐ろしい、異形のお姿であった。
「……好文比売様」
姫様はくずおれるように跪き、根と苔のうねる地を這った。私がお止めする暇もない。しゃにむに餓えた鬼のごとく樹を登り、嗚咽とともにあや様の幹へすがる。そうして幼子のようにむせび泣いた。
「あや様。……あや様。わたくし、あなた様にお仕えしたくて参りましたの。あや様のはなよめになりたくて参りましたの。わたくし怖い。おとうさまおかあさまの形代として、みすみす
姫様が叫んだ刹那、ざざん、ときわやかに波が鳴った。
樹の根から大波があふれ出し、またたく間にあたりを洋々たる海とする。あや様も、姫様も、私のからだも悠久の歳月に沈みゆき、私には姫様のあかがねの御髪だけが、たったひとつ道を示す火のようにゆらめいて思われる。
されどもいま、その姫様は目を失った獣のように狂い吼えていた。
水底でも、断末魔がきりきり震えるようであった。姫様は身をよじり、目玉を開き、喉を掻いて激しくねじれ、身もだえする。ぼう、と姫様の肌が白く燃えた。
否、燃えたのではなく、白百合が。百合の花がいっせいに姫様のおからだから芽吹いたのだ。舌、頬、のどぶえ、腋。みぞおちの肉も
姫様は生ける屍のごとくよろめき、そして崩れ落ちる眼窩の隙間から、私を見た。
あなた、わたくしが憎いのでしょう?
と、姫様の目が語る。違う。そうささやくのは私の心。私は私をにくいと思い、私のこの境遇を、生まれを、持てなかったもののすべてを呪っている。殺して潰して掻き切って、ぼろぼろの灰になるまでなぶり果たしてしまいたいと。
ああああ、と姫様の声が聞こえた。しゃがれた山姥のようになり、姫様は咲いた端から朽ちてゆく。消し炭のように塵となり、しかし、ふたたびその端からよみがえる。蔓のごとく茎が伸び、花が開き、あまい蜜を香らせては枯れてゆく。くりかえしくりかえし。
これは終わらぬ。終わらぬ生の責め苦だ。ここに安らぎなどはない。
「――ひめさま、」
私はとっさに手を伸ばし、よろぼう姫様の指を握った。花をむしる。千切りとる。姫様をこの責め苦から解くために。
なぜなら私は姫様がなによりもにくらしく――そしてなによりも、おかわいらしくてならないのだから。
「好文比売様」
朗と呼ばわれば、私の声は殷々と水にひびいた。私は姫様を腕に抱き、眠りゆらめく女神のお顔をきッと仰ぐ。
「あや様。どうぞ姫様はご寛恕ください。うつつの世にお戻しください。代わりに私が、あや様のおそば仕えとしてお侍りします。……私はただしく、姫様の形代となるべく育てられてきた身ですから」
しろ、と姫様が呻いた。いくえもの芽吹きと衰退をくりかえし、穴だらけに縮んだお顔で。息をつき。喘ぎ。すがるように私を求めて手を伸ばす。
琥珀の瞳から涙がこぼれ落ちる刹那、私は姫様の舌に宿った白百合を、抜いた。
ざあん、
と地揺れのごとき波がほとばしった。たたなづく波の波。山々を呑み込む土砂、あるいは雪崩のごとくそれは暴れ、私と姫様の卑小なからだを巻き込んで逆巻く。あおぐろく、底冷えの渦。深淵の谷へ放り込まれてゆくようなはてしなさの中、私ははるかなる天にひとひら、赤い椿のたゆたうを見た。
すう、と
「よおいよい、こよこよ、よいよい、
凛々と澄む拍子と歌に送られて、私の気はやがてゆらゆらと遠ざかる。
ただ、姫様のお手を離すまいとだけして、ほそい少女の指におのれの指を固くからめた。
*
ざざん、と騒ぐ波の音で目が覚めた。
はっとして起き上がると、いまだ私は女神の玉座、
だが、もはや海はない。あや様は元通り樹にいだかれた御身をさらし、白いかんばせをうつむけて眠っておられる。その下に、私に背を向け、姫様が膝をそろえて座していた。
「姫様」
あざやかな御髪の流れる背を呼ぶと、姫様はふりかえらぬままにつぶやいた。
「……あや様は、あのような生を、生きていらっしゃるのね」
それはすでに、あどけない少女の声音ではなかった。さびさびとした、おとなになりゆく女の声であった。
そうしてふりむいた姫様のおからだには、もうどこにも百合は宿っていない。桃色の唇をしずかに結び、清冽なお顔でほほえんでいた。
「あれは、白百合の生きる生ね。とことわの時を生きる、花の生きざま。草木は、花は、いちど死んでもよみがえる。四季をめぐり歳を
「ええ、姫様」
そうであった。あの水底で、姫様はまさにその一生を味わったのだ。そばで見ていても凄絶な、奔放な、熱のかたまりのような生を。
しかし姫様はその猛々しさもあまねく受け入れた顔をして、まぶたを伏せた。膝に一輪、残った白百合をそっと撫でる。
「あや様も、この百合の花と同じ。長くながく、とほうもなく重い生を生きていらっしゃる。……それはとうてい、わたくしのようなひとごときに背負いきれるものではなかったのね」
「――」
「あや様は、そのことを教えてくださったのだわ。きびしく、やさしく、そのためにわたくしを、ここまでお呼びになったのだわ」
姫様につられて、私も女神のお顔を仰いだ。おだやかな風に吹かれるあや様は、なにも変わらず、穢れなきさまで眠っておられるだけに見える。されども姫様は、そこになにものかを見出したかのように笑っていた。
「わたくし、秋津野に戻ります。そして後宮に入ります」
「姫様。……それで、よろしいのですか」
思わず問うと、姫様はせいせいとした顔をした。
「よいの。それがわたくしの生きる天分、生きる一生。与えられたその天分から、そこからは私自身が、生きゆく道を築いてゆくのよ」
「姫様」
「だから、しろ。あなたもおのれの道を生きて。わたくしの形代なんて、もうしなくてもよいの」
そうして姫様は指をつき、ごめんなさい、と私ごときに頭を下げた。わたくし、あなたの身空も知らず、甘えたことを言っていたわねと顔をゆがめる。私はその御髪を梳き、かぶりをふった。
「姫様。姫様が頭を下げられることは、ございません。私とて、みずから選んで、姫様のおそばに在ったのですから」
逃れようもなく育てられ、しかし私は、ほんとうに逃れるつもりはなかったのだ。逃れたいなら、いのちを賭してでも秋津野を出ればよかった。足掻けばよかった。
それをせずこの歳まで生きてきたのは、私が怯懦で、そして姫様を思い切ることができなかったゆえのこと。私は姫様がにくらしく、されどもやはり、ずっと、おかわいらしかったのだ。
「ありがとう存じます、姫様。私も、私の生きる天分を探します」
ふかく礼をとる私の背後で、遠くから、舟を漕ぎくるさざなみの音がした。
おおい、と随身が櫂をやる。武人が舳先で袖をふる。秋津野の一行だ。どうやら、いずこかから舟を得て迎えにきたらしい。私は姫様と目を交わし、それから、立ち上がって手をふった。
*
姫様の病は癒え、私たちは無事帰途についた。
屋敷のものたちは泣きむせび、姫様のご快癒をお祝いする。あい
翌春、東宮そに宮が皇位に就いた。このときから御名を改め、
それに併せて後宮が選り抜かれ、秋津野のくれ姫もここに入内した。姫君はひときわうつくしく才気煥発、あかるく朗らかなひととなりで、すめらみことに寵愛された。のち春宮となる御子やふたりの姫御子を産み、ついに皇后の位を極める。
このくれ姫のご尽力で、かつて仇敵であったすずしのとかおるのの一族は和解を果たす。
姫君はそれを見届けた直後十一月、もみじの散りゆくようにして身罷られた。御年三十八であった。みささぎは都の北東、清の海へ通じる途上の丘に築かれ、くれ
くれ姫は国の女神たる好文比売命をことのほか大切にされ、つねに参詣と奉納を欠かさなかった。崩御の際はそのご遺言により、白百合の株がひと茎、女神の元へ届けられた。いま、
私は、かようなくさぐさの物語をこうして書き記している。私しろは姫様が入内した春に秋津野の地を離れ、髪を落として巫女となった。むみょうと名乗り、清の海に近い神のやしろで、あや様にお仕えする神弟子としてつとめている。
そのうちに、手なぐさみとして物語をはじめたのであった。秋津野の地のことを、そこに生きたひとびとを、そしてくれ姫様のことを。私は書き、伝えたいと思ったのである。
ゆえにこそ手のつたなさもかまわず、日々筆を執りつづけている。いずれ誰がこの物語を紐解くか、あるいは誰に知られねども、私はおのれの綴りゆくことばたちを遺したい。
それこそが、私の築く生きる道である。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます