途中にわかなる雨などに遭い、きよの海へは八日めにたどりついた。

 峠を越え、眼下に満々たる湖をいだいた守り地があらわれると、一行はそのうるわしさにどよめいた。

 折しも十月、さとを囲む山々は緋金の綾と錦をつらね、その紅葉がきららかに湖面へ映える。真中に浮かぶは女神の玉座、うめの島。縄と紙垂しでで結ばれたさかいのうちに、あわく染まった梅の大木がそそり立つ。遠目にも六、七丈の高さはあろうかと見えた。


「……好文あやこのむ比売ひめ様」


 誰かが、畏怖とも陶酔ともつかぬ声をこぼす。そのつぶやきを攫うように風が吹き、湖をきらめかせた。

 そうして一行が峠を下ると、水際にひとりの老人が立っていた。朽ちかけた花のような枯茶の水干と短いくくり袴をまとい、脇に小舟を寄せている。姫様の輿をみとめ、ねんごろに頭を下げた。


「何奴か」


 武人が前に出てすいすると、老人はかしこまったまま答えた。


、と申します。あや様のご命で、そこなる姫君様をお迎えに上がりました」

「なんだと。我々は忍びの旅にてここまで参ったというに、其方はすでに我々を知っていたと申すか。あや様の御名にかこつけた騙りではあるまいな」

「断じて、さようなことは。……ほれ、この通り、私めは花の精にてございますれば」


 老人が一旋袖をひるがえせば、ふわりと赤椿の花があまたくうに舞った。舞った先からほろほろ崩れ、あわ雪と化して消えてゆく。武人は思わず刀を抜き、一行はたまげて後じさった。老人は残った一輪を手にほほえむ。


「はや老い果てた朽ち身では、あたうことといえばこの程度にございますが。ですが私めはこの通り、たしかにあや様の使いをつとむ翁でございます」

「……しかし」

「よいわ、。わたくし、このお爺様を信じるわ」


 渋る武人を下がらせたのは姫様だった。随身の手を借りて輿を降り、垂れ布もないままに老人と向かい合う。紅の御衣おんぞと御髪が、枯れ果てた老人と較べてことさらに際立った。


「お爺様。わたくしを、あや様の御元までお連れくださいまし」


 姫様がふかぶかと礼をとれば、老人は尉面のように笑った。姫様はしずしずと、その導きにまかせて舟へ乗り込もうとする。私は姫様、と焦る一行の中から抜けで、老人たちを追って駆け出した。


「姫様」

「……しろ?」


 おどろく姫様を抱き込むように、むりやりに舟に乗る。そうして目をまるくしている一行をふりかえった。


「私が、姫様のお供をいたします」

「しろ。わたくし、……」


 黙らせるように姫様の腰を抱く。そこで、静観していた老人が舳先に跳び乗った。


「よろしいですかな、姫君様がた。それではいざいざ、参りましょうぞ。――そうれ、ほうれ、ておわせ、率ておわせ」


 老人が身がるく韻を踏み舞えば、小舟はさらさらと進みだした。ひびく柏手の音も涼やかに、またはらはらと椿が散る。花は水尾みおのごとく湖面をたゆたい、やがて融け雪めいてはかなくなった。赤い糸があとを引き、どこか血の穢れのようでもある。

 これはたしかに、はなよめの道ゆきであるのやもしれない。血を流し、いちど死に、あらたな家のいのちを宿す女としてよみがえる。

 ならば、私はそのはなよめの道をむしりとる女となるのだ。

 なぜなら私は、姫様の形代かたしろであるのだから。



 *



 舟は軋みながら島へついた。

 老人に助けられて降り立つと、そよとした風が渡る。紅葉した梅の葉がいっせいに裏返り、氷の柱を叩きつらねたような音がした。姫様と私は、そのお方を仰いで声もなく立ち尽くす。

 好文比売命あやこのむひめのみこと。――あや様。

 あや様は梅の樹の女神であり、穢れなき少女神だ。ひとであれば十二、三歳ほどのそのおからだは半ば樹と混じり合い、半ばひとがたを保ったまま、森のような大樹を伸ばし眠っておられる。

 なめらかな黒髪はひろに長く、とばりのごとく枝々の間を垂れ、磔のように後ろへくくられた両腕の先は、脈々とした幹につながる。ほのかにふくらみ始めた乳房から腰をたどり、あわい茂みに至る胎のきわにて、ふたたび樹の根と化してゆく。

 ぞっとするほどうつくしく、けだかく、なまめかしくも恐ろしい、異形のお姿であった。


「……好文比売様」


 姫様はくずおれるように跪き、根と苔のうねる地を這った。私がお止めする暇もない。しゃにむに餓えた鬼のごとく樹を登り、嗚咽とともにあや様の幹へすがる。そうして幼子のようにむせび泣いた。


「あや様。……あや様。わたくし、あなた様にお仕えしたくて参りましたの。あや様のはなよめになりたくて参りましたの。わたくし怖い。おとうさまおかあさまの形代として、みすみすうつおなる身と果てゆくことが恐ろしい。そんなむなしい生を送るくらいなら、どうぞ、どうかあや様――わたくしをおそばに置いて!」


 姫様が叫んだ刹那、ざざん、ときわやかに波が鳴った。

 樹の根から大波があふれ出し、またたく間にあたりを洋々たる海とする。あや様も、姫様も、私のからだも悠久の歳月に沈みゆき、私には姫様のあかがねの御髪だけが、たったひとつ道を示す火のようにゆらめいて思われる。

 されどもいま、その姫様は目を失った獣のように狂い吼えていた。

 水底でも、断末魔がきりきり震えるようであった。姫様は身をよじり、目玉を開き、喉を掻いて激しくねじれ、身もだえする。ぼう、と姫様の肌が白く燃えた。

 否、燃えたのではなく、白百合が。百合の花がいっせいに姫様のおからだから芽吹いたのだ。舌、頬、のどぶえ、腋。みぞおちの肉も女陰ほとも指のはざまも尻の穴も、すべてを喰い破って百合の茎が。ましろな花が咲き乱れる。

 姫様は生ける屍のごとくよろめき、そして崩れ落ちる眼窩の隙間から、私を見た。


 あなた、わたくしが憎いのでしょう?


 と、姫様の目が語る。違う。そうささやくのは私の心。私は私をにくいと思い、私のこの境遇を、生まれを、持てなかったもののすべてを呪っている。殺して潰して掻き切って、ぼろぼろの灰になるまでなぶり果たしてしまいたいと。

 ああああ、と姫様の声が聞こえた。しゃがれた山姥のようになり、姫様は咲いた端から朽ちてゆく。消し炭のように塵となり、しかし、ふたたびその端からよみがえる。蔓のごとく茎が伸び、花が開き、あまい蜜を香らせては枯れてゆく。くりかえしくりかえし。

 これは終わらぬ。終わらぬ生の責め苦だ。ここに安らぎなどはない。


「――ひめさま、」


 私はとっさに手を伸ばし、よろぼう姫様の指を握った。花をむしる。千切りとる。姫様をこの責め苦から解くために。

 なぜなら私は姫様がなによりもにくらしく――そしてなによりも、おかわいらしくてならないのだから。


「好文比売様」


 朗と呼ばわれば、私の声は殷々と水にひびいた。私は姫様を腕に抱き、眠りゆらめく女神のお顔をきッと仰ぐ。


「あや様。どうぞ姫様はご寛恕ください。うつつの世にお戻しください。代わりに私が、あや様のおそば仕えとしてお侍りします。……私はただしく、姫様の形代となるべく育てられてきた身ですから」


 しろ、と姫様が呻いた。いくえもの芽吹きと衰退をくりかえし、穴だらけに縮んだお顔で。息をつき。喘ぎ。すがるように私を求めて手を伸ばす。

 琥珀の瞳から涙がこぼれ落ちる刹那、私は姫様の舌に宿った白百合を、抜いた。


 ざあん、


 と地揺れのごとき波がほとばしった。たたなづく波の波。山々を呑み込む土砂、あるいは雪崩のごとくそれは暴れ、私と姫様の卑小なからだを巻き込んで逆巻く。あおぐろく、底冷えの渦。深淵の谷へ放り込まれてゆくようなはてしなさの中、私ははるかなる天にひとひら、赤い椿のたゆたうを見た。

 すう、と小魚いさなのように小舟が渡る。老人が手を囃し、足を鳴らし、花を散らして先導する。


「よおいよい、こよこよ、よいよい、ておわせ、率ておわせ。らうたき姫君様がたを。とうときあや様のご命にて。しかとお還し申します、しかとお送り申します。よおいよい、こよこよ、よいよい、率ておわせ、……」


 凛々と澄む拍子と歌に送られて、私の気はやがてゆらゆらと遠ざかる。

 ただ、姫様のお手を離すまいとだけして、ほそい少女の指におのれの指を固くからめた。



 *



 ざざん、と騒ぐ波の音で目が覚めた。

 はっとして起き上がると、いまだ私は女神の玉座、うめの島に臥していた。

 だが、もはや海はない。あや様は元通り樹にいだかれた御身をさらし、白いかんばせをうつむけて眠っておられる。その下に、私に背を向け、姫様が膝をそろえて座していた。


「姫様」


 あざやかな御髪の流れる背を呼ぶと、姫様はふりかえらぬままにつぶやいた。


「……あや様は、あのような生を、生きていらっしゃるのね」


 それはすでに、あどけない少女の声音ではなかった。さびさびとした、おとなになりゆく女の声であった。

 そうしてふりむいた姫様のおからだには、もうどこにも百合は宿っていない。桃色の唇をしずかに結び、清冽なお顔でほほえんでいた。


「あれは、白百合の生きる生ね。とことわの時を生きる、花の生きざま。草木は、花は、いちど死んでもよみがえる。四季をめぐり歳をり、何度でも生きてゆく。はかないひとの生とは違う、悠久の一生だわ」

「ええ、姫様」


 そうであった。あの水底で、姫様はまさにその一生を味わったのだ。そばで見ていても凄絶な、奔放な、熱のかたまりのような生を。

 しかし姫様はその猛々しさもあまねく受け入れた顔をして、まぶたを伏せた。膝に一輪、残った白百合をそっと撫でる。


「あや様も、この百合の花と同じ。長くながく、とほうもなく重い生を生きていらっしゃる。……それはとうてい、わたくしのようなひとごときに背負いきれるものではなかったのね」

「――」

「あや様は、そのことを教えてくださったのだわ。きびしく、やさしく、そのためにわたくしを、ここまでお呼びになったのだわ」


 姫様につられて、私も女神のお顔を仰いだ。おだやかな風に吹かれるあや様は、なにも変わらず、穢れなきさまで眠っておられるだけに見える。されども姫様は、そこになにものかを見出したかのように笑っていた。


「わたくし、秋津野に戻ります。そして後宮に入ります」

「姫様。……それで、よろしいのですか」


 思わず問うと、姫様はせいせいとした顔をした。


「よいの。それがわたくしの生きる天分、生きる一生。与えられたその天分から、そこからは私自身が、生きゆく道を築いてゆくのよ」

「姫様」

「だから、しろ。あなたもおのれの道を生きて。わたくしの形代なんて、もうしなくてもよいの」


 そうして姫様は指をつき、ごめんなさい、と私ごときに頭を下げた。わたくし、あなたの身空も知らず、甘えたことを言っていたわねと顔をゆがめる。私はその御髪を梳き、かぶりをふった。


「姫様。姫様が頭を下げられることは、ございません。私とて、みずから選んで、姫様のおそばに在ったのですから」


 逃れようもなく育てられ、しかし私は、ほんとうに逃れるつもりはなかったのだ。逃れたいなら、いのちを賭してでも秋津野を出ればよかった。足掻けばよかった。

 それをせずこの歳まで生きてきたのは、私が怯懦で、そして姫様を思い切ることができなかったゆえのこと。私は姫様がにくらしく、されどもやはり、ずっと、おかわいらしかったのだ。


「ありがとう存じます、姫様。私も、私の生きる天分を探します」


 ふかく礼をとる私の背後で、遠くから、舟を漕ぎくるさざなみの音がした。

 おおい、と随身が櫂をやる。武人が舳先で袖をふる。秋津野の一行だ。どうやら、いずこかから舟を得て迎えにきたらしい。私は姫様と目を交わし、それから、立ち上がって手をふった。



 *



 姫様の病は癒え、私たちは無事帰途についた。

 屋敷のものたちは泣きむせび、姫様のご快癒をお祝いする。あいぎみもとき姫も、帰りついたむすめをしかと抱きしめた。すると姫様はやれやれという顔で笑み、こっそりと、そばで控える私にだけ見えるよう舌を出した。

 翌春、東宮そに宮が皇位に就いた。このときから御名を改め、常盤木天皇ときわぎのすめらみこととお成りになる。

 それに併せて後宮が選り抜かれ、秋津野のくれ姫もここに入内した。姫君はひときわうつくしく才気煥発、あかるく朗らかなひととなりで、すめらみことに寵愛された。のち春宮となる御子やふたりの姫御子を産み、ついに皇后の位を極める。

 このくれ姫のご尽力で、かつて仇敵であったの一族は和解を果たす。

 姫君はそれを見届けた直後十一月、もみじの散りゆくようにして身罷られた。御年三十八であった。みささぎは都の北東、清の海へ通じる途上の丘に築かれ、くれあやの皇后とおくりなされた。

 くれ姫は国の女神たる好文比売命をことのほか大切にされ、つねに参詣と奉納を欠かさなかった。崩御の際はそのご遺言により、白百合の株がひと茎、女神の元へ届けられた。いま、たかくらたる梅生の島には、そこから広がった百合の花が群生している。

 私は、かようなくさぐさの物語をこうして書き記している。私しろは姫様が入内した春に秋津野の地を離れ、髪を落として巫女となった。と名乗り、清の海に近い神のやしろで、あや様にお仕えする神弟子としてつとめている。

 そのうちに、手なぐさみとして物語をはじめたのであった。秋津野の地のことを、そこに生きたひとびとを、そしてくれ姫様のことを。私は書き、伝えたいと思ったのである。

 ゆえにこそ手のつたなさもかまわず、日々筆を執りつづけている。いずれ誰がこの物語を紐解くか、あるいは誰に知られねども、私はおのれの綴りゆくことばたちを遺したい。

 それこそが、私の築く生きる道である。



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