コッペリアの心臓
枕五味
コッペリアの心臓
幼馴染のハムスターを殺したことがある。
だいぶ昔のことだ。隣の家から脱走してきたらしいジャンガリアンハムスターが、郵便物を取りに行った僕の足元にたまたまいた。僕は黙って誰にも言わずにそれを自分の部屋まで持って行った。
元々クッキーが入っていた空き瓶に入れて、どうしようか考えた挙句、箸で突いたりした。
その後も色々やっていたら、やがて動かなくなった。死んだらしい。
怖くなった僕は家の近くの車道にハムスターを捨てた。
それから僕は小さな家族を探していたゆり子をその車道まで案内した。
既に何台かの車に轢かれていてハムスターはぐちゃぐちゃの赤い肉塊になっていた。
黒いアスファルトには赤い染みが出来ていた。
幼馴染のゆり子はその日一日中泣いていた。
僕は残骸を拾い集めると、ゆり子と一緒にお墓を作ってあげた。ハムスター君ごめんなさいと心の中で謝った。その時に横目でチラッと見たゆり子の泣き顔はとても可愛かった事を覚えている。
あれから何年たったかとか覚えてない。
ただそれをキッカケに自分のロクでもない本性に気付き始めていた。
最近はカッターの音が好きだ。安物のカッターを持ち歩いて、誰も居ないとこで刃を出してしまってを繰り返し、こっそり音を聴いている。
カチカチ。カチカチ。
今日の朝も自室で日課の様にカッターを鳴らしていた。銀色の刃がきれいだ。
「一心。ゆり子ちゃん来たわよー」
一階から母親が呼びかけてきた。
僕はすぐカッターを筆箱にしまって、窓の外を見た。ゆり子が外玄関からこっちに向かって大きく手を振るのが見えた。
朝は彼女と一緒に登校する約束だ。
僕は直ぐに家の階段を降りると「いってきます」とだけ言い残してさっさと外に出た。
最近、子供が誘拐されるなどの物騒な事件がこの地域の近辺で起き、子供たちの集団での登下校と監視が強化された。
僕とゆり子が中学2年になっても一緒に登校してるのはそういう理由のためだ。
「おはよう。遅いっ」
ゆり子は口をへの字にして待っていた。
「朝は弱いんだって」
取り繕う様な言い訳をする。
今の関係は嫌いじゃない。
住宅街から学校へ向かう途中には小さい商店街がある。
早い朝は灰色のシャッターまみれの道だが、下校時にはとても賑やかになる。
だけどあの店だけは違う。僕はこの店がとても苦手だ。
骨董屋。
隅の隅にあるこの店は閉店していてもシャッターは降ろさない。昼も夜も室内が薄暗いのに店主の爺さんがいる奥の部屋だけテレビの明かりでぼんやり光っている。およそ僕にとって無価値でしかない古臭い物の塊で満ちた店が、なんで僕が生まれる前から今まであるのかとても謎だ。今日もこの店の前だけは足早に通り過ぎたくなるくらいの不気味な空気が漂っている。
だけどゆり子はこの店が好きだった。
ゆり子はこの店に近づくと、店主が居ないのを確かめてから店の奥をじっと見つめ始めた。やがて挨拶する様に手を振る。これがゆり子の日課だ。
これが嫌だからちょっと遅れて出るんだけどなぁ。
「飽きないなぁ」
嫌味を効かせていじってみる。
「だって、かわいいんだよ。それに生きてるみたいだもん。」
そういうゆり子の視線の先にはいかにも古臭い人形がある。金髪で碧眼の人形だ。古臭いものの中であの人形だけは異様な雰囲気を放っている。それがまた気持ち悪い。
売り物ではないらしく、丁寧にほこり一つ被らない様に店の奥に飾られている。
「そろそろ行こう」
僕は数歩だけ足を学校の方向へ進めた。
「うん」
ゆり子はおとなしくついて来る。二人で学校に向かって歩き出すと、不意に背後から小さく扉の開く音がした。ゆり子は気づかなかったらしい。僕は少しだけ振り返って背後をのぞいてみた。
皺くちゃで乾いた皮膚をした老人がこちらをじっと見ていた。
学校。学校はつまらない。学校の休憩時間、光に群がる虫みたいにうじゃうじゃと人間たちが1つの場所に固まろうとする。どいつもこいつも集団に混ざるのに必死だ。
「あいつよりあいつのが凄いからあいつに近寄ろう」とか、「あの集団はアホばっかりだ」とかそんな話をちらちら聞く。聞きたくなくても勝手に耳に入ってくるのだ。勝手に学校の中にカーストがあると妄想している連中が多くて疲れる。
傍目から見てると全員アホらしいので、僕はいつも休憩時間は文庫本を読むか寝るかをしている。そんなことをしているから友達が出来ないんだと誰かが囁いたような気がするが、僕は構わず腕枕を作って視界を遮り、手頃な大きさの暗闇に意識を集中させて眠った。
しばらくしてからハッ目を覚ますと教室は夕焼けに染まって真っ赤になっていた。無人の部屋には僕が独りきりで取り残されている。チャイムの音も廊下に響く上履きの音も何もない。ひどく静かな学校の中、僕は慌てて帰宅の準備を始めようとした。しかし背後に不気味な気配を感じ、咄嗟に振り返った。
黒い影が立っている。じっと僕を見下ろしている。顔の形も髪型も何もかもが影に潰れていて表情がまったく読み取れない。ただ二つのガラスのような瞳が僕の瞳孔を除きこむように睨んできていた。
黒い影の、人間でいうとちょうど口のあたりの部分がもごもごと動いた。
「あの、あのこ…なまえが知りたい…」
ひどくくぐもった声だ。まるで、喋ることに慣れていないといった感じだ。
誰の?聞き返そうとしたが、何故か声が出なかった。身体が硬直してしまっている。夕焼けの赤い色はもはや視界からは完全に払拭されていて、僕の目には影の黒とガラスの青と灰色だけが映っている。
「おまえの…からだをゆずってくれよ…」
気持ちが悪い!吐き気を催すほどの嫌悪感を感じた僕は、考えるより先に影に向かって拳を放った。
拳が相手に届くよりも先に目が覚めた。
夢だったのか…体はじっとりと嫌な寝汗をかいていた。
お前の身体を譲れ。不気味な声にたたされた鳥肌は一向に治まらず、その日の授業はまったく頭に入ってこなかった。
夕方六時ごろ、僕は一人で家に帰っていた。ゆり子は友人と約束があるからと別で帰った。つまんないなぁ。
二階の自室で、誰も入ってこない様に内側から鍵をかける。カーテンも閉めてから、机の引き出しを開けてカッターを取り出した。
陰湿だなぁと自分で思いつつも、やめる気はない。
カッターで使っていないノートに適当に傷をつける。発泡スチロールはゴミが散らかるし音が嫌でダメだった。油粘土はカッターが汚れるし重くてつかれる。紙粘土はキレやすくて良いけど乾くのが早い。ノートが今のところ一番手軽だった。
そういえばアプリゲームのイベント周回やらないとなぁとかぼんやり思っていると、部屋の扉をノックする音が聴こえた。
「一心、ゆり子ちゃんが今どこか知ってる?」
母親の声だ。僕はカッターを眺めたまま扉に向かって大きな声で返事をした。
「女友達と一緒に帰るって言ってたけど。友達の家じゃないの?」
「違うみたいなのよ。それで、ゆり子ちゃんが帰ってこなくてお隣のお母さんが心配してるみたいなの」
「とにかく僕は知らないよ」
そう返事をしてから思い出した。そういえば骨董屋の爺さんがゆり子の事をじっと見ていたな。
あの粘ついた視線を思い出したら妙に気になった。何もないと思うけど。
僕は手近な私服にサッと着替えると部屋から出た。お母さんがちょうど階段を降りるところだった。
「あら、どうしたの」
「ゆり子を探してくるよ」
ひょっとしたらいるかも。そしてら探す手間は省けるけど気は進まないなぁ。
とかなんとかかんとか考えながらあの骨董屋に向かった。
時刻は午後六時半。周りの店はそろそろ閉店支度をし始めている普通の商店街だが、骨董屋だけはいつも通りだった。
店の中を覗いてみる。奥から青白いテレビの明かりだけが漏れている。ゆり子はあそこかなと思い、ドアに手をかけるが、ドアは開かなかった。閉店しているのか。
せめてゆり子の行き先だけでも知らないものかなと思ってショーウィンドウを覗いて店の主人を探した。
あれ。あの人形がない。
いつもこっちを凝視してくる不気味な人形がない。僕はなんとなく妙な胸騒ぎを覚えた。
どうにかして入れないだろうか。そういえばこの店に裏口があるかもしれない。僕は店の周りを歩いて裏口がないか探した。
しかし不気味だ。ここは商店街なのに、なぜかこの店の周辺には人がいない。
店のちょうど裏手に鉄製の扉を見つけた。塗装が剥がれ錆びて赤茶色になった鉄の表面が所々にカサブタのように見えている。そのドアは薄く開いていた。不法侵入とか言われるだろうけど、こちとら未成年だしまぁ大ごとにはならないだろう。僕は軽い気持ちで骨董屋に初めて足を踏み入れた。
店の奥から正面まで歩いてみるが、誰もいない。誰かがいそうな気配すらない。ひどく暗くて足元も気をつけないとすぐ転んでしまいそうだ。骨董品独特の古臭い匂いが部屋いっぱいに充満している。帰りたいなぁ。
誰か居ませんか、と声を出そうとした時だ。
いつもテレビの灯りでチラチラ光って見える居間のような部屋、そこにはテレビと卓袱台と照明と畳が敷いてあった。なんとも平凡な部屋という印象だが、一枚だけ畳が壁に立て掛けてあった。元々畳が敷いてあったであろう部分には茶色い床の地の色が見えており、さらにその床には正方形の隠し扉のような物があった。
暗い部屋にその正方形の隠し扉の輪郭がぼんやり光って浮かび上がっている。
早く行け。
心の中で誰かの声が聞こえた気がした。
僕は好奇心なのか慢心なのか使命感かわからないが、とにかくその扉を開けて向こう側へ向かった。
じっとりとした湿っぽい嫌な空気が流れている。
上の店の様子とはまた違い、カビ臭いような匂いとお香の匂いとが充満している。
思わず口元に服の袖を持っていき、肺に入れる空気をなるべく綺麗にしようと試みた。
上からは発熱電球が頼りない灯りを地面に落としている。いつの時代のものなのか、地下通路は床は地面で壁は木製だ。穴を掘り、トンネルを強化するためにとりあえず木を打ち付けたようにも見える。そのため通路の先は歪んでいた。
僕は音を立てないようにそろそろと歩いて進んだ。見つかったらどうしよう、ではなく見つけたらどうしようということばかり考えている。
十数歩あるいた先、左右に古い扉が現れた。
左は南京錠が付いていたが、右の扉には何も付いておらず、中からお香の煙のようなものが漏れていた。いかにも怪しげだ。
僕は意を決して扉を少しだけ開けた。難なく開いた隙間から部屋の様子を覗き見ようとする。
ゆり子が泣いてうずくまっていた。
口はガムテープで塞がれており、目は固く閉じている。足首と後ろに回された腕にもガムテープが三重に巻かれていた。恐怖のあまり体を動かすこともままならなさそうだった。気がついたら僕は勢いよく扉を蹴飛ばしていた。
部屋の中は白い靄で一杯で視界は良くない。やってしまったと心の中で舌打ちをしながらも、僕はゆり子の元へ駆け寄った。ゆり子の傍で屈むとポケットに忍ばせたカッターを素早く取り出して、彼女の腕に巻かれていたガムテープをビリっと裂く。ゆり子は僕の存在に気づくと目を涙で一杯にした。なんとも可愛い顔だが、眺めている暇なんてない。僕は背後と部屋全体を確認した。
床全体には1つの大きな円形が描かれており、その内側には中心に向かって文字のような変な模様が渦を巻くように書かれている。魔法陣のようだ。中心にはあの気持ちの悪い人形が椅子に座っているように飾られていた。壁には多くの棚が雑然と設置され、古そうなツボや箱がパラパラと置いてある。そのどれもが酷く汚れていてとても高そうには見えないし、少しずつ中身がはみ出て見えているものがいくらかあった。赤黒いあの中身はなんだろうか。
ツボの中身について考えてしまったその隙に、骨董屋の爺が煙の中から唐突に現れた。実際に間近に見ると体は僕よりも大きい。皺くちゃで人畜無害そうに見えた朝の時の顔とは違い、目尻は持ち上がりぎょろりとした目は充血している。一目でわかるぐらいに右腕に力を込めており、肩をわなわなと震わせている。視線を右手に移すと、爺はぎらぎらと輝く万能包丁を握っていた。怒髪天といった様子だ。
「ゆり子、逃げろ!」
僕はゆり子の足のガムテープをカッターで裂き、体勢を爺に向けて整えた。
「ああおおおっ」
おぞましい獣のような咆哮とともに爺は年齢に合わない素早い動きで僕に向かって飛びかかってきた。
僕は近くの棚から適当に壺を掴んで爺の頭にめがけて思い切りぶつけた。爺の軌道は逸れて僕のすぐ左に倒れ込んだ。ぶつけた拍子にツボは粉々に砕け散り、中からブヨブヨした赤い物体と液体が飛び散った。たぶん内臓だ。誰のものかは知りたくない。
爺は頭を抱えて呻いたと思うと、ピクリとも動かなくなった。失神したのか?
「いやぁぁ!」
ゆり子が酷く怯えてしまった。僕はすぐに立ち上がるとゆり子の左手を掴んで立たせた。そのままゆり子をカッターで傷つけないように、抱くような形で体を支えた。ゆり子の体は小動物のように小さくて震えている。
僕はなるべく落ち着いた声音で言った。
「大丈夫だ。逃げよう」
ゆり子の涙でいっぱいの目元を僕は袖で軽く拭ってやった。頭を撫でてやると、すこし落ち着いてくれたらしい。
「う、うん」
安心してくれたようだ。ゆり子の顔は涙でぐしゃぐしゃだ。顔は興奮で赤く染まり、目は水で洗ったかのように潤んでいる。 すごく、かわいい。
いやそんな事は後だ、僕はゆり子を連れて部屋を出ようとした。しかし左足に違和感を突然覚えて、体勢を保てなくなり膝から崩れ落ちてしまった。突如襲う鋭い痛み。
しまった!すぐに振り返った。爺が半身だけを左腕で支え、右手で持った包丁を僕の左足に突き刺したのだ。
「ゆり子!左に向かって走ればすぐに出口だから、行け!」
「一心...!」
「走れよ!大丈夫だから!」
僕が背中を強く押すとゆり子は駆け出した。彼女が扉を出たのを見届ける間もなく、爺が容赦なくかけてきた体重のせいで僕はその場に倒れ伏してしまった。体を捻って爺と向き合う体勢を取ろうとした。爺の顔は真っ赤に染まり、頭からは血が小さな噴水のように吹き出している。ギラギラと輝く目は僕の事をしっかりと睨みつけて離そうとしない。血気迫るその迫力に気圧されそうになる。
「こうなったらお前を...」
爺が何か意味深な言葉を呟いた。嫌な予感がする。僕はもう迷う事なくカッターを爺の喉に突き刺した。そのまま一線を書くように刃で肉を切り裂く。さらに多くの出血。ああ、人の肉を切るってこんな感じなんだな。ハムスターとはやっぱり違うや。
喉から川のように流れる血を必死で手で抑えようとする爺を蹴り飛ばし、腕を使ってなんとか距離を取ろうとした。爺は「あ、お、....」と声にならない悲鳴を漏らし、腕を人形に伸ばした。人形のガラス製の青い瞳に爺は写っていない。人形は僕の方をじっと見ていたからだ。
やがて爺は力尽きたようで、腕を落とした。はずみで血の池の汚水が跳ねて僕の足にかかる。終わった...。
一息つくまで待ちたくない。さっさとこの部屋から出ないと。ところで僕の、足は...結構出血していた。
やばくないか?
気がついた途端目の前が暗くなった。力も入れられず、立ち上がれない。
「うぐぐ....」
体が痺れて動きが取りにくくなり、また倒れてしまった。息がしにくい。出血が多すぎる。ゆり子が救急車を呼んできてくれてたら、何とか助かるかもしれないと祈ろう。大丈夫だ。爺さんは死んだ。もう何も起きないはずだ。僕は足の出血を抑えられないかと思い、身を起こそうとした。
すぐそばでゴトリと音がした。
反射的に音のした方を見ると、人形が椅子からころげ落ちていた。おかしい。さっきまで椅子の上に綺麗に置かれていたはずだ。考えを巡らせる間もなく、人形は動き出した。中に機械が入ってるような動きではなく、生物的な動作で身を起こす人形。モーター音の類は聞こえないが、硬そうな皮膚が動くたびに関節がカチャカチャと擦れ合うような音が聴こえる。ガラスの目は僕の事をしっかりと捉えている。
「なん...」
なんだお前。
「あの子の泣き顔を初めてみたけど可愛かったね」
ぼんやりとしてきた頭の中に男とも女とも言えないようなやけに中性的な声が直接聴こえた。耳鳴りがしているのにハッキリと聞こえてくる声はひどく不気味だ。人形の口元はもちろん動いていない。
「ゆり子って言うんだね」
人形はこっちに向かって歩いてくる。人形の目を見るのに夢中で、もう僕は指一本動かせずにいた。こっちに来るなと言おうとしても、体が痺れてろくに喋れない。
「ゆり子と仲良くなりたいんだ。あとはもう何が言いたいかわかるだろ」
ギラギラと光る人形の目が僕を捉えて離さない。今すぐここから逃げ出したいのに体はもう動かせない。僕は深い眠りについてしまった。最後に見たのは、人形の君の悪い瞳と、ぼんやりと青白く光る魔法陣の模様…。
思わず、会場から逃げ出してきてしまった。
お気に入りの場所、夕焼けで赤く染まる川に架かる、車線二本分くらいの幅の小さなコンクリート製の橋。
そこに申し訳程度にある歩道の真ん中にあたしは立って、ぼんやりと川に映る日の光を眺めている。
幼馴染の一心の葬式。あたしの命を助けてくれた恩人の葬式。会場にはあたしの家族と、一心の家族と、一心のクラスメイトがちらほら来ていた。一心は極端に人付き合いがなかったためかとても小人数だった。
クラスメイトたちは無表情なままに棺に花を添えて行った。あたしも添えたけど、内心馬鹿馬鹿しくて仕方なかった。だって、棺の中は空っぽだもの。
一心の遺体はほとんどが見つかっていないらしい。
あの恐ろしい店から逃げ出した私は直ぐに近くのコンビニに駆け込んで、救急車と家族を呼んでもらった。しかし、現場には一心の遺体はなかったそうだった。
その後、警察が捜査を行っていくと、体の一部、目が見つかったらしい。
それから行方不明扱いになるでもなく、一心は死んだものとして処理されたそうだった。あたしはそこから先は詳しくは知らないし知りたくない。
悔しくて仕方がなかった。だって、あたしがお爺さんの口車に乗せられてさえいなければ、こうはならなかっただろうに。今思い出しても気分が悪くなる。あのお爺さんの血走った目に逆らえなくて、お店に吸い込まれるように入ってしまった愚かな私。体が固まって逃げられないあたしを支えてくれた一心の温かさと心臓の音。
死んでしまいたい気持ちだ。夕日の光が眩しくて、手のひらで作った小さな闇を目に当てた。
何も見えなくなれば少しは落ち着くかと思ったが、逆に自分に対するざわざわとした嫌悪感が増すだけだった。
「大丈夫かな」
不意に右隣から優しそうな声が聞こえてきた。
「ゆり子…さん?」
名前が呼ばれたということは、私に声をかけてきたんだろう。気分は乗らなかったが、無視するのもバツが悪かったので、あたしは恐る恐る声の主を確認した。
彼は金髪碧眼の美少年だった。身長と体格は一心と同じくらい。同じ生き物とは思えないくらいに整った綺麗な顔立ちで、日の光を浴びた金の髪は比喩ではなくて本当に輝いていて、瞳はガラスのように透き通っていた。
二つのガラス玉ような瞳の奥にある深くて暗い穴があたしのことを真っすぐ狙っているように思えた。
「だ、誰」
名前を呼ばれたが、あたしはこの少年のことを全く知らない。相手に向き直って、後ずさりをして思わず警戒態勢を取った。
「あ、ごめん。怖がらせるつもりはなかったんだ。いきなり君が会場から飛び出したからさ、心配になって追いかけたんだよ。会場で僕の事に気づかなかった?一心の友人なんだけど」
相手はこちらの警戒を解きたいのだろう、丁寧に優しく声をかけてきた。
「わかんない。ごめん」
相手から視線を逸らして、気遣いに反するようにあたしは素っ気なく言葉を返した。とても今はだれかと会話する気分じゃない。
でも、ひとつだけ引っかかる事がある。
「なんであたしの名前知ってるの?あたしは貴方のこと知らないのに」
そう。あたしはこの人のことを知らない。一目みたら到底忘れられそうにないくらいの印象を放つ人物なのに。
「ああ、一心から聞いたんだよ。僕のことは聞いてない?」
「聞いてない…。」
「じゃあ自己紹介するよ。僕は心音(しおん)だ。よろしく」
あたしは、心音と名乗った少年の顔をもう一度見た。やっぱり知らない顔だが、ふとどこかで見たような感じを覚えた。
「お人形さんみたいな顔だね」
そう、あの骨董屋で見たあの人形だ。ガラスのような青い瞳が特に似ている。
「人形じゃないよ…」
相手は複雑そうな顔をして答えた。悪いことを言ってしまっただろうか。
「不愉快なこと言っちゃってたらごめんね…」
「いや、良いんだ。それより、ゆり子さんも大丈夫?顔色悪いよ。会場まで一緒に戻ろうよ。」
「うん、ありがとう。」
心音が手を差し出してきた。あたしは何も考えずに手を乗せた。すると、心音はあたしの事を引き寄せるようにぐいっと腕を引いた。
「うあっ」
足のバランスを崩してしまい、あたしは心音の胸元に飛び込むように転んでしまった。心音はあたしの体を難なく、傷つけないように受け止めてくれた。
「おっと、ゴメン。力が強すぎたみたいだ。転ばせるつもりなかったんだけど。」
「うん、大丈夫だよ…。」
体勢を立て直そうとしたが、体が固まって動けなくなった。心音の温かい胸元を通して、とくんとくんと心臓が鼓動する音が聞こえてくる。
「あたし、この音を知っている気がする。」
懐かしい音だ。つい最近聞いた音だ。心臓の音に個性があるなんて到底思わないが、あたしは絶対にこの心臓の音と同じ音を持つ人を知っている。
「そっか」
心音は落ち着いた声で返事をしてくれた。ちらっと見上げた心音の顔は、影に塗りつぶされてどんな表情をしているのか見えなかった。
ただガラスのような瞳が私の顔を覗きこむようにこちらを見ていた。
不意に、どこかからカチカチというカッターの音が耳に入ってきた。
コッペリアの心臓 枕五味 @makuragomi
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