一.迫る殺気


 代金を払って外に出たら、厚い黒雲が空を覆っていた。濃い雨の気配に、ラディアスはついつい重く息をつく。

 水が弱点になる風属性ということもあり、彼は雨天が好きではない。


「雨宿りにしろ、このコの診断にしろ……、改めて宿取った方がいいなー」


 できれば、多少高くても安全で信頼のおける宿に。

 昨晩はかなり飲み過ぎたため、品定めが億劫おっくうだったのだ。だから歓楽街にほど近い、安くて少し寂れた宿を選んだ。

 強盗や詐欺に遭っても、気づきやすいように逃げやすいように。

 精霊魔法の使い手としては自信があるだけに、深夜の来訪者に気づけなかったのは正直ショックが大きい。いつもなら精霊たちが騒いでくれるのに。

 相手の目的が金や命だったら大変だったと思い、そうでなかったから精霊たちも静かだったのだと気がついた。


「こんな不甲斐ない男に預けるには、ちょっとばかり貴重品すぎやしませんかー……?」


 口に出してみたが、届くとは思っていない。

 置き手紙を残すくらいだ、手放さざるを得ない状況だったのは想像できる。逆を返せば、今確信を持って言えるのはそれだけ、だが。





 ぽつ、と頬に雫を感じた。

 見上げれば、重くなり過ぎた雲の屋根が、とうとう雨を吐き出し始めたらしい。


「やばいなぁ……」


 いい加減飽き飽きな、本日何度目かのため息を噛み殺し、外套がいとうのフードを被ろうと手をえり元に掛けた瞬間。

 何かとてつもなく濃い殺気を感じ、とっさに飛び退いた。

 変化はない――少なくとも目に見える範囲内では。

 だが殺気は消えるどころか、ますます密度を増していく。


「……やっば」


 移動魔法テレポートを唱えようとして気がついた。魔法が封じられている。殺気の正体は、これだ。

 魔法使いにとって致命的な状況だが、慌てた素振りや隙を見せれば、途端に斬りつけられるに違いなく。

 杖を持たず帯剣しているラディアスの格好から、相手はこちらが剣士かもしれないと警戒しているのだ。――実際は、見かけ倒しで全く扱えないのだが。

 それをわざわざ相手に知らせる必要もない。


 闇魔法の【魔法封じシーリング・ルーン】の効果は三分。

 そんな長い時間を剣で凌ぎきる技量はない。ラディアスは取れる手段をざっと思い巡らせ、意を決して荷物を思いきり空へ向けて放りあげた。

 同時に、両腕を竜の翼に変える。全身が発光して輪郭が揺らぎ、溶けて固まるように翼竜ワイバーンの姿が現れた。どこかで舌打ちするような音。

 落ちて来た荷物を攫うようにくわえ、羽ばたいて一気に急上昇する。ちらりと眼下に視線を向けたが、やはり追っ手がどこにいるかは判らない。


 飛び道具を持っている可能性もあるが、伊達に竜の部族と呼ばれているのでもない。飛ぶのは不得手でも逃げるだけなら何とかなるだろう。

 それに相手の慎重な行動からして、空模様の悪い日に翼竜に空中戦を挑むような無謀な奴ではなさそうだ。飛行魔法が使えたとしても今は追って来ないだろう。


 【魔法封じシーリング・ルーン】が効力を失うまでの三分ほど。青灰色の翼竜は本格的に降り出した雨の中、墜落しないよう必死に翼を羽ばたかせるのだった。






 へくしっ、とくしゃみしながら、森の中でようやく見つけた岩の間に潜り込んだ。全身を濡らした雨水は、人型に戻ればじっとりと衣服に染み込んで体温を奪う。


「医者の不養生、なんてね」


 一人呟き、苦笑する。

 濡れきった外套を脱ぎ、広げる場所もないので丸めて隅に押し込んだ。上着も脱いで、こちらは荷物の上に広げて被せた。

 懐からタマゴを出して、両のてのひらでそっと包んでやる。

 肌に直に触れていたため思った程は冷えていないが、これが翼族ザナリールのタマゴであれば温度は足りない。いや、それ以前に自分が冷え過ぎてヤバイ。


「どうして、俺なの?」


 低く囁いて、ラディアスはタマゴをそっと頬に当てた。

 遭遇した相手がこれを狙っていたのかは、分からない。殺気は感じたが殺意があったのかも、分からない。……確かめる余裕など、なかった。


「愛してください、かぁ」


 旅医者という職業柄、預けた相手が自分を知っている可能性もある。

 候補が多すぎて絞りきれないが。


 ――もう、生きてないかもしれないな。


 漠然と思って、目を伏せた。頬にじんわり感じるほのかな温もり。

 加えて自分の内側にうずく、嫌な熱をも自覚する。


「やば、無理しすぎたかも……」


 ぞくぞくと寒気がするのに、てのひらと耳の後ろだけが変に熱い。軽く熱が出ているのかもしれないが、街に戻って宿を探す気にもなれなかった。

 荷物――大きめの革製バッグの中から、鎮静剤の小瓶を取り出し開ける。つんと酸味が強く香る液体を一気に飲み干して、地面に仰向けに寝転がった。

 口の中で呟くように魔法語ルーンを唱える。軽い病なら治せる治癒魔法だ、あとは体力回復のため少しでも眠れれば。


「……やばいなー」


 どうにも今日は、朝からそればかり呟いている気がする。

 脳内のどこかで寝ては危険だと警告が聞こえていた。それでも、抗うことができないほど身体のほうが消耗していたのだろう。

 ラディアスの意識は、いつの間にか途切れていた。


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