ベンチは、歌はお好きかな

亜峰ヒロ

ベンチは、歌はお好きかな

 静まり返った夜が過ぎると、青いツナギのひげ爺さんが門を開けに来る。オークの落ち葉はわちゃわちゃと、あちらこちらで纏まりながら、裸ん坊の樹に戻りたそうにしている。

 ぼくは息を吐いた。みんなが体を擦り合わせる空の下なのに、ぼくの息が凍ることはない。なぜなら、ぼくの息というのは、樫の木に塗られた緑のペンキが、ほんの少しだけ空に溶けていくだけのものなんだから。大きな公園の第十五号ベンチ、それがぼくだった。

 太陽ソレイユが細々と街を暖め始める頃になると、いつもと変わらない格好で男はやって来た。くたびれたトレンチコートのポケットに左手を突っ込み、右手には真鍮のフルートを握っている。彼の肌は煤にまみれてテカテカしていた。フルートは太陽を浴びてペカペカしていた。

 ぼくの前まで来ると、男は落ち葉を蹴散らすことをやめて、こちらに向き直り、

「おはよう」

 ぼくに声をかけた。

「おはようさん」

「掛けてもいいかな?」

「ぼくはベンチだよ? 座られることがベンチの生きがいだ」

 樫の板がほんの少しだけ撓む。ぼくは力んで、男の体を受け止めた。

「もうひとつ言わせてもらえれば、ベンチはね、座ってくれた人がサンドウィッチを食べたり、微睡んだり、お喋りをするのを見るのが大好きなんだよ」

 男はちょっと困ったように考え込み、ポケットに突っ込んだままだった左手を外に出した。

「ベンチは、歌はお好きかな?」

「大好物だ。だけど、しみったれた歌は止めておくれよ?」

「それじゃ、陽気なのを」

 男は静かに目を瞑り、それからフルートに冬を吹き込んだ。フルートが歌い出す。初めにひとつの音が響き、続いて別の音が飛び出す。ばらばらの音が次から次へとフルートから飛び出して来ては見事なまでの旋律に代わり、冬空に溶けていく。

「あぁ、いい曲だ。誰の曲だい?」

「ジョンを知らないのか? もの知らずなベンチだ。イギリスの歌手だよ」

「イギリスか、大丈夫なのかい、イギリスの音楽なんか演奏して」

「いいものは、いいものだよ。でも、そうだな。キミが気になるなら別のにしようか。どうだい、これは知ってるかな?」

「バカにしてくれて。ルートヴィヒだろ?」

 御名答だと男は目配せして、またフルートを吹き始めた。

 陽気な曲から始まった一人と一台の音楽会は荘厳な曲に続き、物悲しくなり、艶やかになり、突如として挟まれた怒声によって終わりを迎えた。無粋な横入りにぼくは唖然として、男もフルートから唇を離した。

 ぼくらの前には、山高帽を被り、フルートの男とは格が違う上質なトレンチコートを着込んだ、背高のっぽの男がいた。背高のっぽの貌は恐ろしいほどに特徴がなくて、こう、目を瞑ってから、さてどんなだっただろうと思い返そうとしても、何も浮かんでこないのだ。外見を取り繕おうとして付け加えられた薄ら笑いだけが浮かんでくるが、それも喉を荒々しく震わせた後では台無しだ。

 背高のっぽはぼくらをジロリと一瞥すると、鶏みたいによく響く声で告げた。

「今日からベンチに座るのは禁止だ」

 あまりに突拍子のないお触れに対して、フルートの男は言葉を聞くや否や立ち上がり、トレンチコートの裾でぼくを拭いた。背高のっぽは満足そうに頷くと第十六号ベンチの方に歩いていくのだった。

「おい、おい。何だってそんな馬鹿みたいに従うんだ」

「あの方は男爵様だ。あのお触れは男爵様の上の上の、さらに上の、この国を治めておいでになる御方が出されたものだ」

「だからっておかしいじゃないか。ベンチは座るためにあるのに」

「偉い御方がそうしなさいと仰るんだ。きっとそれが正しいんだろう」

 その日の音楽会はそれでお開きになった。ぼくは最後までそんなことあるもんかと漏らしていたけれど、男は「偉い方が仰るんだから」の一点張りだった。それでも次の日になれば、男は古びたトレンチコートを着込んで、ペカペカのフルートを持ってぼくのところにやって来る。ぼくに座ることはできないから、春になれば芝生になる土の上に腰を下ろしてフルートを吹き始めた。一曲終わってから立ち上がると、男の尻は泥だらけのメイクだった。ぼくも男も大笑いしたものだ。

「そこらの落ち葉を敷いてごらんよ」

 落ち葉を敷き詰めればふかふかの絨毯だ。どうだい? 貴族様だってこんなに素敵な絨毯は知らないだろう。貧しい人達だけが知っている絨毯さ。

 ところが、ああ、男爵様は意地悪だ。男爵様の上の上の、さらに上の御方は情がない。

「芝生の上に座るのは禁止だ」

「男爵様、今は芝生じゃございません。土があるだけでございます」

「その土の中に芝生の種が埋まっているのだ。禁止ったら禁止だ」

 せっかくの絨毯は用済みになってしまった。

 フルートの男は次の朝もやって来た。今度は裸の樹にひょいひょいと登り、枝に腰かけてフルートを吹き始めた。何てことだろう、そいつも禁止だ。

「樹に登るのは禁止だ」

「砂利道に入るのは禁止だ」

「煉瓦道を歩くのは禁止だ」

 禁止、禁止、禁止、禁止ばかりが増えていく。それでもフルートの男は「偉い方が仰るんだから」と従うのだ。そして、遂に公園は立ち入り禁止になってしまった。もうフルートの男がやって来ることはないのだと思うとなかなか起き出す気になれず、太陽が昇っても、ぼくは目を瞑ったままだった。

 落ち葉が砕ける音がする。土塊が砂粒に崩れる音がする。随分と遠くから聞こえていた音は次第に大きくなり、近付いてきて、ぼくの前で止まった。

「どうしたんだい? 禁止は守らなくてもいいのかい?」

 くたびれたトレンチコートはいつも通り、煤にまみれた手も、だけどフルートだけはそうじゃなかった。ぼくと男の音楽会の立役者だったフルートは、いなくなっていた。

「そうか。フルートも禁止か」

 男はそうだとも違うとも判別の付かない声で呻いた。

「その禁止も従うのかい?」

 男の無精ひげが動く。何かを一息に吐露してしまいたいようであり、何とか呑み込んでいるようでもあったが、男はぐっと息を吸った。

「偉い御方が禁止だって言うんだ。従わなくちゃいけない」

 だけど、と続けられた。

「ぼくはやっぱり、フルートを吹きたい」


 その日の夜のこと、公園の空には真っ赤な花が咲いた。そいつはヒガンバナだ。

 花は花らしく、重力を真下に見ながらふったらふったら落ちてきて、裸ん坊のオークに真っ赤な外套を着せていく。オークは初めこそ温かそうにしていたけれど、次第に「熱い熱い」と喘いで、呻いて、遂には物の言えない涅になってしまう。

 ヒガンバナは乱暴者だ。いいや、違うのか、ヒガンバナはヒガンバナだ。

 彼女を乱暴者に仕立て上げてしまったのは、あの背高のっぽと同じ人間だ。

 そろそろ僕も息苦しくなってきた。ヒガンバナはいつぼくの上に落ちてくるだろう。芝生の種が埋まった土が大きく持ち上がり、ぼくに被せられる。視界は遠くなり、バリバリして、チカチカして、ヒガンバナも色褪せる。フルートの男はどうしているだろうかと気になり、あの音色を探して耳を澄ます。禁止はまだ続いていた。


 ヒガンバナの夜が終わってからも、ぼくは変わらず太陽を浴びていた。周りはみんな真っ黒になったのに、ぼくだけは太陽の下であくびをしていた。あれから何度もヒガンバナが降ったけれど、ぼくは変わらず太陽を見上げている。第十五号ベンチは第一号ベンチになっていた。

 ジョンを聴きたくなった。ルートヴィヒを聴きたくなった。だけど相方はいなかった。

 禁止はいつ終わるのだろう。


 うんと時間が経った。ベンチはカレンダーなんて捲らないからどのくらいかなんて分からないけれど、それでも、うんと時間が経った。微睡んでいたぼくは、樫の板が軋んだことで目を覚ます。

「ベンチは、歌はお好きかな?」

 おや、もう、人間というのは時が経つと変わるものだ。

「掛けてもいいか、聞かれてないよ?」

「それはそれは。お詫びにジョンを弾くとしよう」

 あぁ、フルートは変わらない。

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