双狼の棲む山

星屑

双狼の棲む山


 

   

 

 

 

 ─リィン─リィン─

 

 白い森に高い鈴の音が響く。真っ白な世界にただ一つ一点だけ存在する灰色はゆらりゆらりと揺らぐ。

 

 「ワォーン」

 

 “それ”は狼であった。灰色の毛並みに月色の目をした気高き狼であった。そして“それ”はひと鳴きして、その場に倒れ込む。

 

 

 ぼふんとその重さで白がまう。白は次第に赤へと染まり始める。それの腹のしたから白をかいて出てきたのは灰色の毛並みに紅月の瞳をした子狼だった。

 

 

 「ウォン?」

 

 動かなくなった月色に、紅月は寄り添う。やがてその毛も赤く染まり始めて、やっと“彼”は自覚した。

 

 


 赤と、白。悲しいその色の中に消えゆく灰色。小さな小さな紅月は月を探す様に空を見上げ耳を伏せ大きく口をあけて。

 

 

 

 「ウォォーン…ウォーーーーン」

 

 遠吠えをする。それは間違いなく死を悔やむ音だった。白の世界にひびくその音はどこまでも遠く、果まで届けられた。

 

 

 遠くでべしゃりと木から落ちた白が音を立てる。遠吠えをやめた紅月はその音に反応するように耳を立て、目を向ける。

 

 赤い月のような目がぐっと細められ、彼は決死の思い出走り出す。

 

 

 「捕まえろ!」

 

 どこからかその声が聞こえるが。彼は止まること無く走った。白に灰色の足跡が付けられていく。彼は少し迷ったように月色を見る。

 

 先程叫んだ生き物は月色に駆け寄って何かを話している。ぐったりして動かない月色を何かの台にのせる生き物たちは二足歩行をしていた。そして彼へと何かを向けてくる。

 

 

 ビュンッと線を描くように何かが彼に飛んできて、彼はほぼ反射的にそれを避けた。それは木の枝のようだった。トサッ─と音を立て深く白に突き刺さったそれを見て匂いを嗅ぐと彼は走り出す。

 

 

 (月色が、月色が)

 



 (殺された、あの生き物に)

  

 

 それは月色に傷をつけた枝と同じ匂いがした。

 

 

 真っ白な世界にさらに白が降る。冷たく吹雪く風は重い雪を被った木すらも揺らし、どこからとも無くドサッ─っと音が鳴る。

 

 小さな灰色の足跡もその白で隠されていく。点々と続くそれは辿ってゆけば洞窟へと繋がっているようだった。

 

 

 …その洞窟は元々何かの後だったようだ。幾らか整えられた岩肌にはいつから置いてあるかわからない箱があった。ところどころ鉄を使われていたりはしているが、主に木を使ってあった。

 

 

 だからだろうか。彼は一匹その中の一つの箱の中で体を丸め寒さをしのいでいた。なれぬ一匹の夜はよく冷えて、眠りにつくのにも時間ばかりがかかる。

 

 「クゥン」

 

 悲しげに鳴くもその声を拾う者はいない。ただただ空虚な洞窟に音が響き木霊するだけだった。

 

 

 

   □■□■□■□■□■□

 

 

 ふと紅月が闇の中に煌めく。小さな体で箱の中から首を出す。夜は明けたようで外は少し明るくはなっていたが未だゴウゴウと吹雪いていた。

 

 紅月が見るのはその白の中にある“赤”だった。

 

 

 それに駆け寄り紅月は臭いをかぐ。“それ”は月色を殺した者と良く似た姿をしていた。手足が伸び倒れる時も横っ腹を晒すわけではなくうつ伏せだ。

 顔を白に埋めているため息苦しいのか唸っている。倒れてからいくらも立っていないらしい。

 

 ほかと違うのはその身に纏う赤だろう。血ではない。何かで染められた赤い衣服がやたらに目立つその生き物は、確かに生きている。

 

 

 「グルルル」

 

 警戒し唸る紅月にその生き物はうっすらと目を開ける。その目は紅月と同じような色をしていた。

 

 

 思わず唸るのをやめ硬直する紅月の頭を黒い手で撫で付ける。それに反射的に紅月が噛み付いても生き物は反応することは無かった。

 

 「ちい、さいな…同色の…狼…」

 

 目は見えているらしい。紅月のことをじっと見てやんわりと微笑む生き物に紅月は口から手を離す。痛覚は既に死んでいるらしい、噛み付いた手も冷たく、このままここに置けばこの生き物は死に絶えるだろう。

 

 

 そうすればこれは生き物ではなくエサとなる。

 

 

 紅月はその目をグッと細め、遠吠えをした。その声は少しばかり力んでいるようだった。

 

 

 

 

 

 

 

 吹雪のやんだ白の中、小さな灰色が駆ける。その度に近くに白が舞うがそれでも速さは落ちない。

 

 

 「ウォン」

 

 紅月の目は一点を見る。紅月の目の前を走り抜ける大きな生き物。足は細く首は少し長く、ツノはとても雄々しい。

 

 それは紅月から逃げていた。長いその足で駆け抜け、逃げようと足掻いていた。

 

 「ガゥ!」


 だがそれはすぐに押さえ付けられる。紅月の一鳴きで、どこからともなく現れた青い炎に穿たれて。

 

 勢いのままに倒れ込むその生き物の首に紅月は噛み付く。小さいながらもその様は正しく獲物を狩った狼だった。強く気高い狼の牙の前では雄々しい角をもつ生き物でもすぐに息絶えた。

 

 

 それをずるずると引き摺り、紅月は白に灰色に赤が滲んだ線を引いていく。吹雪くことなく降る白が、その線をゆっくりと消していく。

 

 

 

  □■□■□■□■□■□■□

 

 

 男が目を覚ますと何かが燃やされていた。どおりで暖かいわけだとどこかズレたことを考えるが、目の前に燃えるものがトロッコの破片ではないかとうっすらと思う。やけに手入れされた岩肌には少しだけ人の手の跡があり、近くにトロッコがいくつか置いてあったからだ。

 

 そしてすぐに男は異常性には気づく。燃える箱の向こうでは雪が降っていて距離感が取れなくなっていた。

 

 荷物取りにあったのではと荷物を確認するが高価な首飾りも取られておらず、荷物は何一つ無くなっていなかった。もともと多くを持つ性格ではなかったのだが。

 

 現状に困惑しつつも革手袋を外し火へと手を翳す、悴んだ指先は少し赤くなっていて、もう少しすれば凍傷になっていたのではないかと男をゾッとさせた。

 

 

 洞窟の主が帰ってきたのはそれから幾らも経たぬ頃だった。

 

 

 犬にしては大きく、狼にしては小さい。灰色の毛並みに紅い目をもつそれは子狼のようだった。

 

 そしてその子狼は大きな牡鹿の首に噛み付いている。それに気づいた男は困惑した。普通の子狼ならばその牡鹿を狩るための速さなど出すことは出来ない。狼でも子供なのだ、筋肉は未発達で、発達しきった草食動物の速さに追いつけるものでは無い。

 

 

 だがその紅い目には力が篭もり、知性も感じられる。ただの子狼ではないのだとすぐに感じられた。そしてその子狼は牡鹿を引き摺ったままに自らの目の前に来る、次に狩られるのは自分では無いかという恐怖が過ぎり手が震える。

 

 

 悴んだ手では素早く剣を抜くことは難しく、牡鹿を狩れる速さを持つ子狼に勝てるなど思ってはいない。通常ならば勝つことは出来たかもしれないが、弱った体では無理だと男は自覚していた。

 

 思わず硬直し、震える男の前で子狼は牡鹿の首を離す。どさりと離された牡鹿が音を立てるが、それでも男は子狼から目を離すことは無かった。

 

 

 《腹は減ってはいないか》

 そして静かに高い声が男へとかけられ、男は気づいた。

 

 その声が目の前の子狼から発さられるものだと。

 

 

 「は、腹は減っている…これをくれるのか…?」

 《全てはやらない、内蔵と肉を少し返せ》

 

 

 全てではなくとも立派な牡鹿だ。それだけでも男の腹を膨らませるには十分である。男は唖然と視線を牡鹿に落とし、慌てて懐からナイフを取り出して捌き出す。

 

 

 良くは分からないが自分に恵んでくれるのだ。この子狼は。腹が減りこの雪の中で獲物を狩る方法を持たない男にとっては願ってもないことだった。

 

 

 

 

 紅月は男が捌いていくのをその目で見ていた。狼は捌こうという考えは持たない。だが紅月にとってはらわたは好物なのだろう。ドロっとしていて濃厚、舌触りも良い、それだけでなく栄養においても素晴らしいと言えるのだろう。狼である紅月には。

 

 ゆっくりと恐る恐る差し出された腸に食いつきながら男を見る。男はどうやら肉を焼くらしい。不思議な発想をするものだ。肉は生に限るだろうにと紅月は思うも口には出さない。元々助けたのも気まぐれだったのだ、月色が殺された、そんな時に見かけた死にかけの生き物が偶然この男だっただけだ。

 

 

 それを気分で助けただけ。

 

 特に思うこともなく、何かを食おうと思った時に立派な牡鹿を見かけた。立派な角は傷だらけで、歴戦の武者といったような出で立ちである。

 

 ガッシリとしている牡鹿。本来ならば鹿は全体的に細めの傾向があるのにだ。そんな牡鹿を見つけて狩らないという選択肢はなかった。

 

 再び男を見る。男は少し紅月のことを気にしているらしい。だがそれでも骨付きの肉を回す手は止まらない。こがせば折角の肉も食えなくなってしまうから。

 

 「グルル…《…なんだ》」

 「あ…いや、その」

 「ガゥ!《ハッキリしろ!》」

 「…焼いた肉も食べる、か?」

  文句でも言うのかと構えた紅月に男は困惑した様に問いかけ、しばし硬直する。そして思わず食べると答えてしまうのも混乱していた為だと思われる。

 

 「熱いから気をつけてくれ」

 目の前にどんと置かれた肉は、赤くはなく、血が滴っているわけでもない。茶色い見かけはうまそうとは思えなかった。

 

 それでもその肉を食らう。餌は餌。食うものだ、そもそも同じ肉なのだから焼いたぐらいでダメになるものではないだろう。覚悟を決めて咀嚼そしゃくする。

 

 確かに熱さはある。柔らかさがなくなって、その代わりに噛み切りやすくなった肉は正直うまくはない。やはり肉はそのままだ。血のしたたる新鮮な肉が美味い。こんなものを好むとは変な生き物だ。

 

 「…美味しい…か?」

 「ォン《不味い》」

 「さすが狼…生肉の方がいいのか…そいや、なんなんだアンタ。この火もそうだが話せる狼なんぞ聞いたことない。」

 「ガルル《そもそも、お前が知る狼とはなんだ》」

 「…そりゃあ、犬の祖先で、森の狩人って呼ばれてて…黒っぽい毛並みに…青い目の…」

 「ガゥ《それはグレールウルフだろう?同じ狼でも違う、下位であり私とは別のものだ》」

 「そうなのか?」


 

 この生き物はバカのようだ。見ればわかるだろうに。 

 

 彼が飽きれたように言えば男はそれを察したのか困った様に頭を掻いた、ほんのりと頬は赤く照れてもいるんだと察したが気にするのはやめた。

 

 「…結局あんたはなんなんだ?上位種なのか?」

 「ガゥ!《私は紅月アカツキ雪天狼せつてんろうだ》」

 「雪天狼?」

 「ウー…ウォンッ《母は雪狼せつろうの元長であり、月色。父は天狼てんろう。紅き目はその証。》」

 

 「天狼!?待ってくれ、それじゃあ!」 

 

 「ガゥ!《如何にも、幼獣なれど私は聖獣だ。》」

 

   ■□■□■□■□■□■

 

 聖獣…それは神にもっとも近いと言われている存在。能力も然る事乍ら、念話を可能とし、その身体もほかの生き物とは掛け離れている。

 

 魔法を使う魔物は少ない訳では無い。…が魔法を多く使える生き物は人類だとされる。亜人、竜人、人間などといった者は言葉でいんを結び目に見えない魔力や魔素で紡いで行うこと、それを魔法と呼んだ。

 

 それと異なり聖獣は魔法と精霊魔法を使うことができる、そして適性も人よりも高く無詠唱で魔法を行使できる。もともと精霊魔法というのも珍しさはあるが亜人や竜人では時々使い手が生まれると聞く。聖獣が聖獣たる所以が、無詠唱で行えるということ、所持魔力が異常に高いことが主な理由とされている。

 

 

 見た目も神の使いと呼ぶにふさわしいなりをしていることもあってか、聖獣信仰も存在する。各国では聖獣が現れた場合王族自らが歓迎し、言葉を交わし国を守護するかどうかを決めると聞く。

 

 

 ならばなぜ目の前の自分と同じ目の色をした聖獣はこんな山奥に身を潜めているのか。幼獣とはいえ、聖獣だ。存在が知られれば王自ら迎えに来ることも有り得る。

 

 母だと言う雪狼も通常であれば特上位種とされる存在だ。薄い灰色は雪に溶けるように紛れ、その姿を見た時にはもう遅いと言われている。

 

 だが、その姿も無い。

 

 

 この洞窟には結構な時間いると思うが、それでも雪狼はいない。

 

 

 「…アンタの母はどこに…」

 「グルル《お前と似たなりをした奴らに殺られた、もう、会えることもない》」

 

 それは、全てを察するに容易い一言だった。

 

 

 紅月の言葉に顔色を悪くした男が固まってしばらく経つ。その話を掘り返すことなく終わった。


 また外が吹雪き出した為である。

 

 ぶるぶると震える男を見てため息をつく。毛皮のない生き物はなんて弱い。この程度の吹雪ならば、そこの箱の中で丸々だけで十分だというのに。恩情で焚き火をしてもまだダメだとは。

 

 「…ワォン《仕方ないやつだ》」

 「…え?」

 

 ぶるぶる震える男に見かねて結界をはる。風が通さないように気をつけて、寒さだけを除き空気だけを通す様に結界をはれば薄ら青い膜が入口に引かれる。

 

 そして夜が来たのか、一気に白の世界に黒が広がる。異なるのは洞窟内だけだ。暖かな焚き火の赤が広がる。もう男は震えることはなくほっと息をついていた。

 

 「ありがとう…助かった」

 「…ガゥ《別に、気が向いただけだ。》」

 「それでも、ありがとう。ほんとに」

 

 突き放しても礼をいうものだから呆れて耳を伏せる。もう寝ねば、この吹雪では狩りにも行けない。

 

 仕方なしに焚き火の近くに丸まって眠る。うん、暖かすぎる気もするが、別に苦という訳では無い。

 

 この吹雪の勢いなら、明日には収まるだろう。明日も肉を狩りに行こう。

 

 

   ■□■□■□■□■□■

 

 

 ぱちぱちと焚き火が音を立てる中。一人ごちる。足を踏み入れれば死ぬと言われている極寒の山フルーフ。俺の村にはこの山についての伝承があった。

 「天狼か…」

 

 静かに呼吸をしながら眠る紅月を見て考える。たしかにフルーフには天狼がいた時があったと聞いたことがある。伝承にもそんな記述があった。

 

 ─古の 白き山に 光差し─

 ─共にゆかん 天を駆ける狼─

 ─白き息吹が 眠りに誘う─

 ─我が友よ 遠き日に誓おう─

 ─我が英雄よ 約束を忘れるな─

 ─いつか来る 白き災厄を─

 ─忘れるな 忘れるな 紅き目が─

 ─我らを救う 証となる─

 

 何百年も前の村長が記したとされるそれは最近見つけたばかりのもの。俺の村では赤い目は許されない。それは天狼の証だと言われていたから。

 

 だから出た。

 許されない赤い目をもって生まれたことを恨んで、伝承を恨んで。

 

 「…なのに、まさか…天狼の子供に会うなんて」


 しかも母親だと言う雪狼は人に狩られたという。この山に入れる上に雪狼を狩れる者は冒険者か、凄腕の狩人だけだろう。

 

 よりにもよって聖獣の母を殺してしまうなんて。

 

 

 紅月はきっとこの国を守護してくれないだろう。狩られたというからには殺された場面も見てしまったはずだ。憎む存在を家族を奪った存在をどうして守ろうと思える。

 

 

 俺から家族を奪った村のヤツらを俺はゆるせないし。守りたいとは思えない。それってつまり紅月も同じなのではないか?

 

 火がゆらりと揺れる。風は結界のおかげで入ってきてはいない。寒さもない、暖かく、心地いい。

 

 生きたまま凍死すると言われるほどの寒さだと言われるこの山で、まさかこんなに暖かく眠りにつけるなんて思っていなかった。

 

 「…ありがとう」

 

 助けるつもりなんてほんとに無かったんだろう。俺なんて捨て置いても誰も攻めはしないのに。この同色であり異なる目をもつ子狼に、感謝してもし足りない。

 

 紅月の目は本当に宝石のように澄んでいて、光を散りばめたような輝きと、鋭さがある。同色ながら俺の目とは異なる目。

 

 「…なんで俺の目はアンタの目の様じゃ無かったんだ…そしたら俺は───」


 

 紅月の伏せられた耳がぴくりと動く。思わず口を閉じればその目は開けられて俺を見ると興味なさげに再び閉じられる。

 

 

 俺はもう何も言わず眠りにつく。トロッコに掛けた鹿の皮はきっと明日には使えるようになる。なめす手段のないこの洞窟では乾かすのが精一杯だ。長くは持たないが掛け布団替わりには使えるだろうな。


 「おやすみ──紅月」


 だから今はただ眠ろう。この優しい空気の中で。

 

 

  ────

 

 

 

 紅月の伏せられた耳がピンッ─と立ち上がる。そして紅月色の瞳が朝の空気に晒される。

 

 


 男は焚き火の向こうに丸まるように寝ていた。小さな吐息とともに胸が静かに鼓動する。結界の外は既に明るくなっており、真っ白な世界が再び現れていた。

 

 耳を立てて、男に歩み寄り軽くのしかかれば驚いた様に紅月を見やる。それを鼻で笑えば顔を顰めて、不快感を隠そうともしなかった。

 

 「…なんだよ」

 「ヴー…《狩りに行くぞ》」

 「…は?!」

 「ガゥ!!《餌を狩りに行く!二度も言わせるな!生き物!》」

 

 驚いたまま硬直する男の履いているものに噛み付く。動かないならば放り出せばいい。速やかに洞窟を出て探しに行かねば獲物も目が覚め切り、足が早くなる。この男の足は遅そうだし、足で纏になるのはごめんだった。

 

 「う…っわ、待って!待ってくれ!」

 「グルルル《なんだ》」

 「ズボンが脱げるから!支度する!少し待ってくれ!俺には牙も爪もないんだよぉ!」

 

 泣きそうになりながらこっちを見る男に呆れていた。泣くのか、男だろう。やはり牙も爪もないのか、なんて弱い。そんな思いのこもった目線を気にも止めず小さな荷物を漁り支度を始めた。

 

 「できた!終わった!」

 

 紅月は慌てながら転げるように結界の外に出て来た男を少し目を見開きながら一度見る。腰には何かがぶら下がっている、匂いからして鉄だろうかとあてをつける。

 

 

 「…あ、これ?俺の剣なんだ。ダメか?その…お前の母親を殺した奴らも持ってたろ剣」

 「ウォン《確かに持ってはいたな、そうか、それが剣か。》」

 

 納得しながら白の中を駆ける。後から少しずつ歩み、白を踏みしめて男がやってくる。やはり歩きなれてないようだ。この男一匹じゃ野兎すら狩れないだろう。

 

 「ま、まってくれ」

 「ガゥ!《遅いぞ!さっさと着いてこい!》」 

 「アンタが速いんだ!子狼なのにどうしてそんなに早いんだ!」

 

 

 速いのは当たり前だ。紅月は雪狼の子だ。雪狼はどの生き物よりも白い雪の上を駆けることができる。本能で分かるのだ、どこが踏んで良い場所かを。天狼には会ったことはないが、月色は紅月に行っていた。何よりも駆けるのが速く、そして美しく戦う雄だったと。

 

 紅月も雄だ。すぐに大きくなり、狙える獲物も増えていくだろう。この男なぞ、鼻にもかけないようなそんな立派な狼に紅月もなるのだろう。

 

 

 


 真っ白な世界を赤い服を纏った男は走っていた。慣れていないのかその足取りは重く、顔色も悪い。走る度に白に足を取られ少しずつ速さは落ちていく。

 

 それでも男は足を止めることは無かった。慣れない白の中を必死に走り抜ける。当然理由があった。それは彼の後ろに存在したのだ。

 

 男よりもふたまわり以上大きい熊が、その白い巨体で重たい音を立てながら走る。太い足が下ろされるその度に少しの白が巻き上げられる。

 

 男は逃げていた。その熊から。食われまいと、冷や汗をかき続けながらも必死に。

 

 だが悲しいことに男と熊の距離は差ほど開いていない。少しでも男が速度を落とせば追いつかれるだろうし、熊が少しでも速度あげられれば熊の大きな前足は男へと届くのだ。

 

 時間はない。男と熊の体力の差は歴然だ。このまま走り続けても何れ男の体力は底をつき、足をとめてしまうだろう。そうなればその結果は分かりきっている。

 

 男は走りながらも腰に引っさげた剣の柄を握る。寒さでよく冷えているそれは手の熱を奪っていく。意を決したように足を止め、熊に向き直る。

 

 決意のこもった視線を浴びながらも熊は足を止めない。巨体を動かし、白を散らし、目の前の生き物を狩ろうと躍り掛る。

 

 男は迷わなかった。鞘から剣を素早く抜き、その太い首へと切りかかる。良く手入れされた剣は鈍色ながらも朝日を反射し、光の線となり、首元へ走る。

 

 その瞬間に赤色が跳ねるように散る。熊の首からはだらだらと血が流れ、熊は痛みで足を止める。唸り声を上げながらも熊は持ち直し、獰猛さを表した鋭い目で男を睨みつけると、大きな口から牙を覗かせ男の頭目掛けて前足を振り上げる。

 

 男は唖然としていた。熊と言えども生き物だ。たくさんの血を流せばその動きは止まる。だからこそ、毛皮を突き抜くよりも首を切ったのだ。だが熊はそれでも倒れず、男を狩ろうとその大きな前足が頭へと振り下ろされる…その瞬間。

 

 

 

 男の切った首の傷に一つの色が走る。

 

 

 それは灰色の生き物だった。犬よりは大きい体躯。狼にしては小さいその存在は赤い眼光を滾らせて、首に噛み付いたまま動かない。先ほどとは比べ物にならない様な唸り声を上げながら熊が暴れだし、子狼を振り払おうと体を畝らせる。

 

 

 だが、それも叶うことなく終わる。

 

 針のような大きな氷が子狼の背後に数個浮かびそれらは大きく開けられたその口へと刺さった。そのなかの一本が脳髄を貫いたのか、熊はピタリと動きを止め、そのまま白の地へ伏した。

 

 真っ白な中に熊の血の色がじんわりと広がり、動くのは子狼と唖然と固まっている男だけだった。

 

 

   ■□■□■□■□■□■

 

 「へゥン《情けない》」

 「…」

 「ガルル…《あんな鈍臭い餌一つ満足に狩りが出来ないとは、その剣とやらがあってもダメではないか》」

 「いや!おかしいだろ!俺が弱いんじゃねぇって!明らかあんたが強すぎんだよ!」

 

 洞窟内で黙々と熊を解体している男に紅月は冷たい目をやる。あそこで紅月が現れなければこの男は狩る側ではなく狩られる側になっていた。今こうして食われるハメになっていたのは男だったのかもしれないのだ。

 

 男は文句を言われ続けながらも解体し、頭の解体に入ったところで頬を引き攣らせた。

 

 深々と脳へと刺さった氷の後の穴を見つけてしまったのだ。それを見て男は確信する。やはり紅月は聖獣の子なのだと。

 

 朝洞窟を出た男に紅月は言った。その赤い色を纏っている限りは色々な生き物に目をつけられる。丁度良いからそこら辺を走ってみろ。なに死ぬ事は無い。その言葉は男を底冷えさせたが、男に選択肢は無かった。紅月の目が告げていたのだ。ここで死ぬのか、死にものぐるいで走るのか…っと。

 

 

 男は走った。泣きそうになるのを堪えつつ、肌を刺すような寒さに耐えつつも、走り抜けた。

 

 確かに男は死ななかった。

 

 死にそうな目にはあったが。

 

 「ガゥ《ほれ、はやく腸を寄越せ。》」

 「…はぁ」

 

 男は大人しく腸を全て紅月へと差し出した。とにかく空きっ腹なこの子狼の口を閉じさせるには餌を渡す他の方法が、頭に浮かばなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 力を合わせて狩った熊の肉を食べつつも紅月と男は向かい合っていた。洞窟には未だ結界が張られていてその向こうでは白が橙色に染まっていた。

 

 「なぁ」

 「…」

 

 男は乾いた鹿の皮で身を包みながら紅月をみる。見れば見るほど美しい毛並みをしたその姿。自分の目と同じ色とは思えない美しい目。確かに紅月は聖獣なのだろう。

 

 だが、男には分からなかったのだ。

 

 

 「なんで、何も聞かない?」

 「…」

 

 紅月は男に何も聞かなかった。あの場所で倒れていた理由も、この山に来た訳も。ただ、勝手に助けて、強制的に狩りに出した。

 

 最初は興味が無いだけかと思っていた。だが、それは違う。紅月は…この小さな狼は笑うのだ。弱い男をそして牙も爪もない男を。

 

 そして笑うだけではなく守るようにいる。まだ二日だ。意識を取り戻してからは一日やっと経った程しか関わっていない。

 

 

 だが、それでもこの場所は心地いいと感じる。その上に高難易度の結界を貼り続ける紅月は、男の目から見ても不思議だった。

 

 母を殺した者と同じなりをしているだろうに、それでも殺そうともせず、ただいるのだ。当たり前のように狩りに連れていき、当たり前のようにこの洞窟へ帰り、当たり前のように食べ物を分け合い、そして、眠る。

 

 それは異常だ。

 

 この山では、異常だ。

 

 会ったばかりのものを懐に自ら抱え込み、武器を与えたまま力を取り戻させようとすらさせるこの狼は、男を追い出す素振りすらしなかった。

 

 「なんで、アンタは俺を追い出さない…?」

 《追い出してほしいのか》

 

 それは今までとは異なった問いかけだった。吠えることなく、直接脳へと話しかけてくるように。視線だけが合い、口は開かれることもなく言葉が紡がれる。

 

 「違う…でも、アンタは」

 《なんだ》

 「アンタは…憎くないのか…その…人が」

 

 戸惑ったような男の目に紅月は呆れたように男の方へと歩み寄る。男はビクリと肩を揺らすも動かない。ただ静かに歩いてくる紅月をまじまじと見つめた。

 

 そして、視界がブレる。

 

 気がつけば仰向けに倒された男の胸の上には紅月が牙を向いて立っていた。男の首に噛み付いて、そしてまた、問いかける。

 

 《殺してほしいのか、憎いと。憎いものだと、無残に、残酷に。》

 「…──俺はそれでも仕方ないと思ってい…っ」

 

 そこまで言った男の首に鋭い牙がくい込む。紅月の白い牙に男の血が少し付く。このまま顎に力を入れればその首は簡単に食いちぎれるだろう。熊の首に比べれば随分と細い首なのだから。

 

 《死にたがりの癖に痛いのか》

 「…っ当たり前だろう!」

 《だが、お前が一度死にかけた時、私が噛み付いてもお前は痛みを感じていなかったではないか》

 

 その言葉に少し男は固まる。目が忙しなく動き、思い出そうと必死になっているのだろう。黒い手袋のされた手がさ迷う。

 

 「わ、から…ない。覚えていない」

 《その時痛覚は死んでいた。お前は笑ってすらいた。私に噛まれたその手を振り払わずに。》

 

 覚えていない。全く。そんな記憶ない。男はそう叫びたかった。だけど、紅月のその赤い目が、それを止めた。向けられた冷たい視線に思わず黙ってしまったのだ。

 

 《だが、お前の痛覚は戻っている。たった一晩で元に戻り、そのことすら忘れている。お前の体は生きようとしているのだよ、痛みがなければ戦えないのだから。》

 

 「何が言いたいんだ…?」

 

 《お前は私に聞いたな。なぜ追い出さないのかと。ならば問おう。お前はなぜ逃げ出さない、この様に簡単に自分を殺せてしまう存在からなぜ逃げず先ほど殺されかける様な狩りのさせられ方をしても逃げずにいる。その羽織る毛皮さえあれば下山など楽だろう》

 

 男は目を見開き、今度こそ本当に固まった。まるで蝋でできた人形のように、ぴしりと固まり、唖然とする。

 

 紅月の言ったように逃げればよかったのだ、この洞窟から。腹も膨れて体温も高い、そしてこの毛皮だ。熊の毛皮はまだ乾ききってはいないが羽織れないことも無い。鹿の皮もある。何故と紅月に問う前に出ていけばよかったのだ。真意など聞かずにも。

 

 

 だと言うのに男は問いかけた。

 狼であり、自分よりも強い存在に。

 

 覚えていなくとも確かなのだろう。男は噛まれた覚えはなくとも紅月がそう言っているのだから。

 

 

 《お前は嫌なんだろう?》

 「──っ」

 《ここ以外に行く場所などなく、どうせ死ぬなら私に殺してもらおうと思っていたのだろう、同じ色を持つ私に》

 

 男には他に行く場所はなかった。この洞窟を出て逃げようとも、先はない。いつかは死んでしまう。誰も知られずに。

 

 《だが、私は殺さん。気まぐれでも助けたのだから。》

 「でもアンタは狩りに出る時ここで死ぬか狩りに出るかを選べと言ったじゃないか!」

 《ああ、言った。そしてお前は選んだ。狩に出ることを、生きることを。》

 「…え?」

 《お前は死にたいようだがお前の目は死んでいない。諦めていない。それで殺されてもいいだのと、馬鹿なことを》

 

 紅月はそっと男から退く。スタスタといつもの位置へ戻り座って男を見る。ゆらりゆらりと柔らかそうな尻尾が左右に揺れて紅月の目が細められた。

 

 《お前は聞く必要などなかった。ここにお前を連れてきたのは私だ。死なぬように手を施したのも私だ。お前が聞いたのはこの場所を出ていくのが怖かったからだろう、自分では出て行けぬから私に問うた。だが私にはお前を追い出そうという気は無い》

 「じゃあ…っ」

 《私の指示で共に狩りをし、共に分け合った。その時点でボスは私だ》

 

 泣きそうに顔を歪める男を放置し紅月は体を丸める。その目はゆっくりと閉じられて、男を写すことはなくなった。

 

 

 共に狩りをし共に分け合う。それは群れならば当然行われることだ。群れでは強さがものを言い長になるのは強い者──つまり、紅月は男が一番望んだものを与えたのだ。

 

 

 「俺は、ここにいて…良いのか」

 

 《好きにしろ》

 

 「俺は、死なないのか」

 

 《お前の行動しだいだ。弱ければ死ぬ。》

 

 「…───なあ、アンタは俺のボスなんだろう?」


 《…》

 「アンタのすべて言う通りだ。逃げれても俺は逃げず、出ていくのが嫌だからアンタに聞いた。でも俺はここにいていいと言う。…なら、名をくれ。人ではなくアンタの家族と…群れとなるための」

 

 紅月はそこで目を開く。男の顔を見て、ゆったりと身体を起こす。ぱちぱちと焚き火が音を立てる中。紅月は告げた。

 

 

 《コウゲツ》


 「…」

 

 《それが、お前の名だ。》

 

 

 

 

 こうして彼らは群れとなった。寒い雪の中に赤色異色が増えて、そして、生きていくのだろう。このさきも。




 

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双狼の棲む山 星屑 @hitotuno-hosikuzu

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