第6話 頭の整理が必要だ
「きゃあああああああ!?」
今までに聞いたことの無いような店長の絶叫が店内に響き渡る。無理もないだろう。それほどまでに目の前で起こっている光景は信じ難いものだった。ちなみに私は脳内での処理が追い付かず、一周回って冷静になっており、大量に流れ続けている涙花ちゃんの涙をぼーっと眺めている。はー、すごいなあ。まさか漫画でよく見るような大量涙流しを実際にこの目で拝むことができる日が来るなんて思ってもみなかったよ。……いや、本当に誰も思わないでしょ。
私が思考停止モードになっていることに気が付いたのか、店長が私の肩をバンバンと叩いてくる。
「ちょ、カナノちゃん!現実逃避しないでよぉ!」
「うわあああああああああん!」
「涙花ちゃんお願い!一旦泣き止んでもらえないかな!?じゃないと割と本気でこのカフェ浸水しちゃいそうなんだけど!涙で!」
「いや、それはさすがに大げさでしょ店長。いくらなんでも涙で浸水する訳…、うわっ、マジじゃん」
「だからマジなんだってぇ!うわああああん!」
とうとう店長も涙花ちゃんと一緒にわんわん泣き出してしまった。おそらくだが、今世界中のどこかで起こっているどの出来事よりもカオスな状態になってると思う。ていうか、ちょっ…、隣はうるさいし目の前からは涙が飛び散ってくるし、勘弁して欲しいんですけど…。涙が飛び散るというのがそもそも意味わからないんだけれどもね。
と、ここでようやく涙花ちゃんがハッとして、目元を拭いながら慌てて泣き止む。
「あ……!?ご、ごめんなさい!久しぶりに泣いたら止まらなくなっちゃって…!だ、大丈夫ですか…?」
「あぁ…いや、大丈夫ではないかも。なんか、足元とかびちゃびちゃになってるし…」
「えっ?……え、嘘!?私こんなに泣いて…!?ご、ごめんなさいぃぃぃぃ!」
「いやごめんやっぱり大丈夫。大丈夫なんで泣くのだけは勘弁してください」
涙花ちゃんが周りの悲惨な状態を見て再び泣き出そうとしたところを、すこしだけ語気を強めて制止する。さっきの勢いで泣かれたら店の中どころか、店の外にまで涙が漏れ出しかねない。それだけは避けなければ。店から謎の液体が漏れてるのを見かけた通行人が不審に思って店の中を覗き込んでくるかもしれないし。あ、ていうかやばい。準備中にしているとはいえ外から中の様子丸見えじゃん。ブラインド閉めないと。
私が手早く店中のブラインドを閉めて戻ってくると、店長も落ち着いたのか、コップの水をコクコクと飲んで大きな息を吐いていた。
「あ、カナノちゃんありがとう…。みんなごめんね。取り乱しちゃって。なんていうか…、その…、ちょっと予想の斜め上だったものだから…」
「い、いえ!こちらこそごめんなさい!困りますよね、いきなり泣かれたら…」
「ううん。全然大丈夫だよ!店の事も気にしなくていいからね?」
「はい…、すみません、ありがとうございます…」
店長の優しい言葉を聞き、涙花ちゃんもホッとしたのか、少しだけ小さく微笑む。久しぶりの涙花ちゃんの笑顔に、私たちもホッとし、顔を見合わせた。いや、本当に一時はどうなることかと思ったけど、涙花ちゃんの笑顔も見れてめでたしめでたし…になるわけがない。申し訳ないけど涙花ちゃんの笑顔でもさっきの衝撃が帳消しになるはずもなく、一時はどうなることか、というか一時はどうにかなってしまっているのだ。はぁ。後で店長と二人で黙々とモップをかけてる姿が容易に想像できる。
私が表情を変えずにそんなことを考えていると、店長がニコニコな笑顔で口を開く。
「いや、それにしても、漫画とかでしかその涙の流し方見たことなかったからさ。涙で顔を濡らすのをここまでリアルに見ることができて、その、なんというか…、感動だよ!あはは……」
笑顔だった店長の顔と言葉に段々と困惑の色が混ざっていく。まぁとりあえず店長のフォローが下手くそすぎるというのは一旦置いておくとして、店長が困惑する気持ちは痛いほどわかる。なぜなら…
「いや、店長。涙で顔を濡らすっていうか、涙で顔洗ってるけど、この人…」
そう。
涙花ちゃんはその瞳から、まるで蛇口から流れる水の如く器用に涙を流し、そのまま両手でお椀を作り、顔を豪快にゴシゴシと洗っていた…。
えぇ…。
いや、もうほんと……。
勘弁してよ……。
もうこれ以上私の頭で理解できないことをするのはやめてよ、涙花ちゃん…。このままだと涙花ちゃんの印象が、お人形さんみたいに綺麗で笑顔が素敵な女の子から、大量涙流し顔洗い女になるんだけど…。ていうかここまで衝撃的なもの見せられて、まだいつもの涙花ちゃんが戻ってきてくれることを信じてる私も私だけども…。
涙花ちゃんが顔を洗い終わり、持っていたバックの中からタオルを取り出して顔を拭いていく。拭いている最中に涙花ちゃんとちらりと目が合った。涙花ちゃんは私たちの何とも言えない顔を見てハッとし、ズボッ!と勢いよくタオルをバックにしまい込み、ペコペコと何度も頭を下げる。
「ご、ごめんなさい!いきなり目の前でこんなことされたら困惑しますよね…」
「いや…。全然そんなこと…。大丈夫だよ…。」
(店長。そろそろツッコミたくなってきたんじゃない?我慢は体に毒だよ?)
と、私は心の中でだけ店長に呼びかける。これを言うと確実に店長は否定するからだ。ただ、私との会話からも分かる通り、店長は細かな事にもツッコミをする…というか、したい人間である。いくら相手が涙花ちゃんとはいえ、ここまで非現実的なものを目の当たりにして店長のツッコミたい欲も溜まりに溜まり、同時にストレスも溜まっているのではないだろうか。…いや、何を冷静に考察してるんだろうな、私は。
私は店長とは違い、思ったことは口に出したいため、本能の赴くまま涙花ちゃんに問いかける。
「え、というか、その…。抵抗感みたいなのはない?自分の涙で顔を洗うことに対して…」
「ちょ、ちょっとカナノちゃん…」
私の言葉に店長がやんわりとした制止の声をかけるが、明らかにいつもの元気が無い。あぁ、これはどこかで爆発しそうだな。
私の問いかけに涙花ちゃんは特に慌てたりはせず、綺麗な佇まいで淡々と答える。
「……そうだね…。私もこんな体質になって間もないころはただただパニックだったけど…。慣れてくると結構便利だよ。洗面所に行く手間も省けるし」
「…………」
「…………」
私と店長はほとんど同じタイミングで額に手をあてて俯いた。
…センメンジョニイクテマモハブケル?え、な、何を言ってるこの女?
洗面所に行く手間くらい省かないで。いや、ていうか洗面所に行く手間が省けるってどんな豪邸に住んでるつもりだよ。…あれ、これ私大丈夫?口に出してないよね……?いや、それとも涙花ちゃんの為にもちゃんと言ってあげた方がいいのかな。涙洗顔は非常識だよって。
と、次から次へと思考を巡らせたところで私は店長の顔をチラリとみる。
…………ああ、これはまずい。結構まずい。店長の目から完全に光が無くなってる…。初めて見たわ店長のこんな顔。
私は今度はこの暗くなりつつある雰囲気をどうにかしようと頭を働かせる。いや、傍から見れば涙で顔を洗うなんて面白エピソードとして笑い話に変えられるでしょ、とか思うかもしれないが、涙花ちゃんとそれなりに同じ時間を過ごしてきた私たちからすれば何一つ笑えないのである。うん、ほんとにピクリとも笑えない。今までに起きた出来事の全てにおいて、あの涙花ちゃんが当事者という事実だけが私たちの雰囲気を暗くしているのだから。
…ホント何でよりによって涙花ちゃんなんだろう。神様って残酷すぎる。
さて、とりあえずは店長をいつも通りにしなければ。私としてもこれ以上死んだ魚のような目をしている店長は見ていられないし。まぁとはいっても正直店長に関してはそこまで心配はしていない。喜怒哀楽が服を着て歩いてるような人だからね。いつものように私がいい感じの冗談を言えば気持ちよくツッコんでくれるだろう。
私は少しだけ何を言おうか考え、すぐに思いつきそれを言葉にする。
「いや、でもなんというか、それだけいっぱい涙が出るなら、涙で作ったお風呂とかも入れそうだね」
「ちょ!?何言ってんのカナノちゃん!?ありえないからそれは!デリカシー無さすぎ!」
「いや、もちろん冗談だよ?」
「冗談でも言っていいことと悪いことがあるから!ご、ごめんね涙花ちゃん。カナノちゃんが変なこと言って…」
店長が申し訳なさそうに涙花ちゃんに謝罪する。まあ確かに口に出してからちょっと言い過ぎたかなとは思ったけど、「流石にそれはないよ!」って涙花ちゃんが笑顔混じりに言ってくれるだろうし、悪い冗談ではないと思うんだけどな。涙花ちゃんでも流石にそんなことはしないだろうしね。
「えっ」
「えっ」
「えっ」
…………え?
…いやいや、涙花ちゃん。そのタイミングの「えっ」が一番怖いのよ。だってまるで、「入ったことあるけど、そんなにマズいことかな?」って意味が含まれてそうだから。
私たちと涙花ちゃんはしばし見つめ合い、そして彼女が控えめに口を開いた。
「…えっと、ごめんなさい。何度か、あります…」
私はめまいの感覚と共に、もういつもの涙花ちゃんは戻ってこないという確信と絶望に覆いつくされた。
ドリーマーズ! ふぁんとむグレープ @11292960
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