第48話 遥かなる遺言 

 水那月は海岸べりに沿って細長く開けた町だった。寺は奥まった高台にあり、その裏の小高い丘の間に墓地が在った。三人は知代子の姉にあたる伯母の嫁ぎ先の裏にある小高い丘へ登った。そこは遠くまで海が見渡せる場所だった。そこは幼い頃におじさんと知り合う前に何度か来た場所だ。それ以前は憶えていないらしい。確か井津治が大病をしてその回復祝いを兼ねて、母が連れて来た日が印象的だった。ただ夢中で借りたその治療費を返す当てがなく此処へ辿り着いたそんな感じだった。此処で母は長い事この海を見ていた。

「イっちゃんあなた新しいお父さんほしくない?」って聴かされた。

 それは何を意味するのか解ったが、その人に奥さんがいるのを知ったのは、母の死後に長沼家に引き取られてからだ。だからなぜ母はあの時に再婚するような言い方をしたのか今も解らない。

 この時にぼくが煩った大病が、母のその後の人生を変えてしまった。この日までは、店に通って来る長沼とは馴染み客の一人に過ぎなかった。病気が治り元気に成ったぼくをしみじみ眺めながらこの場所で母はある決断をした。長沼と頻繁に会うようになったのはそれ以後だった。それを数年前に亡くなった伯母から聞かされた。そんな決断をしたこの場所は、こんもりとした丘になっていた。そこから水那月の町と港が一望出来た。

「素晴らしい綺麗な風景」と礼子は着くなり発した言葉がそのままの日本海が広がっていた。この景色で知代子さんは何もかも吹っ飛んだのかと野々宮は思った。

 母はその後で長沼さんも此処へ連れて来た。その時に長沼は此の能登の水那月の港は、彼が夢をはせた北前船の寄港地だったと知った。物寂しい長沼に母はどうしたのと問うた。

「この景色を見て樺太の真岡を想い出してしまった」

 長沼はその一言を呟いたまま長い事ここで咽んでいたそうです。やっと掛けた母の言葉で気を取り戻したそうです。

この場所で母たちが様々な想いを巡らしたように、さっき父を見送ってからもなぜか尾を曳いたものが此処で思いを馳せる内にすっきりした。もう二度と父とは会うこともない、そして母の唯一の姉である伯母さんも亡くなっている。もうぼくの親戚はすべて消えていった。沿海州から吹き渡る風が、能登の山肌を撫でる様に日本海から吹き上がって来た。今吹くこの爽やかな秋の風は、やがて来る厳しい冬を運ぶ風でもある。


 三人は新潟空港まで車を走らせた。途中親知らずの難所の海岸だけは、陸地から外れた海中に道路が出来ていた。昔の旅人は此処が親子の今生の別れになるかも知れない路なき路を今は車が何の苦もなく抜けて行った。

「井津治、これからが本当の旅立ちね、此処には唯一の伯母さん以外は親戚がいないのにどうしてそんな所にお母さんは埋葬を希望したんでしょう」

「たった一人の伯母さんが残っている此処が一族の終焉の場だからさ」

「その伯母さんも亡くなっていたのね、これからどうするつもりなの? 遺産、ほしいんでしょう」

「それは君が隣の人と相談すればいい」

「期日を過ぎれば、ばあちゃんに委ねる事になるけれどその前に井津治、諦めたと言ったけれど本気じゃないでしょう、あんた生みの親のお父さんに帰ってもらう為に言っただけなのでしょう、あの遺産に本当はまだ未練があるはずよね」

「もちろん、だけどこのおじいちゃんの壮烈な時間に終止符を打ちたいだけだ。それで今まで流され続けた自分の人生を終わらせたい、生まれ変わりたい、次の世代にこの負の遺産は残したくない。だからもしも叶うのなら一番恩を受けたおじいちゃんの為に使いたい」

 ホウと感心する"殊勝な心がけ"あの泣きべそばかり掻いていた子がと礼子はまざまざと井津治を見た。

「おじいちゃんが亡くなった時はなんてやっかいな物を残してくれたと恨み辛みでこころが沈んだけれど、ここに居る裕慈さんのお陰で良い想い出が作れたからおじいちゃんもまんざらでもなかった。お陰でじっくりとおじいちゃんの長い苦しみの深淵を知る事が出来た。言って聴かせるより自ら求めてほしい。それも人から言われずにやってほしいと云う思いをやっと知ることが出来た。あれは永遠にすれ違ったかも知れないバトンを確実に伝える為の遺言だった。それであなたもわたしもやっと思いが通じたのね、でもあなたでなくおじいちゃんへの思いよ」

「いやなところで念を押すんだねえ」

 おじいちゃんは樺太の真岡で預かった(入手した)原資を返したいとも云っていた。それにはアレクセイの子孫がニコラエスクに居るかどうかだけど、赤軍に皆殺しにされているかも知れないからなあ、とおじいちゃんはいつもそこから先は言葉を濁していた。それはシベリアの凍土の中から発見されたマンモスを生き返らせるようなものだと言っていた。しかしそれに取り組むプロジェクトがある以上は挑戦する価値はあるようだ。

彼はネットを通じて尼港事件に巻き込まれたアレクセイ一族の詳細な史実を求めて過去の所在と経歴を流した。彼に関する情報を寄せてくれたロシア人を最近見つけていた。それで数日前にニコラエスクにゆくめどを付けていた。

「諦めるんですか」と迫った期日を人ごとの様に野々宮は言った。

「あの遺言をお経みたいに唱えるんじゃなく、しあわせはそれぞれの心の中に在る、今はそれでいいんじゃないですか。とにかくぼくはロシアに向かう」

井津治は今日の発展の基礎を築いた亡き恩師の意志を実らす為に報いたいと望んでいた。それに応えるのが残されたぼくの最大の使命と心得ていた。もし子孫が見つかればばあちゃんとあなたを説得するつもりだったが、どうやらその手間が省けそうで憂い無く向こうへ行けそうだ。このおじさんの最後のリクエスト(遥かな遺言)に応える為に・・・。おじさんは誰が受けても良い方向へ導く為にあんなややこしい遺言を作ったのだろう。そのロシア人の為に・・・。

「判ったわとにかく期日に拘らず納得するまでもう少し考えたい。だからばあちゃんにはじっくり説明して原資に当たる分は確保して置くから心配しないで安心してニコラエスクに旅立ってほしい。どっちにせよ見つかれば今度は原資を持って渡航すれば良い、それがおじいちゃんの本当の遺言だから」 

 井津治は静かに頷くとそのまま空港のゲートを抜け、いま一度振り返り今度は確(しっか)りと頷き搭乗口へ消えた。

「最後の最後までもつれたけれどもうぼくの出番は無くなったなぁ」

「何を弱気な事をお言いでないよ」と礼子は舞台の役者みたいなセリフを言ってから意味有りげな瞳を投げつけた。

二人は井津治を見送る為にラウンジデッキに立った。おじいちゃんは一体何を、誰を愛していたのでしょう。この世にはたして真実は有るのでしょうか。それとも何処に有るの? 野々宮さんなのそれとも井津治なの、真理と引換になってしまったこの定員オーバーの三角関係をどうすれば良いの・・・。


井津治を乗せたジェット機は誘導路を助走して滑走路の端で管制塔からの指示を待つ為に止まった。機体は管制塔からのゴーサインと共に短距離走のランナーの様に、滑走路を全力で一気に駆け出すと急角度で大地を離れて、新潟からハバロスク経由でニコラエスクに飛び立った。

礼子は雲の彼方まで祖父の希望を乗せた機影を見送った。

 スッキリしたでしょうおじいちゃん、これで満足でしょう。え! もうひとつのリクエストが残ってるって。それは越権行為よー。だってこの恋は定員オーバーなんですもの。

 誰がそうしたって。

礼子は野々宮を見て「さあ誰でしょう」と言った。

 野々宮は振り向いた礼子の突然の言葉に怪訝そうに彼女を見返した。




                        (完)

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遥かなる遺言 和之 @shoz7

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