第二話 魔女の偶然
『ねえローエ、あたし、魔女の魔法が見たいわ!』
「あのねイム、ちょっと花にお戻りなさい」
ここで暮らすとなれば、まず必要なのは寝床である。ローエはイムのように、毎日草花の上で寝るわけにはいかない。
沢のほとりから数歩離れた地面と、生えている木々の幹に、ローエは呪文を唱えながら杖の先端で奇妙な形の紋様を描く。魔法の紋様は光を発し、土や木を
イムは『魔女なら魔法で家くらい造れるでしょ』などと軽く言ったが、ローエにとっては骨の折れる大魔法である。
『ねえ、木があっという間に家になったわ! ねえローエ、魔法ってすごいのね!』
「そりゃあ、一応魔女だからね」
興奮して飛び回るイムに、ローエはため息混じりに答える。
しかし次の瞬間、イムはローエの顔の前で、腰に手を当て頬を膨らませた。
『ねえ、でもローエが家の中に入ったら、あたしはどうやってローエのお話を聞けばいいの!?』
「喜んだり怒ったり、忙しい妖精さんさね。あのね、『幻の花』はこの沢の水があればいいのかい?」
『そうよ。とってもきれいな水がないと生きられないの』
「じゃあ、朝晩とわたしが沢の水をあげるから、イムもまるごと引っ越しさね」
『引っ越し!? ねえローエ、どうやって?』
ローエはさらに魔法を使って、「幻の花」の周辺の土ごと、これも魔法で生み出した大きな植木鉢に移し替えた。
根の一本でも絶対に傷つけてはならない「幻の花」の植え替えには、小屋を建てるよりも遥かに繊細な魔法が必要で、ローエは神経をすり減らした。
「幻の花」の植木鉢は、
窓を開ければ気持ちよく風が通り、目の前には沢が見える。ローエの
「あのねイム、これから二人で暮らしていくなら、決まりを作ろうじゃあないか」
植え替えた「幻の花」に沢の水を
ローエの疲労をさすがに察したか、イムはおとなしく「幻の花」の花弁に座り、ローエを見上げた。
『いいわ。ねえ、それで?』
「あのね、わたしは、話したくないことは、いくらあなたに質問されても話さない。これが決まりのひとつ」
『えー!?』
イムは不満をあらわにしたが、ローエは無視して続ける。
「もうひとつ。わたしは時々ここから出掛けて、植物や食材を採りに行ったりする。その間、イムは留守番ができるかい?」
それを聞いたイムは、揺らめく髪を
『ねえローエ、ちゃんとここに戻ってくる?』
「もちろんさね。結界も、もっと広く強固にしておくよ。魔女の結界だから、安心なさい。ね?」
『……うん』
「いい子ね」
次の瞬間、イムはパッと顔を上げて言った。
『ねえ、じゃあ、ローエの後悔したことって』
「話したくないことは話さないって、言ったばかりじゃあないか」
ローエが遮ると、イムは悲しい目をして、首を振った。
『違うの。ねえ、それは絶対話したくないことなの? 永遠に?』
イムがあまりにも純粋に、全身で心配を表現していることに耐えきれず、ローエは目を逸らした。
『ねえローエ、辛いことは、抱え込んでたらもっと苦しくなるのよ?』
「そうさね……。いつか、イムに聞いてほしいと思う時が来たら、そのときは聞いてくれるかい?」
『もっちろん! いつでも待ってるわ!』
羽を羽ばたかせ、鼻に抱きついてきたイムの頭を、ローエは指先でそっと撫でた。
❃ ❃ ❃
穏やかに、時には賑やかに過ぎていくイムとの毎日は、ローエの心に安らぎを与えた。
この先ずっと、この沢のほとりで、イムと共に暮らすという選択は間違っていなかったと、イムと笑い合うたびにローエは思う。
ある日ローエは、新しい植物を探しに、結界から離れた場所へ出掛けることにした。
留守番を申しつけられたイムは不満を口にしたが、決まりを改めて言い含めると、揺らめく髪を萎ませながら、渋々といった様子で承諾した。
森の中で出会った青い鳥は、ローエを眺めのよい小さな丘に案内してくれた。沢の周辺にはない種類の草花が豊富に生息しており、ローエは思わず「なんとまあ!」と歓声を上げた。
「こんな素敵な場所があったなんて。案内してくれてありがとう」
しばらく採取に夢中になっていると、先ほど別れた青い鳥がローエの
「はいはい、なあに? ……え? 犬が?」
この先の崖で一匹の犬が、敵から何かを守るように、必死に吠えているというのである。
「子犬が崖に落ちたのかい?」
知ってしまったからには、放ってはおけない。
ローエは
崖の周辺には、数頭の狼が
身を屈めて木の陰に隠れるローエに、青い鳥が崖下の様子を伝えた。
崖の途中、少し岩がせり出た場所に犬がいて、隣には人間の男の子がうつぶせで倒れているという。犬の必死な鳴き声は、狼から男の子を守るためだったのだ。
(なんとまあ! 子犬じゃあなかったなんて!)
ローエは呪文を唱え、杖の先端にこぶし大の風の塊を生み出す。そして一番近い狼に向けて、杖を振り上げた。
風の塊が勢いよく目の前を掠めた狼は、驚いて悲鳴のような鳴き声を上げ、身をよじる。
突然の出来事で狼たちが戸惑う間に、ローエはさらに呪文を唱え、いくつもの風の塊を繰り出して狼たちを翻弄する。
やがて狼たちは遠吠えを残し、崖から逃げていった。
周囲に他の危険がないか確認したローエは、自分の体を軽くする魔法を唱え、崖下の男の子の近くにふわりと降りた。
犬が男の子を背に、ローエに向かって警戒の唸り声を上げている。
「よしよし、あんたはこの子を守って、偉かったさ」
ローエは頭巾を払って膝をつき、目線を合わせて犬の頭を撫でた。
犬は一瞬びくりと怯えたが、ローエに危険はないと察したか唸ることをやめて、撫でられるままに身を任せた。
「どれどれ、生きてるかい」
男の子の意識はないが、脈と呼吸は安定していて、出血を伴う外傷はないようだ。服装は、着古して薄汚れた一般着の上下と
なるべく振動を与えないように、ローエは男の子を仰向けにして抱えた。
「う、ううん……」
男の子の意識が戻り始める。
ローエは自分の荷物から水袋を取り出し、特製の薬茶を男の子の口に含ませた。
ごくり、と男の子の喉が鳴る。と同時に、男の子は咳込んだ。
「げほっ! げほげほっ! にっ、苦い!」
「元気じゃあないか」
ローエが言うと、完全に目の覚めた男の子は体を硬くした。
少し長い黒髪の間から、戸惑った青い瞳がローエを見つめる。
「だ、誰!?」
ローエは、考える前に行動してしまった自分を、一瞬悔やんだ。やむを得まい。
「――通りすがりの魔女さね」
「え? ま、魔女!?」
男の子は立ち上がろうとしたが、体に力が入らずに再びローエの腕の中に倒れ、
「いたた……」
「ああ、足を痛めたね? 見せてごらんなさい」
ローエは男の子の返事を待たず、
「これは冷やしてちゃんと手当てをしないと、しばらく歩けないよ」
「ううう、痛い……どうしよう」
泣くのを必死で堪える男の子に、犬が心配そうに寄り添う。
「仕方ないね、一度、わたしの住処に来るかい。すぐ治せるさ」
「えっ、でも」
「でもじゃあないよ。こんな森の奥まで何をしに来たんだい? 家はどこ? 家の人も心配するでしょうに」
男の子は気まずそうに目を伏せた。犬がくうんと細く鳴き、首を傾げる。
「別に取って食いやしないさ。いくら魔女でも」
「ほ、本当に、本物の魔女なの?」
「魔女はね、隠し事はしても嘘はつかないのさ。あんた、名前は?」
「……ジュヌ」
「あのねジュヌ、そうしたら、わたしの首に手を回してしっかり掴まりなさい。この犬は?」
「アマっていうんだ」
「そうかい。あのねアマ、あんたは吠えるの禁止さね。耳元で吠えられたら敵わないさ」
と言って、ローエは杖を横にして両手で持った腕の中に、荷物とジュヌとアマを抱え込む。
「えっ、な、何!?」
「落っこちたくなかったら、おとなしくなさいよ!」
ローエは腹に力を込め、呪文を唱えた。足元を中心に風の渦が巻き起こり、二人と一匹は一気に崖の上まで押し上げられる。
「このまま行くよ! 目を閉じなさい!」
「ひっ……!!」
ジュヌは腕に力を込めて、ローエの首にしがみつく。アマも前足の爪を立てて、ローエの外套から離れないよう必死になっている。
ローエは風の魔法に乗って、森の木々を飛び越えながら小屋の方向へ進んでいく。
結界に戻った頃には、ジュヌはローエにしがみついたまま再び気を失っていた。
❃ ❃ ❃
ローエは、沢のほとりの木陰にジュヌをそっと横たわらせた。沢の水で濡らした
「あんたはここで、飼い主を見ていなさい。薬を持ってくるから」
何か問いたそうにしていたアマの頭をひと撫でし、ローエは一旦小屋の中に入った。
その途端、ローエの鼻先にイムが突進してきた。多少は怒られることを覚悟していたが、イムの勢いは予想以上であった。
『ねえローエ! なんのつもりよ!? 誰よあれ!?』
「あのねイム、ちょっと落ち着いてちょうだい」
『ねえ、勝手に連れてこないでよ! 子供と犬なんて、あたしはだいっきらいよ!!』
「あのね、仕方なかったのさ。迷子で怪我までして、放ってはおけないでしょうに」
と話しながらローエは外套を脱ぎ、怪我の治療に必要な薬や道具を手に集める。
『いやよ! ここにあたしとローエ以外の誰かがいるなんて!』
「家の中には入れないさ。怪我を治したらすぐ帰すから。イムは花から離れないでお待ちなさい」
『ねえローエ! ローエったら!!』
イムを振り切り、ローエは再びジュヌと、彼に寄り添うアマの元へ戻った。
冷やした足の腫れにたっぷりとローエ特製の薬を塗り、清潔な布で固定する。
普通の街医者に診せたなら、おそらく数日間は安静と言われるだろう。しかしローエの薬なら、ジュヌはほどなく歩ける程度には回復するはずだ。
「まったく、あんたの飼い主はとんだ無鉄砲さね。お守りも大変でしょうに」
とローエが言っても、アマはぺろぺろとジュヌの頬を舐めるのに一生懸命だ。
やがてジュヌが小さく唸り、目を覚ました。
「ううん……ここは?」
「わたしの住処さ。薬が効いてくれば歩けるようになるから、しばらく休んでいきなさい」
「魔女、さん」
ジュヌは体を起こし、周囲を見回して不思議そうな顔をする。
「きれいな場所……。あれが魔女さんのお家?」
「そうさね」
魔法で建てたローエの小屋は、無意識に、かつて一番好きだったあの家と同じ造りに仕上がっていた。忘れられない、あの頃のまま――ローエはそんな自分に対し、自虐的に苦笑する。
「一人で住んでるの?」
「わがままな同居人がいてね、悪いけどあんたを中には入れられないのさ」
ローエは手桶に沢の水を汲んでジュヌに渡し、持っていた一包の薬を開いて見せる。中には、すりつぶした薬草がひとつまみ入っている。
「あのねジュヌ、この薬を飲みなさい。痛み止めと、傷を治す効果がある」
「苦い?」
「さあ、味はわからない」
「飲まなきゃだめ?」
ジュヌは眉尻を下げた。
「早く治りたきゃね」
ローエが言うと、ジュヌはぎゅっと目を閉じ、薬を口に入れてすぐさま手桶の水を飲み干した。
「……っ! うああ苦い!」
「いい子ね。あのね、もう少し休んだら、家の近くまで送っていくから。もう無鉄砲なことはするんじゃあないよ」
ローエは空の手桶を受け取り、使用した道具を持って立ち上がる。
しかしジュヌが、ローエの
「まっ、魔女さん!」
「なあに?」
「僕、お願いがあって……」
ジュヌの思い詰めた様子を察し、ローエは改めてジュヌの正面に座り直す。
ジュヌは大きく深呼吸をしたあとに腹を決めた顔になり、ぐっと強い瞳でローエを見つめた。
「魔女さんが、『伝説の魔女』なんでしょ!? ずっと昔、
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