第三話 魔女の後悔

 ジュヌの言葉に、ローエの心の奥がざわつく。


「病気も怪我もなんでも治せる『伝説の魔女』が、この辺りにいるかもしれないっておばあちゃんから聞いて、僕、どうしても、どうしても会いたくて、魔女さんを探しに来たんだ」

「なんとまあ……」


 いつどこで、魔女の存在をほのめかすような言動をしただろうか。ローエは、人里に立ち寄る際は必ず行商人や旅芸人を装い、魔女であることは完璧に隠していたはずだ。


「お願いします、魔女さん! おばあちゃんの病気を治して!」


 ジュヌは、子供とは思えないほどの強い力で、ローエの長衣ローブの裾を握る。


「お医者さんは、もう治らない、あと一ヶ月くらいしか生きられないって言うけど、魔女さんなら、なんでも治せるんでしょう!?」

「――」


 ローエは否定せず、ただ黙った。

 ジュヌはさらにしがみつく。潤んだ青い瞳から、次々と涙の粒がこぼれ落ちた。


「僕、お金は払えないけど、その代わりなんでもするから! 魔女さん、おばあちゃんの病気を治して! お願いします! お願い、します……!」


 とめどなく流れるジュヌの涙を、アマが舐めて拭う。


「あんたのおばあちゃんは、どんな具合だい」


 心のざわつきを抑えつけようと、ローエの出した声はいつもより低くなった。

 ジュヌは自分の服の袖で涙を拭い、アマの頭を撫でた。


「体の血が、うまく流れなくなるんだって。骨も固まって体が動かなくなって、固まった体の肌がゴワゴワの木みたいに変わってきちゃう、珍しい病気なんだって。おばあちゃんはもう起き上がることも苦しそうで、全身が痛くてごはんも食べられなくて」

「他の、家族は?」

「お父さんとおじいちゃんは、戦争に行って帰ってこない。お母さんはおばあちゃんの薬代のために働いてばっかりで、いつもは僕がおばあちゃんのお世話をしてるんだ」

いくさ、か」


 ローエの胸に、苦々しい気持ちが広がった。

 戦争のない世界の実現は、まだ叶っていないのだ。


「あんたが今ここにいて、今日おばあちゃんは?」

「今日はお母さんが久しぶりの休みで、たまには外で遊んでおいでって言われて。おばあちゃんの病気が治れば、お母さんだって楽になる。僕はまだ十歳で働けないし、とにかく魔女さんを探そうと思って……」


 と言いながら、ジュヌは再び溢れた頬の涙を乱暴に拳でこする。

 ローエは、ジュヌの頭に手を置いた。


「血が流れなくなって、骨が固まって、肌が木のようになる……これは難しいかもしれないさ」

「魔女さんでも治せない?」

「いや……、少し、お待ちなさい」


 ローエは立ち上がり、ジュヌとアマを残して小屋に戻った。

 今度のイムは、植木鉢の「幻の花」の上でローエに背を向けて、ちらりとも振り返らず座っていた。


「あのね、イム」


 ローエの呼びかけにも、まったく反応しない。


「わたしには手に余るやまいの、薬の作り方を教えてくれないかい。お願いさね、イム」

『……ねえ、それは、あの男の子のため?』


 イムは顔の半分だけで振り返った。

 ローエは自分の腕を掴んで、痛いほど力を込めた。


「わたしのためでも、あるさ」

『ローエのため?』


 イムは体の全部でローエに向き直った。

 ローエは震える喉を堪え、声を絞り出した。


「――もし、力を貸してくれるなら、ずっと話せなかったあのことを、話すよ」

『ねえ、本当?』

「約束さね」

『じゃあ、いいわ!』


 イムは羽ばたいて、ローエの目の前まで飛んできた。


『ローエのためならいいわ! ねえ、どんな病気なの?』

「ありがとう、イム」


 涙目になっていたことを、イムに気づかれただろうか。ローエはそんな心配をしながら、おばあちゃんの症状をイムに説明した。


『ねえローエ、それは珍しい病気だわ』

「そうさね、わたしも初めて聞いたさ。あのねイム、薬は作れるね?」

『もちろんよ。あたしに治せない病気はないって言ったじゃない!』

「人に伝染うつるかい?」

『伝染らないわ。ただ、血で受け継ぐ……、ううん、おばあちゃんは治るわ。ねえローエ、もう少し詳しくあの男の子に聞いてきて。治すには、すごく強い薬を作らないといけないわ。その薬に必要な木が、沢の近くにあるの。きれいな水のそばにしか生えないのよ。その木の実と――』


 イムの指示に従い、ローエは薬の調合に取り掛かった。イムが珍しい病気というだけあって複雑で細かい調整が必要となり、ローエは神経をすり減らした。


 薬が完成したのは、空に星が瞬き始めた頃だった。


「ジュヌ、起きなさい」


 木の下で、毛布に包まってぐっすり眠っていたジュヌの体を、ローエは揺すった。

 ジュヌは目をこすりながら起き上がる。その気配を察し、隣で寝ていたアマも目を覚ます。


「あのねジュヌ、薬ができたよ。これであんたのおばあちゃんは元気になる。足はどうだい?」

「うん、もう痛くない。歩けるよ」


 ジュヌは自分の力で立ち上がり、足踏みをして見せた。

 アマがその周りで嬉しそうにじゃれつく。


「じゃあ急ぐよ。きっとあんたの家族も心配しているさ」

「魔女さん! あの、薬のお金は……」

「そんなものはいい。わたしは金儲けのために薬を作ってるわけじゃあないのさ。いいかい、とても強い薬だから、一ヶ月に一度、一包ずつ飲ませなさい。これは三回分」


 ローエは三包の薬を、ジュヌの手のひらに押し付けるように渡した。


「他の人には絶対に秘密さね。魔女に会ったことも、魔女から薬をもらったことも、絶対に誰にも言ってはいけない」

「絶対?」

「そうさね。お医者さんにも、お母さんにも、おばあちゃん本人にも言わないで、うまく薬だけ飲ませるのさ。約束できる?」

「わかった。約束する」


 深くうなずくジュヌに、ローエは微笑む。


「いい子ね。その約束がお代ってことでいいさ。あのねジュヌ、あんたにもう一つ渡すよ」


 と言って、ローエは釣鐘型に咲く花を一輪、ジュヌに手渡した。

 ローエが呪文を唱えながら花に触れると、花弁は柔らかな光を帯びる。


「これを持っていれば、他の動物に見つからない。暗い場所でもあんたの足元を照らす魔法さね。あのね、一旦はあの崖まで行くから、その先はアマ、あんたなら帰り道がわかるね?」


 ワン! と一声、アマは張り切って吠えた。


「いいかい? もう無鉄砲なことはするんじゃあないよ。わかったら、またわたしの首に掴まりなさい」

「うん」


 ローエは来た時と同じように、杖を両手で横に持ち、腕の中にジュヌとアマを抱える。


「目を閉じて、おとなしくなさいよ」


 ジュヌとアマがしっかりと自分にしがみついたことを確認し、ローエは大きく息を吸って、呪文を唱え始めた。



❃ ❃ ❃



 目の前で、全身をギラギラに輝かせて揺らめく髪を逆立てたイムが、寝台ベッドに腰掛けるローエを睨みつけている。


『ねえ、今日のローエはなんなのよ!? あんな見ず知らずの子のために一生懸命になっちゃって!』

「あのね、でも、イムのおかげで薬が作れたよ」

『あたしはローエのためならって言ったじゃない!』

「そうさね、ありがとう、イム」

『ねえローエ、約束の話!』


 イムは、ローエの顔に全身をずいっと近寄せた。


「はいはい。あのねイム、眩しいから花にお戻りなさい」


 ローエは手に持っていた茶杯カップの熱いお茶を一口飲んでから、ゆっくりと話し始めた。


 それは、ローエが魔女として独り立ちしたばかりの頃までさかのぼる。

 かつて、多くの魔女が人間と共存していた時代があった。魔女たちは多様な魔法を用いて、人間の生活に恵みをもたらしていた。

 当時、世の中は各地で激しい戦争が繰り広げられていた。魔女の一人は数万の兵力に匹敵すると言われており、各国は強い魔女を召し抱えることが権力の証となっていた。


 ローエは争いごとを好む性格ではない。

 ローエが得意とする魔法は、自然の中に存在する物質を変化させて別の素材を生み出す、植物の成長を促進させるなどの、生活が多少便利になる程度の地味なものばかりだ。

 無からあらゆる物を創造する、暗示をかけて大勢の人間を使役する、まして天候すらも操れるような強大な魔法を得意とする魔女仲間からは、いつも嘲笑わらわれていた。

 しかしローエは、戦争で活躍することが正しい魔女の在り方だとは、どうしても思えなかった。

 魔法よりも、薬草の知識や治療の技術で人の役に立ちたいと願い、ローエは一人で旅に出たのである。


 ある時、各地で病気や怪我で苦しむ人を救う魔女の存在を耳にした某国の王が、ローエを探し求めた。

 これからの世に必要なのはローエの能力である。ぜひ我が国へ来て、民を救ってほしい――その思いに賛同し、ローエはある条件とともに国王に雇われることを承諾した。

 ローエの示した条件は、王宮住まいではなく、市井しせいの中で庶民的な暮らしをするというものであった。

 国王が用意した街外れの小さな家で、ローエはいつでも誰でも訪れることができる診療所を開いた。

 この小屋を無意識に同じ造りに仕上げてしまうほど、ローエには思い出深い場所である。


『ふうん。ねえ、ローエはこういう家に住んでいたの?』


 イムは花弁から羽ばたき、部屋の中をぐるりと一周した。


「そうさね。あのね、あっち側に診療所の扉があって、いつも開け放しておいたのさ。ただ話をしに来るおばあちゃんや、手伝いたいと言いながら、珍しい花や植物を見たがる子供たちなんかもよく来てね、ここはいつも賑やかだったよ」

『ねえローエ、その頃、楽しかった?』

「いや、大変だったさ。あのねイム、戦で怪我をした大勢の兵士たちが押し寄せてきたのも、一度や二度じゃあなくてね。用意していた薬が足りなくなって、王宮の新米衛生兵まで呼び寄せてね、そりゃあ大騒ぎで――」


 イムが黙って向ける視線に気づき、ローエは自分が思った以上に饒舌じょうぜつになっていたことを恥じた。


「ごめんなさいね、話が逸れて長くなったさ」

『ねえ、ローエは、その時に戻りたい?』

「いや、それはもう、無理な話さね」


 と、ローエはぬるくなったお茶に口をつける。

 イムは花弁に戻り、ローエに話の続きを促した。


 そんな生活は、長く続かなかった。

 周辺の戦争は激しくなる一方で、同時に国内でひどい疫病が流行はやった。ローエが持っているどの薬もまったく効かない、厄介な新しい病気であった。

 国王から最優先で特効薬の開発を命じられたローエは、寝る間もなく人々の治療と薬の研究に努めた。

 しかし疫病の蔓延まんえんする速度には敵わず、薬が完成した時にはすでに国民の半数近くが罹患りかんし、そのうち三分の一の人数が亡くなってしまっていた。

 ついに国王も発症したが、辛うじて特効薬が間に合った。完治した国王はしかし、ローエに対して感謝するどころか、激怒したのだ。

 なんのためにお前のような弱い魔女を雇ったのだ、大事なときにとんだ役立たずめ、さてはこの疫病もお前が流行らせたのか、我が国を弱らせるために敵国に買収されたのか――あらぬ疑いをかけられ、最終的にローエは国から追放されてしまったのである。


 救いたかった。

 どんな薬も効かず、ローエの目の前で次々に人が倒れる。

 昨日まで笑顔だった人が、病気に苦しんで、ローエに助けを求める。

 親しかった人も、お年寄りも子供も、ローエが救えなかったばかりに、苦しみながら最期を迎えた。


「――薬が、間に合わなかったのさ。わたしに能がなかったから、たくさんの人を苦しませて、死なせてしまった」


 手の中ですっかり冷めたお茶を、ローエは苦い涙と一緒に飲み干した。


「その頃に、イムと出会っていたらね」

『あたしはずっとここにいたわ』

「そうさね。『幻の花』の存在は、半分おとぎ話だと思っていたさ。今こうして一緒にいることが、不思議な縁さね」

『ねえローエは、そのことを、ずーっと後悔しているの?』


 ローエは空の茶杯を出窓に置き、大きくため息をついて両手で顔を覆った。


「わたしは魔女の落ちこぼれだから、こんなわたしを必要としてくれて、居場所をくれた国王と国民に、恩返しがしたかったのさ。でもわたしは、本当に無力で……。だから、もう、どんな病も怪我も、絶対に治したくて、それがわたしの願いでね。そうすることがせめてもの、あの時死なせてしまった人たちへの、わたしの償いなのさ」

『だからローエは、あたしの花がほしいって言ったの?』

「そうさね。旅の中、魔女であることを隠して、重い病や怪我で困っている人を治したりもしたのさ。その程度で償いになるとは言えないけれど……」

『ねえ、それならどうして、ローエは旅を続けてたの? またどこかで診療所を開けばいいじゃない?』


 イムがそう言うと、ローエは顔を手で覆ったまま、ますます体を縮こませた。


「あのねイム、わたしはもう、人とは暮らさない。大切なものを失うことは……もう、たくさんさね」

『ねえローエ!』


 イムは羽ばたいてローエの白髪のみつあみを掴み、勢いよく引っ張った。

 ローエは驚いて顔を上げる。


「いたた、なあに?」

『あたしは、ローエに会えて嬉しいわ! ローエの家はここで、今はあたしが一緒にいるのよ!』

「イム」

『ローエは今日、怪我をした男の子と、病気で苦しむおばあちゃんを救ったわ! ねえローエは、あたしと一緒にいれば、もう二度と、後悔することはないってこと! あたしがいれば、ローエの願いは叶うってこと! ねえ、そうでしょ!?』

「そうさね。その通りさ」

『ねえ、あたしはローエが大好きよ! だから、あたしはこれからもずーっと、ローエと一緒にいるわ。だってローエの家はここで、ここはあたしの家だもの!』

「イム……」


 イムはローエの鼻に抱きついた。


『ねえローエ、あたしに話してくれてありがとう。ねえ、つらかったのね、ローエ。ずっと一人で抱えてきたのね。でも、あたしがいるから大丈夫よ? ローエはもう一人じゃないわ』

「――」

『おやすみローエ!』


 イムは一瞬、ローエの鼻に口づけをした。そして素早く花の上に戻り、ローエに背を向けて丸まってしまった。

 ローエはあの頃の自分のために涙を流すことを自分に許し、寝台の中でしばらく静かに泣いた。

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