魔女の病

小豆沢さくた

第一話 妖精の取引

『――ねえ! 勝手に触らないで!! ここで何してんのよ!?』


 と、甲高い声が聞こえたのは、魔女が身を屈め、その花に手を伸ばした時だった。

 魔女は、目深まぶかに被っていた外套マント頭巾フードを少し上げて、周囲を見回す。


『ねえ、どこ見てんの、ここよ!』

「ん?」


 魔女が目を凝らすと、膝丈の高さに咲く花弁の上に、小さな妖精の姿が現れた。

 日の光に透けて四肢は白く淡く輝き、背中に畳まれた極薄い羽を覆うように、きらめく長い髪が陽炎かげろうのごとく緩やかに波打っている。

 妖精は、七彩しちさいにも見える不思議な色の大きな瞳で、ぐっと魔女を見上げていた。


「なんとまあ、きれいな妖精さんさねえ」

『ねえあんた、どうやってここまで来たのよ? 結界があったでしょ!?』

「ああ、あの結界ね。ちょっと通らせてもらったのさ、ごめんなさいね」


 魔女がそう言うと、妖精はさらに大きく目を見開いた。


『あたしの結界を抜けたの!? あんた何者よ?』

「通りすがりの魔女さね」

『まじょ!? なんで魔女がここにいるの?』

「なんでって――」


 特に行く当てがあったわけでもない。魔女は長い間、気の向くままに一人旅を続けていた。


 この山を越えて、新しくおこった国を見に行ってみようかと、魔女は気まぐれに山奥へ続く獣道を歩き始めた。

 しばらく行くと、かすかに聞こえるせせらぎに気づき、興味本位でそちらに足を向けた。

 しかし、一向に水音の源にたどり着かない。

 違和感を覚えた魔女は、魔法で周囲の気配を探った。するとこの土地には、空間をゆがませて、近づくものを惑わせる結界が張られていたのだ。

 魔女はさらに呪文を唱え、結界を通り抜けることに成功した。


 その先には、どこまでも透き通った水の湧き出る、小さな沢があった。

 沢のほとりには、伝説とうたわれている一輪の「幻の花」が、凛として咲いていた。


 「幻の花」は、過去に読んだ古い文献にあったとおり、それはそれは不思議な、一言では言い表せない色をしていた。

 たとえるなら、とても寒い国の、一番寒い季節の夜空で見ることができる極光オーロラのように、絶え間なく色が移ろっているのである。

 天を仰ぐ花弁一枚一枚も、地面から空へまっすぐに伸びる茎も、陽光をすべて受け止めようと幾枚も広がる葉も、すべてがそれぞれに違う色に変化しながら、輝いている。

 これほどまでに美しい造形物に出会ったことは、永い永い魔女の人生でも初めてだった。


 なんと、なんと美しい花だろうか。

 本当に、この世に存在していたなんて。

 ああ、これさえあれば、わたしは――。


『ねえ、あんたはあたしの花が目当てなんでしょ!?』


 妖精の声に、魔女は我に返る。


「いや、たまたまたどり着いただけさ」

『たまたま!? わざわざ結界を越えて?』

「結界なんてあったら、その先に何があるのか気になるじゃあないか。まさか伝説の、『幻の花』が咲いているなんてねえ」

『魔女って、ずるい!』


 妖精はぷくりと頬を膨らませた。

 その可愛らしい仕草に、魔女は思わず噴き出してしまった。


『ねえ、なんで笑うのよ?』

「ああ、ごめんなさいね、魔女でずるいなんて、初めて言われたさ。笑ったのも本当に久しぶりさねえ。あのね、あの結界はあなたが張ったのかい?」

『そうよ! 今まで誰にも破られたことはなかったのよ!』


 妖精は腰に手を当て、魔女を睨みつけた。


「いや、よくできた結界だったさ。魔女のわたしも惑わされるところだった」

『ねえ、そうでしょお?』


 褒めた途端、妖精は胸を張った。

 なんと単純かと、魔女は再び噴き出しそうになったが、代わりにふうと息を吐いた。


「確かにね、この『幻の花』は、触っただけでどんなやまいも怪我もたちまち治すっていうじゃないか。それが本当に実在したことに驚いているのさ。一緒に妖精がいたことにもね」

『あたしはずっとここにいたわ。ねえあんた、あたしの花をどうするつもり!?』

「どうもしないよ。でも、あのね妖精さん。わたしはね、この花があれば、償いができるのさ」

『償い? ねえ、何か悪いことしたの?』

「ずっと――後悔をしていてね」

『後悔?』

「そうさね。ある病が、治せなかった。こればかりは何百年生きようとも、ずっと忘れられない」


 その記憶は、魔女の胸に鋭い杭として深く打ち込まれ、決して抜けることはない。

 妖精は花の上で身をよじり、魔女の伏せた顔を覗き込む。


『ねえ、あたしの花があれば、あんたの後悔は消えるの?』

「いや、消えない。ただどうしても、償いがしたいのさ。あのね、妖精さん」


 魔女は顔を上げ、妖精を見つめた。

 妖精は大きな瞳で、魔女を見つめ返した。


「花びらの一枚だけでいい。わたしに、分けてくれないかい?」

『だめ』


 即答だった。


「ああ、そりゃあ残念」


 よっこらしょ、と魔女は脇に置いていた杖を手に持った。

 その杖は堅い木製で、節くれだった柄には握る手の形に沿って窪みができていた。上部の先端は、渦のように何重にも丸まっている。


「じゃあもう、ここに用はな――」

『待って、違うの!』


 妖精は魔女の言葉を遮り、透き通った羽を羽ばたかせて魔女の目の高さまで飛んだ。


『ねえ、あたしの花は、花びらが一枚でもなくなると、すぐ枯れちゃうの。葉っぱが少し傷つくだけでもそう。この姿じゃなきゃいけないの。この沢の水がないと枯れちゃうの。あたしの花が枯れちゃったら、あたしだって……』

「そうかい、そりゃあ悪かったさ」

『だからだめって言ったの。あとね、あとね!』


 妖精は興奮した様子で、魔女の目の前をくるくると舞う。


『退屈すると枯れたくなっちゃうの!』


 予想外の言葉に、魔女は面食らった。


「なんとまあ。今まで自分で結界を張っていたのに?」

『風と水と、お日様とお月様とおしゃべりしてたわ。でも、あんたが来ちゃったんだもん! もっと、たーくさんのことを知ってる魔女が! ねえ、あんたはあたしの花がほしいんでしょ!?』

「そりゃあ、まあ」

『ねえ! 後悔って、何をしたの!? 償いって、何をするの!?』

「えっ」


 言葉に詰まる魔女に、妖精はいたずらを思いついた子供のような表情で、さらに迫る。


『ねえ、じゃあ、こういうのはどう? あんたは毎日ひとつ、あたしに新しいお話を聞かせて! あたしの花はあげられないけど、その代わりあたしが、薬の作り方を全部教えてあげる! あたしに治せない病気はないのよ!』

「あのね、そんなことができるのかい?」

『そうよ! ねえ、それならあたしの花がなくても、あんたの言う償いができるでしょ!?』

「つまり、取り引きかい?」

『いいでしょ? ねえ、ずっとここにいて! ここに住んでよお! 魔女なら魔法で住む家くらい造れるでしょ? ねーえー!!』


 と言いながら妖精は、頭巾の下から覗く魔女の皺だらけの鼻に、全身で張りついた。

 魔女は肩を上下させ、大きくため息をつく。


「ちょっと、離れてちょうだい」

『いや! うんって言うまで離さないんだから!』


 魔女が首を左右に振っても、妖精は鼻の皺に手を引っ掛けて必死にしがみついている。


「困った妖精さんさね」

『だめ!』

「とりあえず離れてちょうだい」

『いや!』


 魔女は寄り目になって、鼻にしがみつく妖精を見る。


「あのね、本当に、あなたに治せない病はないのかい?」

『うん、本当よ! なんっでもよ! 任せて!!』


 妖精の瞳に一段と強い輝きが宿った。


 魔女の旅には、目的も終わりもなかった。世界中の気になる場所は、すでにだいたい見て回った。

 時々思い出したように、行商人や旅芸人を装って人里を訪れ、また離れる。そんな何にも縛られることがない旅を、魔女は長い間ずっと一人で続けていた。

 しかしこの先、死ぬまで孤独である寂しさを思うと、さすがの魔女でも気弱になることがある。

 そろそろ腰を落ち着けて――しかも伝説の「幻の花」の隣で、この可愛らしくもわがままでかしましい妖精と――余生を過ごすのも、悪くないかもしれない。

 と、魔女は妖精の眩しさに目を閉じた時、そんな思いに駆られた。


「――ああ、わかったよ、降参さね」

『本当!?』


 妖精は魔女の鼻から離れて、くるりと一回転した。喜びがあふれ出たかのような光の尾が、踊るようにたなびいた。


『ねえ、ずっとここにいる!? ずーっと!?』


 魔女はやれやれと苦笑する。


「そうさねえ、あなたが枯れるか、わたしが死ぬまではね」

『ねえ!』


 妖精は空中で再び一回転し、またも魔女の鼻にしがみついた。


『もう隠さなくていいでしょ? あんたの顔!』

「はいはい。眩しいから離れてちょうだい」


 魔女が被っている外套の頭巾を他人の前で外すのは、いつ以来だろうか。


『ねえその顔、すっごく皺ばっかりなのね! そんなに皺ばっかりで、ちゃんとあたしが見えてる?』


 妖精があまりにも素直に、楽しそうに笑うので、魔女は思わず釣られて笑ってしまった。


「これでも目は悪くないさ」

『魔女って長生きなんでしょう?』

「そうさね、人間の百倍は生きる。わたしも五百歳は超えたかねえ」


 妖精は、魔女の肩から垂れ下がるみつあみの長い白髪の束を、両腕で抱えて持ち上げる。妖精はそのまま腕の輪の中を、みつあみの毛先までするりと滑らせた。


『ねえ、きれいな真っ白の髪! 瞳は灰色なのね? えへへー』


 妖精は白髪の前髪に掴まり、逆さまになって魔女の顔を覗き込む。


『あたし、イムっていうの。ねえ、あんたの名前は?』


 最後に名前を呼ばれたのは、もう何百年も前のことだ。

 魔女は遠い遠い昔、かつて人と近い場所で暮らしていた時代に思いを馳せる。

 人と触れ合う温もりや心地よさ、煩わしささえも甘やかな思い出として、魔女の心の一番奥に大切に仕舞われている。

 しかし、決して消えない深い後悔は、それらを思い出すたびに一瞬で真っ黒に塗り潰し――。


『ねえ? どうしたの?』


 イムに呼びかけられ、魔女の意識は記憶の中から今に戻る。


「――ローエ」

『ローエ?』

「それが魔女の名前さね」

『ねえローエ、これからあたしと、ずーっと一緒ね! 約束よ!』


 こうして人知れぬ山奥の沢のほとりで、魔女のローエと「幻の花」の妖精イム、二人の暮らしが始まったのである。

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