妄想分岐のブランチワールド

楠樹 暖

妄想分岐のブランチワールド

 初夏の日差しが肌を焦がす季節の日曜日に僕らは出会った。

「今何時ですか?」

 長い髪をなびかせた少女が僕に訊ねてきた。

『この少女との出会いが世界の命運を決めることになるとはまだ僕は気づいていなかった』

 もちろん、これは僕の妄想だ。

 中学のころから何か選択肢があるとその選択があたかも人生の一大事のように妄想して楽しんでいる。

 たとえば、寝坊して電車を一本乗り過ごしたら『乗ろうとしていた電車が脱線事故を起こすことになるとは僕はまだ知らなかった』とか、コロッケパンか焼きそばパンで、コロッケパンを選んだときは『焼きそばパンの焼きそばが集団食中毒の原因となることに僕は思いもよらなかった』などというようにだ。

 さて目の前の少女だが、僕に話しかけてくる女子がいるとは思えないのでついつい妄想が暴走してしまう。

 少女の時間を聞かれてからわずか1ミリ秒のあいだに二人は数々の障害を乗り越え、襲い来る敵を蹴散らし、やがて恋に落ち、白いチャペルで結婚式をあげ、少女がブーケを投げたところで現実に戻った。

 スマホを取り出し時間を確認した。

「えーと、15時過ぎです」

「まだ1時間もあるわね」

 少女は僕の手をぎゅっと握って体を引き寄せ、耳元に顔を近づけこう言った。

「しばらく付き合ってもらうわ」


 少女と二人で喫茶店に入る。エアコンの風が心地いい。

「私は50年後の未来からやってきたエージェント」

 何を言い出すんだこの子は?

「正確には、γ5786#918‐23の世界のアメリカ合衆国日本州から来たの」

 わけの分からない数字を並び立てられてぽかーんとする。

「世界というのは一つじゃなくて、色々な並行世界が存在するの。

 並行世界が新しく生まれるタイミングは特異点となる人物の行動と妄想によるの。

 私の世界γ5786の特異点はあなた。あなたの行動と妄想が世界を分岐させて新しい並行世界を作り出しているの」

「いや、何を言っているのかチンプンカンプンだよ。

 僕の妄想で世界ができるとか」

「たとえば、あなたが最初に世界を分岐させたγ5786#1‐1の世界は、あなたが乗り過ごした電車が脱線事故を起こして多数の死傷者が出たわ」

「えっ!? そんな事故、聞いたことないよ」

「そりゃそうよ。あくまで分岐させた別ルートの世界の話だから。

 あなたが今いるのはメインルート。メインルートでは脱線事故は起こらなかった。起こったのはγ5786#1‐1のルート」

 にわかには信じがたい話だ。

「あなたは自分でも知らないうちに世界を分岐させ続けているの。

 私の世界γ5786#918‐23もその一つ。

 私の世界はあなたの妄想のおかげで第三次世界大戦が勃発し、日本も巻き込まれることになったの。

 そのせいで日本はボロボロになり、結果アメリカに合併されることになったの。

 戦争は悲惨だったけど副作用で並行世界の研究が進んで別世界が観測されることになったの。

 応用でタイムトラベルも可能に。

 それで、私の使命は第三次世界大戦のきっかけとなったあなたの妄想を止めること。

 これから約45分後にあなたはある出来事に遭遇し、世界大戦のきっかけとなる妄想をする。

 それを起こらないようにすればミッションクリア」

「ひょ、ひょっとして僕を殺すとか……」

「馬鹿ね。そんなことをしたらγ5786世界そのものが無くなってしまうわ。

 やることはただ一つ。何事もなく平穏無事に今日の16時をやりすごすこと」

 少女は時刻を合わせた腕時計をチラッと見た。

「今日の16時っていうのは正確なんですか?」

「ええ、観測班の報告ではγ5786#918‐23が誕生した時刻は今日の16時2分。

 そこが始まりの時刻よ」

 僕らはコーヒーを飲みながらその時を待った。

 傍から見たらデートをしているように見えるかもしれないが、これは世界の命運を賭けた戦いなのだ。

「ところで、ミッションが終わったら元の世界に帰るんですか?」

「ミッションが成功すればγ5786#918‐23世界は無くなっているはずだからもう帰れないわ。

 それに、タイムマシンは送り出すだけで、行った先の世界にタイムマシンが無ければ戻るころはできないわ」

「じゃあ、一方通行で、この世界に残るしかないんだ……」

「大丈夫よ。死ぬわけじゃないし。私の行動で多くの命が救えるなら本望よ」

 未知の世界にやってきて世界を救う重圧とはどんなものだろうか? 想像もつかない。

 やがて時が過ぎ、少女の腕時計が時報音を鳴らした。

「16時ね。あと2分。もう席を立たないで。16時3分までは何もしないで」

 刻一刻と時間が進む。

 ――16時02分。この1分間をやり過ごせば世界が救われる。

 息を殺して何もしない。何も考えない。

 ――30秒前。

 ――10秒前。

 ――5秒前。

 4、3、2、1、0。

「16時3分。どう?」

「何も考えてないよ」

「成功ね」

 少女はカバンから何やらよく分からない装置を取り出し計測を始めた。

 画面には『γ5786#918‐23』の文字が表示されている。

「そんな……。メインルートじゃない。

 既にγ5786#918‐23世界になっている……」

「それはどういうこと?」

「失敗したわ……。

 既に第三次世界大戦に突入するルートになっているわ。

 どうして?」

「この1時間は妄想していないよ。

 最後に妄想したのは……君に会った時だね」

「1時間前の15時……。1時間!?

 ひょっとして! 今ってサマータイムじゃないの?」

「今の日本じゃサマータイムは導入していないよ」

「アメリカ合衆国日本州ではサマータイムを導入しているの。

 観測班が16時02分と記録したのはサマータイムで時計を1時間早めた時刻だったのね。

 だから、サマータイムじゃない実時間では15時02分だったと……」

「あ、その時刻だと『この少女との出会いが世界の命運を決めることになるとはまだ僕は気づいていなかった』って妄想してた……」

 ミッションに失敗した少女はテーブルに突っ伏している。

 世界は避けられない大きな流れに突入してしまった。

 でも、少女と世界には悪いが僕は少しワクワクしている。

 僕にはこれから先にブーケを投げる少女の姿が見えているのだから。


(了)

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