忠告
「父さま、母さま、見て! かわうそ~!」
お福は川の茂みの陰に隠れるようにしていた獺を見つけては指を指し、嬉しそうにする彼女を、真吉もおヨネも川岸で微笑ましく見つめていた。
幸之助はそんな真吉たちの傍で沢蟹相手にちょっかいを出していた。
砂利が沢山ある中で、沢蟹はそれを物ともせず足早に立ち去ろうとするが、幸之助は負けじとその沢蟹を追い回す。そして茂みの中に入り込んだ沢蟹を、幸之助は狙いを定め思い切り飛び込む。すると同時に「ひゃあっ!」と悲鳴に似た声が上がり、幸之助はパッと顔を上げると、そこには体を休めていた華鼠がいたのだ。
「何や! びっくりしたちや!」
「あ、ご、ごめんなさい。蟹がここに入って行ったから……」
「何? 蟹やと?! どこや、どこ行きよった!?」
「え……? あ、えっと……分からなくなって……。ごめんなさい」
目の色を変えて蟹を探す華鼠に、見失った幸之助は申し訳なさそうに謝った。
「夕飯にしようと思ったに……。まぁ、見失ったんやったらしょうないわ」
華鼠は残念そうに呟くと、幸之助に向き合った。
幸之助は目の前にいる美人を、思わず惚けたように見つめてしまう。その様子に華鼠は思わず笑ってしまった。
「何? 見惚れたような顔しよって」
「え!? あ、ご、ごめんなさい」
「まぁかまんけんど。うちは華鼠言うがやけど、あんたは?」
「あ、こ、幸之助です……」
「幸之助。えらい可愛いねぇ」
華鼠は目の前の幸之助の頭をぐりぐりと撫でまわした。
「ほんで? その幸之助はどういてこんな所におるが? 見たところ野良やないようやけど。家から逃げてきたがかえ?」
「えぇっと、今日は主に連れて来てもらいました」
「へぇ? あんたみたいな子猫をわざわざ連れて来るやなんて、珍しい主やね?」
「珍しいと言うか……凄く優しいお方です」
幸之助はいつも真吉のことを悪く言おうとはしない。相手が少しトゲのあるような言い方をしたとしても、違う言葉に置き換えて答えている。
幼いながらになかなか機転の利くその答え方に、華鼠は感心したように見つめた。
「あんた、随分賢いんやね」
「賢いかどうかは分かりませんが……」
困ったようにそう答える幸之助に、華鼠はケラケラと笑う。
賢いだけでなく謙虚さまで持ち合わせているとは、大したものだ。
「うち、あんたが気に入ったわ。賢い子は好きながよね」
「え!?」
「幸之助。その賢さと謙虚さ、これからも忘れずに持っちょきよ? それは絶対に忘れたらいかんことやきね?」
「あ、は、はい」
華鼠は戸惑いながらも素直に返事を返す幸之助に、にっこりと笑って再び頭をぐりぐりと撫でつけた。
華鼠との出会いはその時のそれだけだった。
しかし、それ以来一度も会わずに今まで来ていて、本当に久し振りの訪問だったのだ。その時限りの接点だけで特別親しいわけでもなかったのに、何故突然ここへ訪ねてこようと思ったのか。
華鼠はもう一匹の干し魚を齧りながら言葉を続けた。
「……妖狐殿から聞いたがよ。前の主が亡くなって、しばらく主を立てんかった幸之助が、最近新しい人間の主を立てたって。しかも新しい主さん言うんは、女子らしいやんか」
「はい。黒川の末裔の方で、加奈子殿と言います」
幸之助は自分でも知らず知らず、加奈子の事を思い出すと表情が柔和になる。その表情を見ていた華鼠は、杯の酒を煽って飲み口を下に向けてお膳の上へ置くと、幸之助を真っすぐ見つめた。
「幸之助。単刀直入に聞くわ。あんた、その加奈子殿の事好きやろ」
「え……っ」
思わずドキッとしてしまう。
いや、嫌いではない。もちろん好きだ。加奈子が傍にいてくれた時は全てが明るく見えて、楽しかった。共にあるだけでとても心が軽くなり、どんなに嫌な事があったとしても彼女が傍にいれば全て御破算となる。それぐらい、加奈子は幸之助にとって大きな存在だった。
だから隠す必要もない。心に素直なままこくりと頷いた。
「はい。好きです」
そのあまりに素直な答えに、華鼠はくすっと笑った。
「あんたはほんま、昔から変わらんねぇ。素直なんはえいことよ。で? しかもその好きは、女子として好きゆう事やろ?」
「女子、として……」
いや、自分は主として……。
一瞬そう考えたもののただの主としての好きならば、わざわざ東京に好きな男がいるかなど聞いたりはしない。それに、彼女のうなじに……。
そこまで考え至った瞬間、幸之助は顔から火が出るほど真っ赤に染め上がった。
「……そ、それは……その……」
「……っぷ。あっはっはっはっは!」
急にどもり始める幸之助に、華鼠は耐えきれずに豪快に笑い出した。
突然笑い出した華鼠に対し、幸之助はただただ困惑と気恥ずかしさと、ほんの僅かな苛立ちを抱く。
「か、からかいに来たんですか?」
「ちゃうちゃう、そうやないで。その逆や」
「逆?」
笑い転げる華鼠に幸之助が狼狽えて聞き返せば、目に涙を浮かべ手を振りながら幸之助の言葉を否定した。そして滲んだ涙を拭いながら、口元だけを緩やかに笑みを残してまっすぐに見つめ返す。その視線は決して冗談を言うわけでもない、真面目なものだった。
「忠告に来たがよ」
「……忠告、ですか?」
突然の物々しい言い方に、幸之助は思わず眉間に皺を寄せた。
華鼠はそんな幸之助を見やり、わずかに乱れた横の髪を耳にかけながら話を続ける。
「うちらあやかしと人間は時間だけやない。様々な事が違い過ぎる。もう知っちゅうことやろうから、今更言わんでも分かっちゅうことやと思うても無理はないけんど、大事なことながやで? 一時はえいかもしれん。でも、いずれ必ず後悔することになる。それが幸之助か加奈子殿かのどちらかが必ずや」
鬼気迫るような華鼠の表情に、幸之助は思わず眉間に皺を寄せた。
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