お福
「それは……あなたにも経験があると、そう言う事ですか?」
必ず後悔をする。
そう言い切った華鼠の言葉に、幸之助は怪訝に思いそう訊ね返した。すると華鼠は、すっと視線を外し、僅かに開く障子の隙間から見える外の雪を見つめた。
「正確に言うたらうちやない。うちやのうて……お福や」
「お福殿……?」
その名前に幸之助はますます眉間に皺を寄せた。
お福は確か15になってすぐに嫁いで行った。それも当時では珍しい行きずりの旅商人に見染められ、お福もその商人に心を奪われお互いに相思相愛だったと聞いている。真吉もとても気に入っていたようだし、そんな悪い相手ではなかったはず。それに、とても幸せそうだったのを知っている。
「お福殿は、
幸之助がそう答えると、華鼠は大きく頷きながら「表向きはね」と言葉を付け足した。
「問題は、その旅商人。そいつがうちの仲間の一人やったがよ。幸之助。嫁に出たお福がその後どうなったか、知っちゅう?」
「いえ……」
そうやろうな。とため息交じりに呟いた。
「お福にとったら、えらい辛い事やったろうと思うで」
「どう言う事ですか?」
いまいち話が掴めない幸之助は膝を詰めて華鼠に訊ねると、彼女はポリポリと頭を掻き、ひっくり返していた杯を再び手に取るとすっかり冷めた酒を注いだ。
外はいつも以上にシンと静まり返っているのは、いつの間にやら庭にはうっすらと雪が積り始め、木々にも積ってき始めたからだ。
僅かに隙間の空いた障子戸からは冷え切った空気が流れ込んでくる。
「お福とその商人の出会いから話そか。幸之助も興味あるやろ?」
華鼠は杯に注いだ酒を見つめ、ぽつりと呟くように語り始めた。
◆◇◆◇◆
お福が15の誕生日を迎えたのは、桜舞う春麗らかな日だった。
おヨネに買い物を頼まれ商店まで出ていた彼女の目についたのは、村の片隅に集まっている人の集団だった。
お福は特に何を売っているのかと興味があるわけではなかったが、何となく沢山の女性で出来た人垣の前で足を止めると、その向こう側から若い男の声が聞こえて来る。
「これはここではまずなかなか手に入らない、京の都で有名な
そんないかにもな謳い文句が声高に聞こえ、その紅を買うために女性たちはキャアキャアと声を上げて、我先にと手を上げている。
化粧など、そんな贅沢なものなんか必要ない。
と、お福はちらりとその人だかりを横目に通り過ぎようとした。しかし、そのお福を呼び止めたのは他ならぬその旅商人だった。
「おおっと、そこ行くお姉さん。どうだい? 見て行かないかい?」
その声に、それまで騒いでいた女性たちは揃いも揃ってお福の方へ視線を投げかけて来る。お福は一度に多くの視線にさらされたことで不機嫌さと恥ずかしさに下唇を噛み締めた。
なぜ声をかけて来るんだろうか。余計なことをしないでほしい。
正直、そんな思いでいっぱいになった。
数奇の目に晒されたお福は、手に持っていた折りたたまれた風呂敷をぎゅうっと握り締め、その視線を振り切るように顔を逸らす。
「……私には必要ないわ」
お福はそう言うと、こちらを見つめる女性たちの視線から逃れるようにパタパタとその場から駆け出していく。
そんな彼女の後姿を見ていた他の女性たちの中でボソッと呟く者がいた。
「あれ、真吉のところの娘やろ? あんな子に化粧なんか無意味やん」
「親が親やきね。どんなに色気付いたち、貰い手なんかあるわけないで」
そんな心無い囁きと嘲笑は、当然旅商人の耳にも届いていた。
あまりにもこそこそと囁かれる心無い言葉に、本来なら聞かぬ存ぜぬで通せるものを、旅商人は黙ってはいられなかった。
なぜなら、何食わぬ顔をして立ち去った彼女の微かに滲む寂しげな色が見えたから。
「お姉さんがた、そりゃあ言うたら酷ですよ。
「な……」
ズバリそう言い切られた女性たちは顔をこわばらせて商人を見た。だが、商人は別段その視線に対して怯えるでも軽蔑するでもない、涼しい顔でさらりと受け流す。
「あの子がどんな環境におる子かは知りませんけんど、人の事をとやかく言う権利は誰にもありません」
「な、何やの! もうええわ! こんなもんいらん!」
先陣を切って陰口を叩いた女性はカッとなって、先ほどまで欲しいと言っていた紅をこれみよがしに叩き返した。落ちた衝撃で貝殻は割れてしまい売り物にはならなくなってしまったが、旅商人は特に気に留めた様子もなくそれを懐へ仕舞いこむ。
「……それで? 他のお姉さんがたは買うて行かれるんですか? 止めるんですか?」
「……っ」
ちらりと見上げられた商人の鋭い目に、ギクッとなったように視線を逸らし半数以上がその場に紅を置いて立ち去って行った。
「……商売上がったりやなぁ。まぁ、しょうない」
苦笑いを浮かべながら、旅商人は店を畳もうと片づけを始めた。
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