新荘川の主、華鼠


「雪……」


 はぁ、と吐く息が白く、縁側を歩いているだけで手足が凍えるほどに寒い。早く火鉢のある場所に移動しようとして、縁側を歩いていた幸之助はふと空を見上げて足を止めた。


 空からは雪がふわふわと静かに舞い降り、庭先へと消えていく。次から次へと、音もなく降る雪の粒は大きい。

 幸之助が何気なく軒先から手を差し出すと、大粒な雪はゆっくりと手の上に舞い降り静かに溶けて消えていく。


 牡丹雪と見る限り、このまま降り続けば明日には辺り一面真っ白な銀世界に包まれることだろう。

 まだ雪が降るにしては少し早い季節ではあるが、近頃は寒暖差が激しく昔のようには過ごせないことは、もはや承知の上だ。


 なのにこの悪天候の中、今日はお客人が来ている。

 須崎すさきからわざわざこんな山の中にまで足を運んできてくれたのは、華鼠かぶそと呼ばれるかわうそのあやかしだ。


 以前は新荘川しんじょうがわの川辺に棲み、川魚を獲って生活をしていたその華鼠。何用でここまで来たのか幸之助には分からなかった。


「……冷めてしまう前に持って行こう」


 幸之助の持っている盆の上には温めてきた酒の入った徳利と盃、そして酒の肴にと用意した、青ネギの乗った厚揚げの竹虎と大根おろしの乗った雪虎。そして川魚の干物なども付け添えてある。


 広間まで来ると中からは豪快な笑い声が響き渡っており、まるでお祭り騒ぎだ。


「お待たせしました」

「待っちょったで!」


 豪快な声でそう声をかけられた幸之助は、ゆっくりと障子を開く。すると中にはすでに出来上がっている鞍馬と、顔色一つ変えずに空いた徳利を握り締める美しい女性がいた。


 黒曜石のように黒く、くりくりとした綺麗な双眸を持つ彼女は、どこか表情に幼さが残っているものの、美人という括りには入る。しっとりと絹のように艶めく長い髪を下の方で結び、この季節にはあまり似つかわしくない薄いピンク色の着物を着て来ていた。


 こうして容姿だけを見れば、誰もが一度は振り返るだろう。……黙っていれば、の話だが。


 見た目とは裏腹に、華鼠は豪快な言葉遣いと男勝りな性格をしている。酒を浴びるほど飲んでも二日酔い知らずなほどの酒豪だ。黙っていると酒屋の酒が一晩で無くなってしまうと言う噂も慎ましやかに流れている。


「おお、こりゃ美味そうな肴やんか! おおきに!」


 差し出された物を見て、華鼠は歓喜の声を上げた。

 暖かい徳利と新しい杯を受け取ると、すかさず鞍馬の前に差し出した。


「鞍馬! ほれ、早う! 次の酒が来よったで!」

「おほぉ……わしぁもう飲めんぞぉ……」


 完全に泥酔しているように見える鞍馬に、華鼠は檄を飛ばす。


「何や、男のくせにだらしない。それっぱぁな酒でもうしまいかよ!」


 すると、一瞬沈黙を守っていた鞍馬が肩を震わせてバカでかい声で笑い始めた。


「だぁっはっはっは~! さすがに騙されんかったか! さすがは華鼠や。おう! わしぁまだ飲める! 飲むぜよ!」

「そうやろ! それでこそ男やで!」


 二人でゲラゲラと笑いこける横で、幸之助は空いた皿と酒器を片付けていた。


 完全に鞍馬は出来上がっている。ぱたりと寝こけてしまうのも時間の問題だろう。

 それにしても華鼠は顔色がまるで変わらない上に、飲むペースも一向に衰えない。水でも飲んでいるのかと言うほどの早さで次々と杯を煽った。


 しかもそんな彼女が手に持っているのは通常の杯じゃない。穴吸あなきゅうと呼ばれる土佐伝統の杯で、底が駒のように三角になっていて机に置くことが出来ないだけでなく底の横側に穴が開いているのだ。酒を飲む時はその穴を自分の指で塞いで飲まなければならず、置くことが出来ないとなれば、もはや飲み続けるしかない。


「べろべろの~神様は 正直な神様よ 鞍馬の方へおもむきゃね おもむきゃね~」


 華鼠が口ずさむその歌は、土佐のお座敷で歌われていた歌だ。

 これは可杯べくはいと呼ばれ、名前を呼ばれた相手は注がれた酒を飲み干さなくてはならない。もし、その礼儀に反した場合はもう一杯飲み干さなくてはならないと言う、まさに「べろべろ」になる物だ。


 彼女はその歌を口ずさみながら鞍馬の杯に酒を注いでいくと、鞍馬は礼儀に沿って酒を仰いでいく。


 大丈夫だろうか……。

 

 幸之助はそんな二人の様子を見守りつつ内心鞍馬の事が心配になり始めた頃になると、とうとう鞍馬は根を上げた。


「ふぁあぁ~……もういかん! もう飲めん! 参った! 降参じゃ!」

「何よ。もう飲めんがか。つまらん男やねぇ」

「つまらんつまらん! わしゃあつまらん男やきねゃ~。つまらん男は厠に行って来る!」


 鞍馬はゲラゲラ笑いながら、聞いたこともないような鼻歌を歌い、千鳥足で部屋を出て行った。しばらくすると遠くの方で何かが派手に転がる音と「いたぁーっ!」という叫び声が共に響いて来る。大方、玄関先に置いてあった手桶か何かを蹴倒したに違いない。


 あのまま厠に行って戻ってこなかったら拾いにいかなければならないなと、幸之助は浅いため息を吐いた。


「ほんま、鞍馬は一人で賑やかな奴やねぇ」


 華鼠はこちらを振り返ることもなくそう呟きながら手酌で酒を杯に注ぐ。徳利を置くとその手で川魚の干物に手を伸ばしてぱくりと頭から食べ、すぐに酒を仰いだ。


「っく~~~~~~~~っ! ほんま美味い!」


 身に染みる! と言わんばかりに顔全体で幸せそうな笑みを浮かべた。


「華鼠殿。今日はどのようなご用件でこんなところまでいらっしゃったんですか?」


 タイミングを見計らい幸之助がそう訊ねると、華鼠はやはり振り返ることもなくさらに手酌で酒を注いでいる。


「久し振りに幸之助の姿が見たくなったがよ」

「……それだけですか?」


 他に何かあるのではないかと勘繰るように聞き返せば、華鼠は酒を煽ってからようやくこちらを振り返った。


「それだけち、昔の顔なじみの様子を見に来たらいかんがかえ?」

「いえ、そう言うわけでは……」


 幸之助は華鼠と面識がある。

 真吉の娘、お福がまだ幼い時に一緒に連れられて新荘川に遊びにいった事があるのだ。昔はそこかしこに華鼠の仲間が沢山棲んでおり、お福は仲間を見つける度に歓喜の声を上げていたのを思い出された。

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