後悔

 寄相神社を後にした加奈子を見送った狸奴は、長いため息を吐き月明かりの降り注ぐ社の屋根に座り込んだ。

 

 誰もいなくなった神社。

 昼間でさえ参拝する人の数は少なくて、唯一賑わうのは11月の祭りの時だけ。


 その瞬間だけは満たされた気持ちになる。

 別段もてはやされるわけでもなく、自分はただひっそりと祭りで賑わい人々の笑う顔を見ているだけで十分だった。


 それは、主が求めていた姿だから。人々の幸せを願う、主の望みだから……。


 狸奴は、空に浮かぶ月を見上げた。


「主……。私は間違っていたのでしょうか。あなたの血を受け継いだ加奈子殿の優しさに、私は背を向けた。でも、私はまたあの時のように一人にされる事が怖いのです」


 祈るように狸奴は瞳を伏せて、顔を俯けた。


 振り払った事を早くも後悔しているだなんて、何と女々しい事だろう。

 一人になりたくないと言う本心と、ここを離れてはならない義務感。いや、義務なんかじゃなく、ここを離れる事さえ嫌なのだ。

 言ってしまえば、自分のワガママなのかもしれない。


 肩を落とし、落ち込んでいる狸奴に影がかかった。

 驚いた狸奴が顔を上げると、そこには銀色の髪を後ろで緩く結び、がっしりとした逞しい体つきをして綺麗な着物を着た妖狐が立っていた。

 ふさり、と大きな尻尾が動くその傍に、てんことやんこの姿もある。


「妖狐殿……」

「悩んでいるな? 狸奴」

「……」

「子供たちから聞いたよ。おぬしの姿を見て会話をする人間の女子おなごがいると」


 そう言うと、妖狐は狸奴の隣に腰を下ろした。


「父上、まだ帰らないんですか?」

「父は少し狸奴と話をするから、その間あちらで遊んでいなさい」

「母上が待ってますよ?」

「そんなに時間は取らないさ」


 にっこりと笑って二人の頭を撫でると、やんことてんこは頬を紅潮させて嬉しそうに尻尾を振りながら、神社の裏手にひっそりとある広場に毬を持って駆けて行った。


「それで、その女子と言うのはどんな娘なのだ?」

「黒川の末裔の方です」

「ほう。真吉殿の血縁の者か。だから見聞き出来るのだな」


 少しだけ目を丸くし、納得したように妖狐は呟いた。

 狸奴は耳を垂れたまま、そんな妖狐から静かに視線を逸らしてため息を一つ零す。


「あの方は私の新しい主になるとおっしゃって下さいましたが、その申し出を断ったのです」


 視線を下げたままの狸奴の視界に、小さな杯を手にした妖狐の姿が映る。

 もう一度視線を上げてそちらを見れば、いつの間にやら妖狐は懐に隠し持っていた酒器を取り出してお猪口に注ぎ、それを差し出していた。


「飲め」

「……頂きます」


 狸奴は差し出されたお猪口を受け取り、透明な酒の中に浮かぶ月を見つめる。

 ほんのりと甘やかな香りのするその酒をぐっと煽ると、狸奴はそれを妖狐に差し戻した。


「返杯か。さすがは土佐の男だ」

「そう言うわけじゃ……」

「よかろう」


 妖狐はにこやかに杯を受け取ると、狸奴は代わりに手渡された酒器の蓋を取りその杯に注ぎ返す。

 再び杯の中に月が浮び、妖狐もまたその月と共に一気に飲み込んだ。


「なぁ、狸奴」


 妖狐は再び空になった杯を狸奴に差し出し、狸奴が受け取る杯に再び酒を満たしながら話を続ける。


「そなたはここにいて、何か得られたか?」

「得る?」

「そう。そなたの心を満たす何かを、だ」

「……いえ」


 杯の揺れる月を見つめ、狸奴は正直に答えた。

 得るものなど何もない。でも始めはそうじゃなかった。人々の為に祈りを捧げていることが、自分の使命だと疑わなかったあの頃は。


 昔は、人々は純粋な気持ちで参拝をしに来ていた。この神社があるからこの場所は守られ、平和に暮らせているのだと感謝の言葉を告げにやってきたものだ。だがいつからだっただろう。感謝や先祖の為を想って参拝してきていた人々の祈りが、自分の欲の為の祈りに変わったのは。

 中には昔のような感謝を込めて参拝する人間もいるが、その大半は「自分さえ良ければ」と思えるような願い事ばかり。

 そんな祈りや願いを聞いていると、次第に気持ちが沈んでいくのを狸奴自身気付いていないわけじゃなかった。


 それでも真吉が他人の事を大切に思っていた事を思うと、目を背けてはいけないと言う気持ちになる。だから虚しくても、人々の為に祈りを止めるわけにはいかなかった。


「私は主に誓いました。あの方が成し遂げたかった、人々とこの土地を必ず護ると」

「もう、十分ではないか」

「え……?」


 先ほど加奈子に言われたことと同じことを言われた狸奴は、驚いたように妖狐を見た。


「400年……。時は移ろい、また人々の心も時代と共に移ろう。そなたがただの猫として生きていた時代とは何もかもが変わってしまった。まだこの辺りは他ほど利便性はないにしろ、山の麓は我々が知るような場所ではなくなった。我々あやかしにとっても生き辛い場所になったのだ。人々の傲慢さは、これからも日々増していくだろう」

「妖狐殿……」

「だが人々の為に祈り、舞うことが悪いと言っているわけではない。ただ、そなたにも得るものがあっても良いと、私は思うのだよ」

「……」


 真っすぐにこちらを見つめたままそう語る妖狐の言葉に、狸奴は視線を下げた。


 得るもの……。本当に、それを願ってもいいのだろうか? 御神体である自分がそれを願えば、自分の事ばかりを願う人間たちと変わらないのではないかと思ってしまう。


 その時ザァッと強い風が吹き、杯の月が大きく揺らぎ狸奴と妖狐の髪を大きくたなびかせた。



 ――何を言いよるがじゃ! 他の人らぁと同じように、幸之助。おまんの幸せを、わしゃねごうちゅうんじゃき、ようだい言わんと自分に素直にならにゃあいかんぜよ!


 ふと、そんな言葉が聞こえ、パッと目を見開いた。


 夏の夜の、生暖かな風に拭かれてざわめく木々の音。その音の中に、真吉の言葉が聞こえる……? これは、幻聴だろうか? 自分が聞きたいと思う気持ちが、聞こえているように思わせているのだろうか?


 ――幸之助。怯むなや。おまんはようやってくれた。わしの代わりに、長い間ようここを守ってくれた! もう十分じゃき。おまんはおまんのやりたいようにやったらえい。わしはもちろんの事、誰っちゃあ恨まん!


「主……」


 ――わしは、次におまんの幸せを切に願う。もう何も縛られんでえい。あの女子おなごの純粋な優しさに、素直に甘えたらえいんじゃ。何ちゃあ心配いらん。あの女子は、おまんを一人にゃせん。何せ、わしの子孫やきねゃ!


 そう言って笑う真吉の笑い声が聞こえた気がして、狸奴の頬に涙が流れた。


「……主」


 呼び掛けにもう真吉の声は聞こえて来なかった。代わりに満たされた思いが狸奴の心を包み込み、震える。


「……何か、聞こえたか?」


 目を細めて微笑む妖狐に、狸奴は小さく頷き返した。


「ありがとうございます……真吉殿、妖狐殿」


 誰もいない闇に向かって、狸奴は深々と頭を下げた。



            *********



 肩を落として、私は宿に戻ってきた。


 明後日までここに留まるつもりだったけれど、すっかり気分が滅入ってしまって、延泊する気持ちがなくなっていた。


「明日、宿泊キャンセルして帰ろうかな……」


 布団に潜りながら、先ほどの自分の浅はかさに後悔と深いため息ばかりが溢れた。


 仰向けに寝て、暗い天井を見つめる。

 静かに時計の音と川のせせらぎを聞いていると、目尻にまた涙が伝い落ちた。


「……っ」


 私はごしごしと涙を拭い、目を閉じる。


 ごめんね、狸奴……。


 ただそれだけが、頭の中を占めていた。そしていつの間にか私は深い眠りに落ちて行った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る