躊躇い
真夜中。
昼間の事があってほんとは行くの凄く怖かったんだけど、狸奴に会うためには行くしかないわけで……。
友人にメールで昼間に起きたことを連絡したら「暑さでやられた?」とまともに取り合っても貰えず、何だか寂しくなったっけ。
何は無くとも、今は特に誰か一緒に行ってくれる人が欲しい……。
ビクビクしながらも宿を抜け出した私は、再び寄相神社の石段の下に懐中電灯を持って立った。
今晩も聞こえてる神楽鈴の音。
狸奴は毎晩こうしてこの村の人たちの為に祈り、舞いを続けているんだ。
私は意を決して階段を登り始めた。すると、階段の上の方から狸奴の神楽鈴の他にテンテンと何かが地面に着くような音が聞こえてくる。
「……っ」
違う音がするとそれだけで怖くなる。
でも、このまま逃げ帰ったら何のためにここに来たか分からなくなるじゃない。狸奴に会って話しないと! このまま帰れない!
怖い気持ちを我慢し、勇気を振り絞って再び社へと辿り着く。すると私の存在に気付いた狸奴は驚いたように目を見開いて舞いをやめ、こちらを見つめて来た。
彼が生身の人間でも動物でもないって分かってるけど、彼の姿があることで凄く安心してる自分がいる……。
「またいらして下さったんですね。黒川の末裔の方」
「か、加奈子」
「?」
「加奈子よ。私の名前!」
本当はもっと近くに寄りたかったけど、私は昨日近付くなと言われた距離を保ったままハッキリとした口調でそう言った。
それに驚いた狸奴は虚を突かれたような顔を浮かべるけど、やがて小さく微笑んで頷き返した。
「そうですか。加奈子殿ですね」
「うん。あの、私あなたにどうしても言いたいことがあって……」
そう言った瞬間、コロコロ……と昼間ペットボトルが消えた茂みからとても綺麗な糸で編みこまれた毬が転がり出てきた。
「……っ!?」
な、な、なななななに!?
驚きと恐怖にそれ以上何も言えなくなった私の足元で転がってきた毬はピタリと止まる。
「な、な、な……っ」
震え上がりながら青ざめた顔で毬を指さし、パクパクと口を動かしていると狸奴は何かに気付いたように口を開いた。
「あ……それは……」
――くすくす……。
「……」
あ、無理……。
一瞬気が遠くなりそうになった。
何でもいいから見えないところで笑ったり物を転がしたりするのやめてほしい!
私があまりに真っ青な顔でへなへなとしゃがみこんでしまったのを見た狸奴は、慌てて言葉を紡いだ。
「も、申し訳ありません。実は今仲間が来ていまして……」
「な、仲間……?」
「妖狐の子供たちなんですが……。てんこ、やんこ、人間を不必要に驚かすのはやめてください」
てんこ、やんこ、と呼ばれると、暗がりから4歳くらいの男の子と女の子が現れた。
狸奴と同じような子供サイズの平安装束を着たその子たちは、狸奴よりも大きな耳としっぽを持った狐の子だった。
てんこは青銀色の髪を、やんこは紅銀色の髪を、
「だって、面白かったんだもん」
「こいつ、一人で慌てるからさ」
如何にも子供らしい言い分でぶんむくれたように頬を膨らます男の子と、もじもじと恥ずかしそうにしている女の子。
あれ……この子たち、確か昼間河原で見かけた子に似てる。
私がぽかんとした状態で見つめていると、やんことてんこはくるりとこちらを振り返りニッコリと無邪気な笑みを浮かべて笑いかけて来る。
……可愛い。
謎の声の正体がこんな可愛い妖怪だと分かったら、途端に怖さがどこかに行ってしまった。怖いって言うより、本当に凄くすっごーく可愛い!
「そろそろ妖狐が戻って来る時間ですから、大人しく社にいて下さい」
狸奴がそう言うと、彼らはくすくすと笑いながら言うことを聞いて社の中に駆け込んでいった。
さっきまでの恐怖も賑やかさも嘘みたいに落ち着くと、狸奴はもう一度話を振ってきた。
「それで、私に何か言いたいことがあると言うのは……?」
可愛いあの子たちを名残惜しそうに見つめていた私は、ハッとなって狸奴を見る。
私は彼に対して思った事感じたことを素直に伝えるべく、ぎゅっと拳を握り締めた。
「あの……」
何となく間が悪くなった。でも、ちゃんと伝えなきゃいけないよね。
そう思って私はぎゅっと拳を握り締める。
「私が……あなたの新しい主になるのはダメかしら?」
そう言うと、狸奴は驚いたように僅かに目を見開くが、やがてゆるゆると首を横に振った。
「あなたが、私の新しい主に……?」
「う、うん。今までずっと一人きりだったでしょう? さっきみたいに仲間が来てくれるって分かったらちょっとは良かったって思うけど、やっぱりそれでも一人には変わらないもの」
思い切って伝えてみると狸奴はとても面食らったような、動揺した表情で目を泳がせた。
「……いいえ。それは出来ません」
しばらく悩んでいたみたいだけれど、狸奴はゆるゆると首を横に振った。
「何で? この神社の御神体だから? それとも主さんとの約束だから?」
「そのどちらともです」
「狸奴……」
「それ以前に、私が新しい主を求めておりません」
狸奴は静かに真っ直ぐこちらに目線を向けながら、表情を変える事もなくハッキリとそう言い切った。
◆◇◆◇◆
じっとりと湿った風が吹いた。
遠くには夜も鳴き続けるセミの声と、風に煽られた木々のざわめきが響き渡っている。
そんな中で、乾いた沈黙を守る狸奴と私は、真っ向から見つめあっていた。
「求めてないって……」
「そのままの意味です」
表情の動きがない今の狸奴からは、何の感情も読み取る事が出来ない。頑なに何かを守ろうとしているのか、あまりにもキッパリと言い切った狸奴。そんな彼に、私は少し胸が痛んだ。
「……」
「私には主の願いを叶える義務があります。確かにあなたは我が主の末裔。でも、私の主はあなたではありません。あなたは私に
「真名って……?」
私はそれが良く分からず眉間に皺を寄せて小首を傾げると、狸奴は静かにこちらを見つめたまま言葉を続けた。
「あなたの名前です。本当の名前を打ち明けると言うことは、あなたと主従関係を結ぶ証。ですが、私が自らの言葉でその真名を打ち明けない限り、それは成立しません」
「……」
確かに、本人が求めてないと言うのならそれ以上言っても意味がないのは分かっている。だけど、私には彼が本当の事を言っていないような気がして仕方がなかった。
肩を落としてしょんぼりしてしまった私を見ていた狸奴は、少しだけ狼狽えながら言葉を付け足した。
「……怖い」
重たい沈黙の中、ふと狸奴が呟いた。
私は顔をあげて彼を見つめると、狸奴はやや表情を曇らせている。
「怖いのです。私の元からまた主がいなくなってしまうのが」
「狸奴……」
「私は、主の願いを叶える為にあやかしになりました。ですが、あやかしとなった私と人間との時間の差はあまりに違いすぎる。私はあやかしであり、命の終わりは長い。それに比べて人の命のなんと短いものか……。私は、それが怖いのです」
狸奴の本心が初めて聞かされて、私は驚いた。
やっぱり彼は寂しかったんだ。本当は誰かの側にいたくて、でもあやかしと人との間にはあまりにも掛け離れた時間の差がありすぎて、彼はそれが怖かったのだ。
「私は守るべきものがある。だからこそ……」
「……あなたは十分、ここを守って来たじゃない」
「……」
「400年もずっと1人で頑張って来たんじゃない。きっと、あなたのご主人様はこれ以上あなたの孤独を望んでないと思うわ。確かに、あなたの事を残して亡くなってしまった事は心残りになっていると思う。あなたのこと、とても可愛がっていたんだと思うし。だけど必要以上に約束に縛られたり、何より孤独になってほしいなんて思ってないはずだわ」
必死になってそう訴えると、狸奴は複雑な表情で視線を下げた。その姿は、とても戸惑っているようだった。
私はそんな彼の心を開きたかった。それに何より、私……。
「狸奴。あのね……実は私、あなたの本当の名前知ってるの」
「……!」
その名前にぴくりと耳を動かした狸奴は心底驚いたように目を見開き、ゆっくりと視線を上げてこちらを見つめてきた。まるで、子猫がじっと見上げて来るようなそんな眼差し。
あぁ、その目も知ってる。“私”が知っていると言うよりも、私の遺伝子の中に残るかつての私が知ってるって言う方が正しい。私はそんな彼を見つめていると、胸がぎゅうっと切なくなって、更に心の奥から込み上げる何かを感じていた。
私は胸に手を当て、感じるままに言葉を続ける。
「主さんは、あなたの事とても大事に思っていたのよね。主さんはあなたの幸せをいつも願っていたはずよ。だから、あなたに名前をつけた……幸之助って」
「加奈子殿……なぜ、それを?」
ずばり本名を言い当てられた狸奴は、見開いていた目を更に大きく見開いた。
「主さんの記憶って言うのかな……初めてここに来た時と、夢の中で視たの。詳しい事までは分からないけど、ずっとここに感じてる」
胸元で握る手に力がこもる。
ウソじゃない。知らないはずの言葉が心の奥から込み上げてくる。それを感じるがままに口に出した。
「聞かせて。あなたの真名を」
私は胸元で握り締めていた手を狸奴に差し伸べた。
狸奴は私のその手を見つめ、とても困惑したような目をしている。
真名を彼が口にすれば、彼の言う主従関係が成立する。もっとも、私は彼を従えたいわけじゃない。彼にはもっと自由に、幸せであって欲しいと願ってる。
もう十分、ご主人様の想いに応えてきたと思うもの。
夢で見たご主人様はとても温厚で優しい人だった。だからきっと誰よりも狸奴を大切にしていて、今でも彼が幸せに生きる事を願っているに違いない。
私がそう思うのだから、私の中に流れていると言うご主人様もそう思っているのだと信じている。
狸奴はどこか泣きそうな顔をしてペタリと耳を垂らし、私の手を取ろうとして腕を伸ばしてきた。私は静かに彼が私の手を取り真名を囁くのを待った。急かすつもりなんてない。彼から来てくれる事をただ待ってる。
だけど、狸奴の伸ばしかけた手がピタリと止まった。
きゅっと軽く手を握りしめ、耳を垂れたまま彼はまた視線を下げた。
「加奈子殿……あなたはどこへ行くのですか?」
「え?」
思いがけない一言に、今度は私が困惑した顔を浮かべて目を瞬いた。
どこへ? どこへって、どう言うこと?
狸奴は、私が考えていることがまるで読めているかのように、真っ直ぐ射抜くような目を向けてきた。
「あなたはこの地の人間ではないでしょう。私と契約を交わし、主となったあなたはきっと自分のあるべき場所へ帰るはずです」
「あ……」
ドキリとした。
彼を過去の約束から解放して私は彼と主従関係を結んで、それでお仕舞いにしようとしてた。自由にした後の事まで考えていなかった。
咄嗟にどう声をかけていいのか分からなくて言葉を濁し、怯んだ私に狸奴は再び視線を下げてくるりと踵を返した。そして背を向けたまま、口を開く。
「……あなたの気持ちは嬉しく思います。あなたの言うように、主もそれを望んでいるのかもしれない。ですがもう少し、良く考えて行動する事です。私はもう……一人にされるのはごめんですから」
「り、狸奴……っ!」
この時の私は一際寂しげなその背を、私は見送る事しか出来ずにいた。
闇に消えた狸奴をまたも呼び止める事が出来なかった。自分の浅はかな考えと、覚悟もない無責任な発言や行動を思うと、恥を知る。
「……私」
後悔しながら、きつく拳を握り締める。
約束から解放しても、狸奴はこの神社の御神体。だから、どのみちここから離れる事は叶わないのだ。分かっていた。分かっていたはずなのに……。
顔を俯かせ、滲む涙を唇を噛んで堪える。
「……ごめんなさい、狸奴」
目先の事に捕らわれて彼をまた傷付けてしまうことになるなんて……。
私は肩を落とし、溢れた涙を拭うと神社を後にする。
その私の後ろ姿を、暗闇から見つめる狸奴に気づく事もなく……。
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