「音楽」「冷蔵庫」「ぬれた可能性」
みなかみ
「音楽」「冷蔵庫」「ぬれた可能性」
夕陽は踏んでも音がしない。少しはミシっと軋んでもよさそうなのに、赤焦げた廊下は昼夜関係なく丈夫なまま。何度踏んでも、変わらない。でも、何度だって踏む。本当に変わらないのか。確認に多すぎるってことはないんだから。
生徒会に任された見回りの役目は、荷物の隙間に詰められる緩衝材のよう。どうせ守衛のおじさんが後から見て回るのだから、実質やる意味はない。でも、それがちょうどいい。大してやることもないこの閑散とした時期、机の傷に消しゴムのカスを埋め立てるように、やる意味もやらない意味もないこういう役割が、すっぽりと隙間にちょうどいい。
ううん、違う。埋めたくなるような隙間が空いているくらいがちょうどいいんだ。それは猶予とか予備とかマージンとかいろんな名前で、みんなに重宝されている。
どちらにしたって、わたしの性分が、こうして何もないことをただ確認して回ることも、それはそれで楽しく感じさせる。確認という作業は、わたしの心に平穏を呼ぶ。
窓の戸締りを確認しつつ歩いていると、外に見える校庭の向かいで、先生たちが何やらの相談をしているのが見えた。確か顧問の先生が、使いもしない旧校舎の荷物を整理するだの言っていた。結局のところ、先生たちもすることがないんだろうな。でも、そう。それくらいがちょうどいい。
そんな平和を乱そうとするものがどこにいようかと、鼻息でふんすとため息をついてみれば、微かにメロディが風に乗って聞こえてくる。聞き間違い? でも、音はやはり聞こえてくるようで、向かう先の風上は図られたように音楽室だった。
ピアノの音に誘われて、もしくは、わたしをつま弾きにしようとするピアノの音に逆らうように、引き戸をガラガラガラと開ける。
音はピアノ。見えたのは、男子生徒ふたりと冷蔵庫が1台。
「やあ、誰かと思えば君か。ところでピアノに問題はなさそうだよ」
声をあげるその人と、ばっちり目が合っていた。まったく見覚えのないふたりだけど、わたしに向けた言葉であることは、間違いではないだろう。だから間違っているのは、気さくすぎるその口調のほうだ。
「わたしに話しかけてますか?」
「ああ、君だ。……それとも、記憶違いかな? 生徒会の役員ではなかったかな」
「そうだよ、そうだよ。僕もそう記憶している。間違いないよ」
「なあんだ。やっぱり君じゃあないか。驚かせないでよ」
わたしの話題で、わたしが置いていかれる。
「あなたたち誰ですか?」
「この難題を解く稀代の名探偵だよ」
慎重に、殊勝に問いかけてみれば、トンチンカン極まる答えが返る。
しかしその表情はわたしよりもいくらか真剣で、余計わからない。
「難題とは何か、って顔をしているね」
いつの間にやらもう片割れがわたしの後ろ側へと移動して、冷蔵庫に右手をついてやけに得意そうな顔をしていた。
音楽室に冷蔵庫、それも昨日まではなかったはずの。確かに不思議。
「濡れているんだよ」
「……え?」
「おそらく、水でね」
冷蔵庫がこんなところにあることだけで十分、わたしには不可解なんだけど。
「正確には濡れた可能性が高いんだよ。ほら、これさ。この布きんが濡れているだろう?冷蔵庫の上に置いてあったんだ。それに、ここには水が通った筋が見えるし、ほんの少し拭き損ねた水滴もある」
九割方、雑巾と呼ぶに相応しい黒みがかった布きんを突き付けられ、否応なしに湿り気を確認させられる。なんという仕打ち。
「あの、その冷蔵庫は誰の物なんですか?」
冷蔵庫のほうの男子生徒は、なぜそんなことを聞くのかという顔をして、なんでそんな話をし始めるのかという顔をしたわたしを見つめる。双方相容れない。
「基本的な事実確認をしたいんだろう。でも、残念だけどその冷蔵庫については僕たちは何も知らないよ。ところで、冷蔵庫退場の曲はこれでどうだろう」
クラシックのピアノ曲、たぶん。詳しくないわたしでも耳にはしたことのある曲。静かで、乾いた夜風のような寂しい曲。
その名の通り、冷蔵庫にはこういう冷えたメロディがいいだの、むしろ夏の象徴と見て爽やかな風を吹かせるのはどうだろうだの、好き勝手話している。濡れた謎はどこへいったのか。
とはいえ。
謎なんていうには大層であって、ここに冷蔵庫があることだって仕方のないことともいえる。何しろ、少しでも調べてみれば冷蔵庫にはガムテープが貼ってあることにすぐに気がつくし、その上からペンで「61」と書かれていることもすぐわかる。
これを見れば、誰だってワケに気づく。稀代の名探偵ふたりは、現場検証が得意でないのかもしれない。
問題は、これをわたしがどうするか。
伺うように男子生徒たちを振り返るが、まあいつまでも冷蔵庫退場曲の話題に夢中のようで、耳も貸さないようすだ。
助けを求めるように窓の外を見れば、もう夕陽は地平線の向こう側に隠され、残り火のようにほんのり空の色を変えているだけだった。もう間もなく、辺りは暗くなって、仕事をしていた人も帰り始める。
ともあれ、さっき見た校庭にいるであろう先生に話すのが一番だろう。
そうとなれば、先生に話せるよう、謎の正体を今一度頭の中で言葉にして確認しておこう。
ガムテープを貼った上からペンで「61」と書かれていた。だけど、きっと書かれた時点で「61」ではなく、「19」だったはずだ。さすがに冷蔵庫を逆さに置くことはないだろうから、横倒しだったんだと思う。もちろん、冷蔵庫を横に置くのもどうかとは思うけど。大きな荷物を運ぶときは、軽くぶつけても傷にならないようにクッションを巻くから、それで上下がわからなかったか、ただ乱暴だったのか。
上下をよく見ず、後からどう読まれるか考えず、呑気に書いた「19」の数字は、運ぶ人には「61」と読まれる結果になった。「19」の場所に運ばれるはずだった冷蔵庫は、悲しいかな「61」の音楽室に運ばれてしまった。
数字で割り振らずに、ちゃんと「音楽室」みたいに場所の名前で書けば、配達先を間違えなかったろうに。ま、書くのは「音楽室」ではないわけだけど。
そして、水抜きをしていない冷蔵庫を横転させれば、水が漏れる。冷蔵庫には、構造上できてしまう水滴を受け止めるための蒸発皿があって、そこに水が溜まったまま横転させたり倒立させたりすればもちろん零れる。それに、冷凍庫に霜がついたまま電源を離れて移動すれば、当然融けてあたりを水浸しにする。何もどこからか持ってきた水を掛けなくても、冷蔵庫自身が濡れる可能性を抱えていたのだった。
などと考えたのだけど、冷蔵庫が濡れていただなんて先生に話す必要は、そういえばどこにもなかった。大きな荷物を持っている数人の人たちとのすれ違いに気を取られて、思考がうまくまとまらなかったのかもしれない。
ようやく昇降口を抜けて、先生のもとにたどり着く。そして、間違えて運ばれてしまった冷蔵庫の事情を話していく。
話し終えると間もなく、先生はおでこをぺちんとひとつ叩いて、参ったなぁと、もう暗くなり始めた空を仰いだ。もう、大人だって家に帰り始める時間だ。ため息がいくつか出てもおかしくはなかった。
「今から運ぶとなると大変ですね」
だけど、
「いやぁ、そうじゃあないんだよ」
そうじゃあなかった。
先生の視線はいつしか音楽室に向けられていた。なぜかあの男子生徒ふたりが身を乗り出して、こちらに手を振っている。
その背後に、冷蔵庫、――そしていつくかの大荷物が見えた。さっき、なかったはずの大荷物。
謎が解けたぞ。おそらくそう言っているんだろう。会話が成り立たなかったあのふたりは、声が聞こえないほどに離れた今、何不自由なく意思が伝わるのだった。
一度窓枠から消えたかと思ったら、男子生徒のひとりが背後から大人を連れてきた。ああ、そうだ。あれはきっと、さっきわたしがここに来るときにすれ違った人たち。「61」の音楽室に、冷蔵庫ひとつだけではなかった荷物を間違えて運び込んでしまっただろう、業者の人たち。
冷蔵庫と、さらにもっと増えた荷物が、音楽室に運ばれる予定ではなかった荷物が、その音楽室に散乱している光景が、めまいとともに目に浮かぶ。
すれ違いざまに、確認すればよかった。そうでなくとも、男子生徒ふたりに、状況を確認し直してからここに来ればよかった。
だって、確認に多すぎるってことはないんだから。
「音楽」「冷蔵庫」「ぬれた可能性」 みなかみ @selolog
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