第6話
そこは地獄のような場所だった。
閉塞的な室内に、きつい薬品と動物臭がまざりあう。泣き声、呻き声、金属の擦れ合う音。
朝晩の感覚はとうに狂っていた。窓もなく、故に日付の感覚も薄れる。時折人が入ってくると、鉄格子越しに犬の餌のような食事を置いていく。口に運ぶ食器もなく、素手か、或いは皿から直接貪る姿は、まさに獣に堕ちたようだった。
理性をすべて手放したわけではない。けれどこの劣悪な環境では、人目を気にすることすら億劫だった。
時折、研究員のような男達が投与してくる薬剤もまた厄介だ。真綿で首を絞めるような、つま先立ちのまま固定されているような、緩やかに体力を蝕む状態を強いられる。
それでも、俺達は虎視眈々と、そこを抜け出す機会を狙っていた。
「二人で逃げるのは、きっと難しい。だからお互い、どちらが先に逃げても恨みっこなしだ。無事逃げ出して、余裕があったら助けを呼ぶ。それでお互い……いや、できることならみんな、助かるといいね」
地獄のような空間で、約束を交わした。それがたった一つの希望だった。
だから、助けに行かなければ。
できるだけ早く、みんなの元へ。
◇◆◇◆◇
「おはよう」
目を開くと、目の前には笑みを消した少女の顔があった。
吐き気がひどく、視界はざらざらと乱れている。彼女が帰ってくるのを待っているうちに寝てしまっていたらしい。
やけに身体が痛い。よく見ると、床で眠っていたらしい。……いや。
自分の手足はまだ、剛毛に覆われたままだった。指先に意識を向け、元の素手の感覚をイメージする。すると皮を剥くように、指先から姿が変わる。
そういうものなのだと、俺はこの二年で理解した。
完全に元の姿に戻ったのを確認し、俺はゆっくりと体を起こす。
律華は、そんな俺をずっと眺めていた。
「目、覚めた?」
「……一応な」
ここはリビングだ。俺はその入り口に倒れていて、その脇にいる律華は、少しだけ疲れたような顔をしている。
少しだけ裂けた肩の傷は、俺によるものか。
「ごめん」
「あー、いいよ気にしないで。あまりのインパクトに私も正気に戻ったわ」
へらりと口元だけで彼女は笑う。
「でも、できれば貴方の口から、どういう経緯でそうなったのか教えてほしいんだよね、霧島君」
「……あ?」
何故、名前を。
律華はおもむろに、手にしていたスマホをこちらに差し出す。
「二年前、隣町で行方不明者が出た。
手書きの張り紙をスキャンしたものだろうか。やや癖のある字は、懐かしい施設長の字だ。写真は中学に上がってすぐ、施設の子供達と共に遠足に行ったときに撮ったもの。
「何があったのか、教えてほしい」
「……それは、できない」
話せば完全に巻き込んでしまう。巻き込んでしまえば、彼女を危険にさらしてしまうかもしれない。
しかし、俺の言葉を遮るように律華が言う。
「私が貴方の用件に首を突っ込みたい理由は二つ。一つは、貴方の事件と関連していそうな行方不明事件を調査していた私の上司が行方不明になったから、その人を追いかける手掛かりが欲しい。もう一つは、丁度貴方が行方不明になったのと同じ頃、私の兄も姿を消した。貴方の事件と関連しているのかもしれないから、これも調べたい。
善意だけで貴方に手を貸したいって言ってるわけじゃない。私には私の目的がある以上、それでも教えたくないって言うなら、私は勝手に調べる。どうする?」
その時の律華の表情は、言葉にしづらいものだった。
正直この時まで、律華はただのお人好しだと思っていた。困っている人を放っておけない底抜けのお人好しで、だからつい見かけた俺を助けてしまったのだと。
けれど、それは間違いだ。
緑色の瞳の奥で、暗い炎が揺れている。それは大切なものを失って、取り返そうと必死に足掻いている姿。縋りつく希望もなく、荒んだ心のままに行動する姿。
ゾクリと鳥肌立つような危なさを孕んだ彼女は――どこか、自分と似ている。
「……分かった、話す」
こうなったら、事前情報なしで彼女が動く方が危険だ。
少し目をつぶり、呼吸を整える。彼女が無言で待っている気配を感じながら、俺はそっと口を開いた。
◇◆◇◆◇
俺、霧島悠斗は孤児院の出身だ。両親のことは詳しく知らない。捨てられたのか死んだのか、あまり深く聞いたことはなかった。
幸いなことに、俺を育ててくれた孤児院は非常に過ごしやすい場所だった。ここで育ち、いつか大人になってここを出ていくのだと、漠然と思っていた。
その日、いつもと違うのは一つだけ。帰り道に大きな車が一台止まっていて、偶々その脇を俺は通った。それがいけなかった。
伸びてきた腕に引きこまれ、気が付くと車内に押し込まれていた。遠くなる意識の中、誘拐されたのだと理解した。
謎の薬剤を打たれた。その日からしばらくの記憶は曖昧だ。気が付くと、俺は大きな獣になっていた。
それからの暮らしは、ひたすら狭い鉄格子の中に押し込められるだけの日々だった。時折聞こえる研究員たちの会話、他の子供達が見聞きした情報を小声で交換し、理解したのはごくわずか。
俺達は薬剤により、人狼と呼ばれる怪物にさせられてしまったこと。
彼らはそれを、新たな商品として売買しようとしていること。
ここにいる者達は全員、どこかから誘拐されてきたこと。
到底信じられることではない。けれど事実だ。だから誰かにこれを伝え、助けを求めなければならない。このような状況を続けてはいけない。
男達は研究データを取ることに熱心で、なかなか外に出ることはなかった。けれどひたすらその機会を待ち続けた俺は、つい先日、ようやくトラックに積み込まれた。
その先、何が起こったのか詳しくは分からない。走っていたトラックが突然激しく揺れ、外で悲鳴が聞こえた。偶々開いたケージを飛び出し、アスファルトに降り立つ。
奇跡だと思った。この瞬間を逃せばもう逃げることは難しいだろう。
そして、俺は振り返ることなく、ただがむしゃらに逃げだした。
◇◆◇◆◇
「それが二日前、か。……トラックの横転事故、逃げ出したのはキリだったってわけね」
「俺はニュースをほとんど見てないから分からないけど、思ったよりも大事になってるんだな」
律華はプリントアウトしたいくつかの資料を見比べながら、情報を整理していく。
「これ、ここ半月で行方不明になった子供達の写真。手に入った分だけだけど見覚えある顔ある?」
「大体は見覚えあるな。特にここ半月はたくさん子供が連れて来られていたから」
「じゃあやっぱり、行方不明事件はその会社が起こしているんだろうね。あとは……」
むぅ、と少しだけ唇を尖らせ、律華は資料の一つをこちらへ渡す。
「この事件だけイマイチ繋がらないんだけど、何か分かる?」
受け取って、ざっと目を通す。それはどうもこの地域で多発している動物被害をまとめた資料のようだ。
「……いや、分からないな。俺以外に脱出した仲間がいるって話は聞いてないし、俺自身もやってない」
「そうだよね、日付が合わないもの。半月前から続いている事件を一昨日逃げ出したキリができるわけない」
うーん、としばらく唸っていた律華だったが、やがて資料をひとまとめに片づけて立ち上がる。
「まぁいいや、突撃してみればきっと分かる。それで、助けに行くんだよね。いつ、どこに行く?」
夕飯どうする?と問いかけるような軽い口調で彼女は言う。
「といっても、怪しいのはキリが着けてた首輪に会社名のあるハイビレッジって会社ぐらいか。助っ人のあてとかある?」
「正直、ない。非現実的な話だ、警察がまともに取り合ってくれるとも思えない。だから突撃して本拠地で火事なりなんなり起こして、強引に警察を呼ぶ」
「あっは、いいねそれ。派手で楽しそう。それじゃ一度偵察に行こう。火事を起こす前に子供達を逃がせる経路を確保しとかなきゃ」
「お、おう」
「偵察なら昼かな、やっぱ。会社見学させてほしいとかそんな感じでアポイント取るとして、そうすると今日は早めに寝て明日に備える。そんな感じでどうかな」
話が早すぎるというか、なんというか。
もしかしたら俺は恐ろしい助っ人を得てしまったのかもしれない。楽しそうな律華に、俺は引き攣った笑みを返した。
◇◆◇◆◇
夜はあっという間に過ぎ去った。手早く食事を終えた俺は、再びリビングのソファーで就寝する。律華も自室でしばらく調べものか何かをしていたようだが、しばらくして音がしなくなった。
暗闇の中、毛布にくるまり、ぼんやりと考える。
明日の夜には、彼女の兄姉達が帰ってくるのだという。だから、ここに世話になるのも明日の昼までだ。
そこから先は、頼るあてもない。無事仲間を救出できれば人狼であることを隠して孤児院に戻れるだろうか。
救出できなくても、帰ることはできるだろう。けれどきっと、俺はその平穏を享受することを許せない。
明日の一度の下見で救出の手掛かりは掴めるだろうか。難しい気もする。何より、俺には二年間まともに情報を得られていない。情報が欲しい。情報を得る為の潜伏場所が欲しい。
けれど、律華にこれ以上頼ることもできない。彼女には両親もいない。同年代の兄姉達だけで細々と生活を繋いでいる際どい家庭だ。更に居候を抱える余裕などないだろう。
結局のところ、まともな計画などなく、行き当たりばったりに進むしかない。
――
脳裏に浮かぶ親友は、何も答えない。
結局、明確な答えも出ないまま、俺は浅い眠りに身を委ねた。
水守町怪奇事件簿 猫柳 リョウ @yanagiryou
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