第5話
「――――んぉあッ!?」
ガクッと上体が崩れる浮遊感で目を覚ます。反射的に机に手を伸ばしたところ、机に置いてあった書類と共に自分もろとも床に崩れ落ちた。
俺はアホか。
どうも、事務所で寝こけていたらしい。ここ数日立て込んでいたとはいえ、流石にこの非常時に居眠りはまずい。
とはいえ疲れているのは事実で、身を起こすのにはかなりの気力が必要だった。冷たい床が気持ちいい。そういやまともに横になったの何日前だ。そのまま寝てしまいたい自分を叱咤し、書類を掻き集めて立ち上がる。
「あ~~、だっる……」
時計を見れば、既に日が暮れている。人目が無いのをいいことに軽く舌打ちをし、改めてパソコンに向き直った。
時計と記憶を突き合わせてみると、椅子の上で三時間近く意識を飛ばしていたらしい。手元には、寝る前まで見ていた資料――先輩の引継ぎ書類がある。
仮眠によって多少クリアになった頭で、俺は改めて書類の中身に目を通した。
今回の依頼人は水木由香子。専業主婦。行方不明になったのは、一人娘の美紀、十歳。
最後に目撃されたのは学校。いつも通り学校を出、友人達と別れて帰路についた美紀は、その後忽然と姿を消した。
犯行声明もなく、身代金等の要求もない。内気であまり交友関係の広くない美紀には特に家出する先もなく、家出を考えている様子もなければ要因もなかったという。水守周辺のいくつかの都市でもここ半月の間に同様の事件が発生しており、同一犯の可能性は高い。
その後聞き込みの結果、ハイビレッジ株式会社という会社が浮かび上がった。国際的な貿易会社だ。
行方不明者が消えた近辺で不審な黒いバンが走っており、それと似通った車がここ半月ハイビレッジ株式会社のビルに頻繁に出入りしているらしい。その為、先輩はこの会社に目を付けた。
被害者の規模からみても単独犯とは考え辛い。同時に警察も動いている可能性が高いため、一度協力者に様子を聞きたいところだが、依頼人の話だと捜査に消極的であるらしい。
次に、律華ちゃんが集めてきた資料。こちらはここ一カ月の行方不明者に関する内容と共に、ハイビレッジ株式会社に関する新聞記事がないかを調べてまとめたものだ。
こちらで気になるのは二点。
ここ最近多発している野生動物による被害。噂によると喉元を一裂きという悲惨な状態らしいが、その割に大した騒ぎにはなっていない。その理由は、被害が特定の会社の社員に集中しているためだという。もしかしたらその会社がハイビレッジ株式会社ではないかと、律華ちゃんは幾つかの情報から推理した。
もう一つは、十五日の夜にハイビレッジ株式会社のトラックが横転したという事故。こちらはSNSで目撃者と名乗る者達が「動物に襲われてトラックが横転するのを見た」「積荷が逃げたと聞いた」などという噂が流れているらしい。
この大型動物というのが何かは分からないが、どうも何か起きていそうな会社だ。先輩は恐らくこの会社を調べに行き、そして姿を消した。
都内で相次ぐ大型動物による被害。普通であれば警察が放っておくわけもなく、住民を避難させ大捕り物となってもおかしくない。何か裏があるからこそ、この事件は伏せられているのだ。
となると、このハイビレッジ株式会社という会社はよほどのことをしたらしい。そんな場所に単独で様子を見に行く先輩も先輩だ。
昼間律華から送ってもらった資料と、ネットから得られたハイビレッジ株式会社の所在地、大まかな内部構造などをまとめ直す。
先輩は囚われているのか、或いは何らかの機会を狙ってどこかに潜んでいるのか。前者であれば急ぐべきだし、後者であれば迂闊に動けない。
やはり、目を付けられるのを覚悟で一度偵察に行くべきか。
不意に、俺のスマホが鳴る。着信相手は先輩の警察時代の知り合いだった。
「もしもし、東探偵事務所の畔柳です」
『夜分遅くに失礼します。水守警察署の赤塚です。急ぎお話したいことが……いやもうこれ来て頂いた方が早いかな』
「何があったんです?」
『実は……あぁいやその、まだ確定したわけじゃないんで何とも言えないんですけど……』
「手短に」
ハンズフリー状態に切り替え、手早く書類を片付ける。いくつかのソフトを終了させ、パソコンの電源も落とす。定期的に盗聴器が無いことは確認しているため、通話内容を聞かれることもない。
『実は一昨日の深夜、住宅街の一角で死体が発見されまして。若い男性が三人。全員とある貿易会社の会社員であることが分かりました』
「……もしかして、全員喉を裂かれてたりしました?」
『そうですそうです。裂く、というよりは噛み千切るの方が近いですね。他にもひっかき傷が無数。正直な話、こういう事件は警察もお手上げでして。上の方からもあまり大事にならない程度に後始末をしろ、としか指示が来ないんですね』
「それでうちに話を持ち込んだってわけですね。……でもそれだけじゃないですよね、どうしました?」
『ああそうだ、ええとですね。それらの死体と一緒に、もう一人分の血痕とトレンチコートが見つかりまして』
一瞬呼吸が止まる。
……いや、覚悟はしていた。むしろ血痕だけであれば、まだ良い方だ。
小さく息を吐き、努めて冷静に、問い返す。
「それが、東誠路のものだと?」
『まだ確証を得られる遺留品はないんですが、あの人年中同じようなコート来てたじゃないですか。それで、調べに行ったうちの署のメンバーが、どうも東さんのコートと似てる遺留品があった話になって、それでですね』
「先輩も引き裂かれてたんですか?」
死体が三つ、その場所に先輩がいたなら、無傷とは思えない。何故ならあの人は正義漢の塊だから。襲われていた人がいたなら庇うだろう。
じっとりと、嫌な汗が噴き出す。
しかし、通話相手の返答は、俺の予想を上回った。
『いえそれが、コートにはひっかき傷の代わりに弾痕があって』
「……は?」
『現場に銃はなかったのですが、肩口に一発、血痕の付き方から見ると他にも多少怪我をしている可能性が。その周辺を確認しましたが、東さんの足取りは掴めませんでした。車か何かで移動したのかもしれません。それで、一応東さんがそちらに戻っていればお話を……と思ったんですけど』
「戻って、ないですねぇ」
小型のノートパソコン、モバイルバッテリー、手帳等の装備をリュックサックに詰め込み、改めてスマホをを手に取る。
「良ければ場所を教えて頂いても?」
『あぁ、それじゃどこかで待ち合わせをしましょう。現場はもう片付けてしまったので。場所は……』
手帳に住所をメモしながら、ふと視線が奥のソファに向かう。ソファの下の暗がりに、律華の忘れ物か、小さなポーチが落ちているのが目に入った。
あの子には、この話は伝えられないだろう。少なくとも、生死が明らかになってある程度一区切りつくまでは。
「それでは後程。失礼します」
電話を切り、思考を切り替える。
それでも寝不足の頭が、つきりと痛んだ。
◇◆◇◆◇
赤塚という警官が待ち合わせ場所に選んだのは、事務所からやや離れたレストランだった。男二人で夜にレストランで食事とは微塵もテンションが上がらないが、致し方ない。
店内に入ると落ち着いた雰囲気が漂っており、席同士がしっかりと仕切られていて、なるほど話をするのには都合がいい。
案内された席に向かうと、既に若い男性が一人、スマホを弄っていた。こちらに気が付くと立ち上がり、ぺこりと頭を下げる。
「お久しぶりです畔柳さん」
「お久しぶりです。先輩の退職以来かな?」
「そうですね、東さんが退職されて以来中々会う機会もありませんでしたし」
そう言って赤塚はヘラリと笑う。ぶっちゃけいつ最後に会ったかなんて覚えてもいないが、適当に話を振りながら、俺は相手の向かいの席に着いた。
「で、詳しい話を聞かせてもらえます?」
単刀直入に話を振ると、赤塚は軽く頷いてファイルを取り出す。
「こちらが事件現場の写真です。本来一般の方には非公開となっているので、ご内密に」
「分かってますよ」
中身の写真は、凄惨なものだった。首が不自然に曲がり、完全に掻き切られた喉元から零れたものによってアスファルトは赤黒く染まっている。しかし、胴体はそれ以上荒らされた様子はなく、確実に命を奪うための襲撃であることが容易に見て取れた。
別の死体には、肩口に噛みついた跡がある。服を貫通した鋭い牙、更に引き剥がそうと抵抗した時に付けられたのだろう、手や胴体にひっかき傷。どちらもかなりの傷で、肉が抉れ服は赤く染まっている。
「これはなかなか……」
「ひどいもんでしょう?歯型からしてかなり大型の犬じゃないかと思うんですが、そんなものがうろついてたらとっくに通報が入ると思うんですよねぇ」
「この噛み跡だと、犬のサイズどれぐらいになります?」
俺の疑問に、赤塚は真剣な顔で応える。
「百七十センチぐらいですかね」
「いねぇよそんな犬」
思わず敬語も剥がれた。いねぇよそんな犬。人間サイズじゃないか。それ犬じゃないよ。明らかに何か違う生物だよ。
「いや、ほらいるかもしれませんよ?トラだって猫ですし」
「ネコ科であって猫じゃないしそんなのが辺りをうろついてるわけないじゃないっすか。……んなことどうでもいいや、イヌ科で最大の動物って狼辺りでしたっけ、それでも最大百六十ぐらいって聞いた気がしますけど。そんな最大サイズがウロウロしてんのを放置してるんですか警察は」
「探してはいるんですが、目撃情報が無いんですよねぇ。しかしよほどでっかいワンちゃんなんだろうなぁ」
楽しそうに想像していますけど、その犬人食い犬っすよ。と水を差そうか迷ったが、面倒なので放置。
「ああそういえば、丁度同日に動物を輸送していたトラックも襲われてるんですよね。ほら、ニュースになっていたでしょう?」
「ん?あぁ、そういえばやってましたね。運転手が死亡ってのは聞きましたが、襲われたってのは?」
「いやぁ、そっちの運転手もね、同じように殺されてたんですよ。その時積荷が一匹逃走したって話もあったんですけど、何の動物だか輸送元の会社が口を割らなくて。そのうちやっぱり全部無事だったから問題ないの一点張り。胡散臭いですよねぇ」
「その会社ってのは?」
「ハイビレッジっていう会社ですね。受け取り予定だったのは暁の斧という名前の珍獣屋。最初こちらの方から商品が逃げたって話が入ったんですが、それ以降だんまりです。ハイビレッジの方が何か手を打ったんですかね」
はーん、なるほど。
やはり胡散臭いのはこのハイビレッジなる会社だ。被害者にしろ加害者にしろ、確実に何らかの情報を持っている。
ペラペラと写真をめくっていると、血溜まりの中に浮かぶコートの写真が写る。キャメルのトレンチコートは、確かに俺の見慣れたものとよく似ている。
弾痕があったと聞いたが、この写真ではよく分からない。片袖だけが捲られた状態で、無造作に脱ぎ捨てられている。
「これ、発見時から弄ってない?」
「そうですね、写真撮った段階では触ってません。その後回収しましたけど。実物も見ます?」
「や、大丈夫です。写真見せて下さりありがとうございます。助かりました」
にっこりと笑った俺に、赤塚は不思議そうな顔をする。
それから俺は運ばれてきた料理を胃に収め、これからも情報交換の確約をしてふらりと店を出る。
大分夜も更け、ネオンが目に痛い。俺は気の抜けたままフラフラと夜道を抜け、ボロアパートの自室で死んだように、寝た。
◇◆◇◆◇
再び目を覚ますと、丁度朝の八時を回ったところだった。ざっとシャワーを浴びて身なりを整え、かなり軽くなった体をストレッチで解す。素晴らしい。体の関節が軋まないって素晴らしい。
今は良くともあと十年もすると体にガタが来そうなので、それまでに事務所の経営を軌道に乗せて楽隠居させてもらいたい。
スマホには特に連絡はない。幾分すっきりした頭で、さて今日はどうしようと考える。
律華ちゃんの方で、更に何か分かったことはあるだろうか。どうせなら情報を整理し、いつでも動ける状態にしておきたい。ついでにまだ居るのであれば、拾われたという青年の顔も拝んでやろう。
そうと決まれば話が早い。サッと荷物をまとめ、スマホを片手に家を出る。彼女達の住むアパートは、ここからそう離れてはいない。
歩きながら律華に電話をかけた。
二回、三回……十回コール音を聞いたところで、なんとなく嫌な予感がし、自然足を速める。
もう一度かけ直したところ、今度は電源を切られたらしく繋がらなかった。
階段を駆け上がり、インターホンを押す。
反応がない。
一瞬迷って、それからポストを覗く。今朝の朝刊は姿を消している。つまり、朝まではちゃんと家にいたと思われる。しかし電話に出ない。
笑顔が引きつる。
――――あんのクソガキ共、どこ行った?
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