交渉_2
「さて」
家の中に入った雨ヶ瀬はその暗い玄関と廊下をライトで照らす。生活臭のする靴や買い物袋、マット。しかし相変わらず人の気配はない。
「土足は、流石にね?」
雨ヶ瀬は真っ白いスニーカーを脱いで、昼間の気温がまだ若干残る廊下に踏み入った。ぎしぎしと板が鳴る音がやたらと耳につく。壁に照らされた花瓶の置かれた棚や貼られたカレンダーに何か荒らされた様子は見当たらない。何か事件が起きている……訳ではない、のだろうか。穏やかながら変に響く心音を鼓膜の奥から感じながら、雨ヶ瀬は奥の扉に辿り着いた。ドアノブに手をかけた辺りで、何かが腐ったのような臭いが微かに鼻をつく。それはドアの向こう側から来ている、ような気がした。
「あんまり、開けたくないけど……」
嫌な予感がしながらドアを開けると、視界に入ったのはテレビとソファー、そして奥のダイニングキッチン。そして酷い悪臭。
「うっ……」
雨ヶ瀬は腕で鼻を覆い、ライトが照らしている先は冷蔵庫。電気が止められてから約数日、季節は晩夏。中身がどうなっているか、考えたくもない。そんな中身よりも探さないといけないものがある。その為にわざわざ自ら、ここにやってきたのだ。
国立東都研究所。あの事件が発生してから造られた、本来は事態が収まるまでの一時的な機関。けれどあの時子供だった私が大人になった今でも完全な事態の収束には至っていないし、むしろその拡大を抑えるのが精一杯なままだ。そして私は今、その研究所の部長として、同時に一個人として、それを探しに来た。それというか、人。人というか……。
「やっと来た」
背後から口を押さえる手。雨ヶ瀬は口を塞がれなくとも声を出せないくらいに心臓を跳ね上げ、呼吸がまともに出来ない。
「白衣、お前医者だな? 診てくれるんだろう、その為に来たんだろう? そうだな?」
耳元の声はやたらと早口で息が荒く、酷く興奮しているようだった。声帯がこわばる雨ヶ瀬は無言で頷く。
「ああ、良かった。だろうな、そうだ。嘘じゃなかった!」
どうやら歓迎……されている事にしておこう。危害を加えてこないだけまだマシ、なのだろうか。口や身体を背後から抑えるその人からは腐臭とも違う何とも言い難い悪臭が漂っている。
「早く診てくれ、こっちに付いてこい。お願いだから、暴れないで」
背中に何かの鋭い先端がつついて来るのを感じながら、雨ヶ瀬は男に半ば引きずられるかのように家の奥へと連れ込まれていく。雨ヶ瀬は恐怖と一抹の不安、そして期待を胸に、口を覆う手の下で口元を緩ませていた。
ブラックボックス ナギシュータ @nagisyuta
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