ブラックボックス

ナギシュータ

交渉_1

「すみません。これよりこちらの地域で定期消毒が始まりますので。あちらの道から迂回をお願いします」

 曇天の薄暮、全身を白い防護衣を覆った男が真っ直ぐ伸びる大通りを指さし、今来た道を戻るように言われた親子連れは不満を漏らしながらその場を立ち去っていく。太陽が隠れコンクリートだらけの町は色味を失ったかのように味気ない。

 十数年前に大規模な区画整理が行われ縦横に走る道路によってブロック状に分けられた町の一角。ここが本日の定期消毒を行う区画に定められていた。何か流行病が発生した訳でもない、予防とも言えるその消毒だが、その作業に従事する作業員はみな仰々しい防護衣とその背中には消毒液等が詰まった装備を背負っている。まるでこの付近に有毒物質か細菌兵器がばらかまれているかのように。

 そしてそんな集団に近付く1人の青い短髪の女性――というにはあどけなさが残った顔つき。

「作業お疲れ様。この辺りかしら?」

「すみません。これよりこちらの地域で定期消毒が――」

 白衣を着た女性は大きくため息をつき、男の言葉を遮る。

「テンプレでしか喋れないならロボットで十分よ。ほら、見える?」

 首に提げたプレートを持ち、男に突き出す。

「国立東都研究所第5生物活性研究部長、雨ヶ瀬あまかぜ 蝶羽あげは。今回ここに集まるように指示したのは私、責任者も私よ」

 その言葉を聞いた男は途端に背筋を伸ばして敬礼した。

「す、すみません雨ヶ瀬様!」

「あーあー、そういうのが欲しかった訳じゃないんだけど……まあいいか。で、どう? 準備は」

「はい、周辺住民への告知や誘導等は通常の定期消毒と同様に行っております。既に区画内で外にいる人間は私達のみです」

「ん、いいね。今回はちょっと突発的な消毒だけど、大事なのはいつも通りの退屈な作業を行ってると思わせる事だからね。じゃないと野次馬根性のある奴とかがこっそり抜け出してきて面倒だし。念の為、住民が外をうろついてないかとか、警戒は常にお願い」

「勿論です。他の者にもその旨は伝えてあります」

「助かるよ。ま、元々定期消毒の日程が近かったし、ちょっとくらい予定を前倒ししても、いつもの事かと不満をちょっと垂れ流される程度でそんなに怪しまれずに済む。……じゃあ、現場まで案内よろしく」

 雨ヶ瀬は防護衣の男を横にその区域に入っていく。住宅やマンションが幾何学的に規則正しく並んでいるが、恐ろしいほど人の気配がない。もちろん、家の中に皆籠もっているからだ。どこもかしこもカーテンが閉められ、ほんのり明かりが漏れている。中では退屈を凌ぐ為に仮想現実の世界にでも入っているのだろう。至極便利で、逃げる先のある世の中だ。

「……じゃないと、やってられないよね」

「何か言いましたか?」

「いや、別に」

 定期消毒や突発的な屋内待機命令が行われるようになってから急速に発達した仮想現実という娯楽。雨ヶ瀬はあまり触れてきた事のない世界だが、その魅力は嫌というほど聞かされてきた。しかしそのたびに彼女は心の中で首を振っていた。実在するものでなければ、私には価値を感じる事ができないと。

「見えてきました、あの家です」

 男が指差す先に一軒の家が建っている。他に建ち並ぶ家と比べて特段おかしい部分は見当たらない。あるとすれば、家の中に明かりが点いてない事くらいだ。

「数日前に電気を遮断して監視を続けていたのですが、全く反応は見られない状況です」

「なるほどね……」

雨ヶ瀬はその玄関の前に立ち、非常電源によって作動を続けているチャイムを鳴らす。しかし返答はない。

「他の作業員には通常通り道路一帯の消毒作業及び汚染濃度の測定をするよう言っておいて。もし何か指示をする時は端末にその内容を送るから」

「分かりました。……しかし本当に1人で大丈夫なので?」

 男の問いに、雨ヶ瀬は手に持ったカードキーで玄関の施錠を解除しながら振り返る。

「最悪、死ぬかもね」

 その顔は言葉とは裏腹に穏やかで、色素の薄い灰色の瞳は輝いていた。

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