ヒトに還る

もくはずし

第1話

 手元からサラサラと熱を持った印刷紙が零れ落ちていく。嗚呼またやってしまった、などと呑気な停止をしていると5枚、10枚と指数関数的に指から紙が消えていく。


 「ちょっと、落ちてる、落ちてる。」


 声が上がり、ハッとする。拾わなくては、と時差ボケした心が慌てだす。


 「何ボーっとしてるの?今日これで何度目?」

 「ああ、すみません。ちょっと寝不足で。」


 佐々木さんが床に散らばった書類に手をかけているのを見て、気持ちが逸る。


 「最近おかしいわよ?なにか悩んでることでもあるの?」

 「あー、そうですね。最近泥棒に入られまして。」


 言い訳のような、私の一言で周囲がざわめく。横目で見ていた同僚上司連中がついに顔をこちらに向ける。


 「泥棒?警察には届けたの?何か盗られたの?」

 「そんなニュース見てないぞ。本当なのか?」

 「いつ入られたんですか?相手の顔見ました?」


 矢継ぎ早の質問攻めに辟易する。これなら何も言わずに出ていく泥棒のほうがよっぽどましだ。


 「ええ、私が居酒屋から帰ってきたときに丁度部屋の前でガチャガチャやってる人がいまして。私の顔を見たらすっ飛んで逃げて行ってしまいましたけども。だから未遂なのです。」


 興奮する牛を宥めるよう、穏やかな口調で言ったのが仇となったか、責め苦はオーバーヒートするばかりであった。やはり彼らからは体を躱して対応するに限る。

 結局この日も仕事は手につかなかった。明日までに3人の物件書類についてまとめておかなければならないのに、郡山光春の心は注視すべき焦点を失っていた。


 真っ直ぐ家に帰る。定時の6時にも拘わらず未だ日は落ちず、西の空を茜色に染め上げる。入道雲が過ぎ去った形跡に足裏を濡らしながら帰路を急ぐ。首を垂れ落ちる草露に夏の匂いが香る。夕立の後の静けさ。子どものころからこの時間が苦手だ。 

 昔、誘拐されかけたことがある。元来色が白く貧弱だった私は何かにつけてビリを取りがちで、いじめにさえよくあった。しかし夕暮れの闇に視界が染まっていく中、誰とも分からない大人の男に私の手を無理矢理奪い去られる思い出に勝る恐怖ではなかった。

 怖かったのかはたまた賢明であったのか、私は一言も声を発さず、為されるがままであった。偶々通りがかった近所の人に発見されて事なきを得たが、どうにも記憶が曖昧でその後犯人がどうなったのかとか、私はなんで連れ去られなければならなかったのかなどは私の中では闇に葬られている。肉親も今となってはあまり記憶に残っていないらしく、確かな情報というものは残っていない。


 闇が深くなる。西の空から光源が途絶え、残り火に空は辛うじて星を隠す。

虹彩の開口が迫りくる闇に追いつかない。網膜に映る、頭を揺り動かす度に残る残像と淀んだオレンジ色の風景が実像を歪め、脳に伝える。帰路を急ごう。本能がそう教える時間。

 別段、あの泥棒の陰に怯えている訳ではない。寧ろ歓迎しているほどだ。不審者が実行犯にクラスチェンジしてさえくれれば、明日の顧客対応から私は合法的に外れることができる。それは喜ばしいことだ。客と上司に怒られるよりは、上司だけに怒られた方がマシなのは明白なのである。


 夜は良い。あの暗闇はまさしく平穏だ。人類にとって、夜は既に支配した時間である。最早、真の闇はそこに無い。

 街頭に照らされた道と人通りが消失する静けさのミスマッチが心地よい。夜の外出は好んで行うのが日課となっていた。家に着くころには街の街頭が付き始め、所々にビルの細胞一つ一つが輝き始める。未だ黒く塗りつぶされた、動かぬ部屋を目指し歩き続ける。外壁に無数のヒビが入り、階段を照らす灯は不規則なリズムを刻み続ける。その中に私の帰る場所がある。幾つかの吐き捨てられたガムと鳥の糞をまたぎ階段を上っていく。

 

 顔を上げると、男の影があった。

私の部屋の前に在ったそれは私と目が合ったのか、こちらに体を向けて動きを止める。恐怖による硬直で、暫く見合ったまま動けなかった。興奮した異常者に何をされるかわからない。誘拐されかけたあの頃の様に、私は自衛も儘ならずに立ち竦んでいた。


 やがて、黒い影はどこか立ち去って行った。溜息と共に、久しぶりの酸素を摂取する。影の男が私に接触を試みなかった気まぐれに安堵し、何の警戒も確認もしようとせずに鍵を回しドアを開ける。

 家の中は酷い有様だった。本棚は倒され、引き出しは全て開けっ放し。剥がれかけていた床は所々内装替えの履歴を剥き出しにしており、それらを覆い隠すように本や家具、雑貨が床に散りばめられている。私はそれらを横目に布団に潜り込む。今日はいつも以上に疲れた。何をやろうという気力も湧かない。


 カーテンを閉めずに寝たツケにより、五時半の朝日の眩しさで覚醒させられる。

良く寝たせいか、頭ははっきりしているが、凄惨たるこの部屋の見栄えを整えようという気も起らない。どうせまたあの男が荒らしていくのだ。気にするだけ無駄だ。

 窓を破り、礫の如く私を貫いて外界に連れ出そうとする光を遮断し、私は再び眠りについた。

 

 昨日にも増して散々な一日だった。寝過ごした私は何の言い訳も用意しないまま何の用意もしていない窓口に立たされた。借家の手続きが済んでいない彼らへの謝罪で一日が終わり、その後は永遠とも思える説教と早急な対応という名の残務によって一日は延長された。どうにか浮つく心を押し込めて業務を終わらせる。時計は2時を回っている。

 こんな時間にすら開いているコンビニエンスストアで腹を膨らます算段をし、帰路に就く。疲労で回らない頭に、昨日の光景がフラッシュバックする。

 家に帰りたくはない。しかし野宿するわけにもいかない。路上に倒れることができるほどの酒を買い忘れた自分を恨んだが、店に引き返そうとも思えなかった。戦々恐々と古アパートの階段を一段一段噛みしめながら上がっていく。

 案の定、彼はそこにいた。




 明滅する通路照明に尚、彼の闇が暴かれることはなかった。

光源の安定しない視界にゆらゆらと陽炎の様に聳え立つそれは私に気付き、私から立ち去ってゆく。

彼の消失を見届け、部屋に入る。依然として残骸の山のような自室に逃げ込むと、乾いた食料と少量の酒を仰ぎ眠りについた。



 起きると空は赤い残骸を残し、ほんの僅かな光が部屋を辛うじて照らしていた。

休日にやることなど無い。ただ寝て過ごしていた私にちょうど良く、その日が終わりに近づく。生き残っている数少ない家電である冷蔵庫の扉を開けると、食料らしい物体はほとんどなかった。

 この事実を機に、夜の町に繰り出したいという欲求が沸きあがる。時間は早いが善は急げだ。気怠く動かし方を忘れた体をやおら起き上げる。しかし、あの影の男は今日もドアの前に立ちはだかっているかもしれないと思うと、再びその気力も失せてしまう。

 私は何度もこうして逃げてきたのだ。今回だって逃げ果せる。冷蔵庫の中で奇跡的に生きていた缶ビールを手に取り、夜風に当たって楽しもうとベランダに目を向ける。

 私の動きが止まる。奴だ。カーテン越しに伝わる邪気に、体が機能を停止する。

外と内を遮断する気弱な布越しに、その姿が段々浮き上がってくる。カーテンを盛り上げる様に闇が膨らみ、部屋に侵入してくる。

 明かりのついていない部屋を更なる漆黒に施された人体が闊歩する。あれに捕まったら、戻れない。そんなことが脳内に飽和し、運動命令を発することができない。手を伸ばし、何かを探すように揺れ動くそれは、とうとう私の目の前に到達する。

 彼が手を伸ばす先に私の顔があり、とうとう指先が触れる。

 途端、安らぐ。嗚呼、私は死ぬのだ。彼は私を見つけ、元在るべき姿に成る。

私は彼に取り込まれ、闇の深くに意識を閉ざすのだ。

 私のいるべき場所がここであるという安心感と、この世界で生き残る術を身に着けたことによる自信に満ちている。

 もう、逃げなくてもよい。


 郡山光春という存在が消滅し、ほの暗い部屋だけが残る。元から誰も住んでは居ないこの空き部屋をこじ開ける鍵の音がする。


 「すみません、こんな時間に部屋を見させて頂けるなんて。」

 「いえいえ、8時まででしたら何件でもお供できますよ。」

 「ああ、理想的な間取りじゃないですか。日当たりもよさそうだしもうここでいいかな。」


 ベランダに立ち尽くす郡山光春の亡き瞳は、新たな入居者の姿を捉えていた。

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ヒトに還る もくはずし @mokuhazushi

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