跳躍のクロッククロニカ
黄鱗きいろ
第1話 浮遊する時計塔
腹の底に響くような針の音が、そこらじゅうから響いていた。
繋いだ手に力を籠め、走るために息をする。空気とともにその轟音が肺へと進入してくる。
まるで腹の中だ。全てを飲み込んで動き続ける怪物の腹の中。そんな場所で僕たちは手を取り合って必死に走り続けていた。
ここは『
それゆえにこの『
他にあるものといえばこの街全体を支える巨大な工場ばかり。だが、今はそれが僕たちにとっての一縷の希望となっていた。
「大丈夫よ、ヒロ。工場まで、逃げれば、きっと誰かが、助けてくれるから」
息を切らしながら少女、クロナは僕を励ます。僕は不安で泣きそうになっていたのをぐっとこらえ、「うん」とうなずいた。
「いい子」
彼女は振り返り、気丈に微笑んでみせた。
クロナは強い子だ。同い年のはずなのに、男の僕なんかよりずっと強くて頼りがいがある。
背後から慌ただしい足音が聞こえてきたのはその時だった。
奴らだ。僕たちを追いかけてきたんだ。
何者かがこの辺りの子供を捕まえてはどこかに連れていってしまうという噂は聞いていた。本当だったんだ。このままじゃ二人とも捕まってしまう。
「大丈夫、工場があるから、大丈夫」
言い聞かせるようにクロナが口を動かす。工場には働いている大人がいるはずだ。誘拐犯も大人がいる場所まではやってこないだろう。
だがその考えが浅かったことを知ったのはその直後だった。
「きゃっ」
先導していたクロナが誰かにぶつかって立ち止まる。そこに立っていたのは僕たちを追っていたのと同じ、黒服の男たちだった。
男たちはクロナの体に手をやると、そのまま持ち上げて僕から引きはがそうとした。
「クロナ……!」
「ヒロ!」
僕も背後からやってきた男たちに押さえつけられ、しっかりと繋いでいた手は無理やりはがされてしまう。
「ヒロ! ヒロを放して! 私ならなんでもするから!」
壁に押し付けられながらもクロナが叫ぶ。僕も何かを叫ぼうと口を開いたが、その直前に首筋に押し当てられた痛みにくぐもった悲鳴を上げてしまった。
「こっちは駄目だな。使い物にならない」
何かの数値を測っているんだ。それだけはぼんやり理解できたが、直後に与えられた腹への衝撃に僕はなすすべもなく地面へと崩れ落ちてしまった。
僕を蹴りつけた男たちが、クロナを担ぎ上げてどこかへと去っていく。
「ヒロ、ヒローー!」
それが、僕が彼女を見た最後の姿だった。
*
「……ヒロ、俺の話聞いてるか?」
「えっ、ああうん。聞いてる聞いてる」
ぼんやりしてしまっていたことをごまかして、僕は同僚のセドリックに笑顔を向ける。すぐに見破られてしまったらしく、彼は僕の額を軽くべしっと叩いてきた。
だがすぐ隣を通りかかったこのオフィスの社員にそれを見られてしまっていたらしい。彼は廊下の隅で立ち話をしていた僕たちにわざわざ近づいてきて、大声で嫌味を言ってきた。
「堂々とサボりとは、いいご身分なことだな」
「す、すみません!」
「すみませーん」
僕は頭を下げ、セドリックは間延びした声で謝罪した。社員の男は一応は満足したのか、ふんと鼻を鳴らすと捨て台詞を吐いて去っていった。
「これだから下層上がりは」
後ろを向いてオフィスに戻っていく社員に、セドリックは中指を立てていた。僕はそれを慌てて下ろさせた。
三つの階層と一つの地表に分かれたこの街は、その最上層の名前を取って『
最上層、『
第二層、『
第三層、『
世界の果てである地盤、『
僕はそのうちの第三層『
第二層と第三層の子供は、十四歳になると一斉に抽選が行われ、幸運な子供は最上層『
僕はモップを持ち運び用のボックスに入れ、それを転がし始めた。
クロナがあいつらに連れ去られてから五年が経った。当時は二人とも十歳だったから、クロナも今頃十五歳になっているだろう。
「次の現場って二十の五番地の郵便屋だっけ?」
「うん。仕事は十三時からって書いてある」
ボックスに貼り付けられていた予定表を確認する。次に行く郵便屋は時間に厳しいから気を付けなければ。
「よし、じゃあ俺が昼飯買ってくるから十九丁目の公園で食おうぜ」
「えー……上級市民の人にまた変な目で見られるよ……?」
「いいんだよ。罰食らうわけじゃないんだし、堂々といこうぜ!」
セドリックはばしばしと僕の肩を叩くと、さっさと建物から出ていってしまった。僕は今の会話が聞かれていないかびくびくしながら、彼の後をついてボックスを転がしていった。
二級市民はあまり大通りを歩くべきではない。それが、市民の間の暗黙の了解となっている。
だが不幸にも次の現場への通り道には
郵便屋は時間に厳しい。遅れるわけにはいかないのだが、そのためには中央駅の付近を通らなくてはならない。
僕は迷った末に中央駅の付近を通り過ぎることを選んだ。どうせセドリックと合流するのに時間はかかるだろう。
駅に向かう道を、ボックスを転がして進んでいく。思った通り、一級市民からは嫌な顔をされているが、ここは我慢して無視するしかない。
歩みを進めるうちに、どんどん人通りは多くなり、蒸気自動車の立てるエンジン音も、噴き上げる粉塵のにおいも濃くなっていく。だから僕はそれにうまく反応できなかった。
最初は激しい風が吹き抜けたのだと思った。次いで目の前がまぶしく光り、熱が顔に吹き付けてくる。
数秒の混乱の後、僕の前にあったのは、大破し炎上している蒸気自動車だった。
事故だ。たっぷり五秒は考えた後、ようやく僕は体を動かすことができた。
「あのっ、大丈夫ですか」
運転席から放り出されたらしい男性に声をかける。幸運にも彼は目立った怪我を負っていないようだったが、なぜか僕の言葉に反応しようとしなかった。
こちらは後回しだ。燃え盛る自動車に目を戻すと、開いた扉から這い出てくる一人の少女が視界に入った。
「きみ、怪我はない!? 痛いところとか……」
慌てて彼女に駆け寄り、体を起こすのに手を貸す。しかし、その顔を目にした瞬間、僕の全身はぎしりと動かなくなった。
肩下まであるウェーブのかかった金髪、ちょっと吊り上がった緑の目。彫りは深く、唇はへの字に結ばれている。
全部見覚えがある。忘れるはずがない。彼女は――
「――クロナ?」
あの時手を放してしまったはずの彼女が、変わらぬ姿でそこにいた。
跳躍のクロッククロニカ 黄鱗きいろ @cradleofdragon
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