第8夜 かりそめの方程式

「冷静に現在いまの状況を整理しよう」

 僕はそう言って彼女に向き直った。

「そうね。現状はきちんと把握しないと」

 彼女も小さくうなずいた。

「じゃあ、まずは酸素の残量。2人なら3日、1人なら一週間分だ。次に飲料水、残りは5リットル。2人なら良くて2日、1人なら、切り詰めればこれも一週間はなんとか持つと思う。そして食料、これは現時点ですでにゼロ。とまあ、ざっとこんな所」

「救助は?」

「こっちに向かってはいる。でも、到着までどんなに早くても5日はかかるらしい。つまり、今すぐ決断しない限り、僕らはどちらも絶対に助からない」

「そう」

 彼女は短くつぶやいてうつむいた。



 僕らが乗っているコロニー間レンタシャトルは自動運転の超小型宇宙船だ。

 地球近傍に点在するコロニーをつなぐ最もパーソナルな交通機関で、最大でも5人しか乗れない。ただ、定期便を待てない急ぎの用事のためにレンタシャトルを借りるのはコロニー住民にとってごく普通の話だし、完全自動運転なので僕らみたいな未成年だけでも安全に利用可能だ。

 ……普段なら。

 先月から付き合い始めたばかりの僕らは共通の知り合いの結婚式に参加するため、ラグランジュ5に浮かぶコロニーから、月近傍のラグランジュ1に浮かぶコロニーに向かっていた。

 ただ、今回は運が悪かった。姿勢制御用のサイドスラスターの開閉バルブに微少デブリが衝突し、誰も気づかないまま丸一日以上も全力噴射が続いたのだ。

 結論として、僕らの乗ったシャトルは予定の航路から遙かに離れた場所まで運ばれてしまい、そこで燃料が完全に尽きた。

 つまり、僕らはたった二人っきりで宇宙の迷子になってしまったんだ。



「私は、ヨシ君が生き残るべきだと思う」

「何言ってんの? 生き残るべきはユキだよ」

「違うよ。私よりヨシ君の方がみんなに愛されているし、いなくなって悲しむ人もきっとヨシ君の方が多い」

「そんなことないよ。悲しむ人が多いのは絶対にユキだ。それに……」

 僕はゴクリと唾を飲み込むと、心を決めて彼女の瞳をじっと見つめる。

「僕だって、ユキが死ぬのは絶対にいやだ。だって…」

 彼女は驚いた表情で僕の顔を見る。

「……君が、本当に好きだから」

「えっ!」

 彼女は真っ赤になると再びうつむいてしまった。



「ヨシ君、そういうごまかし方はズルいと思う」

 しばらくたって、ショックから立ち直ったユキは再び話し始めた。

「もっとちゃんと、本当に生き残るべきはどっちか、論理的に話し合って決めようよ」

「いいよ。じゃあ、どうしてそう思うのか、お互い納得できる理由もつけよう」

「うん」

 ユキを生き残らせるため、ここで絶対に負けるわけにはいかない。僕は真剣に考える。

「ユキの方が学校の成績がいい。将来、人の役に立つ仕事につく可能性が高い」

「ヨシ君の方が勇気がある。大人になったら警察官とか消防士になって人命救助をするかもしれない」

「異議あり。勇気だけじゃ人助けなんて出来ないよ。頭も良くないと。だから今のは無効」

「えー、じゃあ、体育が得意。スポーツ選手になってみんなを楽しませるかも」

「そんなあいまいな根拠でいいなら、ユキは歌がうまい。ダンスも得意」

「…ヨシ君は優しい」

「僕は優しくなんてない。でもユキは思いやりがある」

「優しいよ。だって、こんな時って自分最優先で生き残ろうとするよね、普通。それなのに……」

「ユキだって。こんな僕を生き残らせる無茶な理屈を一生懸命考えてくれてるし」

「うーん」

「うーん」

 これじゃ決着がつかない。

 僕らはまだ一人前ですらない。お互いのスキルもセンスもまだまだ未熟で優劣のつけようがない。

「じゃあ、こうしよう。どうして僕がユキに生き残って欲しいのか。ユキがどうして僕に生き残って欲しいのか、その理由が納得できたら生き残る」

「わかった」

 僕は深呼吸をすると、はじめてユキに出会った日のことを思い起こす。

「僕らがはじめてあった日、僕は母さんとけんかして家出していたんだ。親なんて信用できない。親父も母さんも僕をだましてた。僕の都合も聞かずに勝手に離婚して。僕は親父に付いて行きたかったのに、勝手に母さんの籍に移されて、名字まで強引に替えられて……」

「……」

「もう家のことも学校も、何もかもがどうでも良くなって、投げやりに自殺しようと思ってた。そんな時に君に出会ったんだ」

「……そんなことが」

 ユキは驚いたように目を見開く。

「君は僕の話を最後まで聞いてくれて、泣きべそをかいている僕にふわりと笑いかけてこう言ったよね。“でも、良かったじゃない。君はほかの人より少しだけ早く、両親から自立する理由を手に入れたんだよ”って」

「…うん、覚えてる」

「それですっと気持ちが楽になったんだ。親に捨てられたんじゃない、この寂しさ、心の痛みは独り立ちの辛さなんだって思えた。君のおかげで僕は自分の命を絶たずに済んだ。だから、今度は僕が君の命を守りたい。それが、君が生き残るべき理由だ」

 ユキはずいぶん長いこと、黙ったまま身動きもしなかった。

「……私は、本当はズルい人間なの」

「え?」

「あの時、絶望に沈んでいるヨシ君を見て、私は暗い優越感に浸ってた。お姉さんぶって、偉そうにアドバイスなんかして、君がゆっくり立ち直る姿に自分の存在意義を感じてた。私は、ヨシ君のためなんかじゃなく、私自身の満足のために君を利用してたに過ぎないんだよ」

「……そう、なんだ」

 僕は小さくため息をついた。なんだかちょっとだけ寂しい気持ちになった。

「だから、私はヨシ君を差し置いて、自分が生き残る価値がある人間だとは思えない。それが、私が生き残るべきでない理由」



 長い沈黙の後、僕はゆっくりと口を開いた。

「ユキのその言い分はフェアじゃないよ。僕は、君が生き残るべき理由を説明した。なのに君は、自分が生き残るべきでない理由を説明してる。これじゃとうてい納得なんて出来ない」

「じゃあ、どうすればいいの?」

「僕がユキと比較して生き残る価値がある、という、納得できる理由を教えてよ」

「それは……」

 彼女は何度か口を開きかけ、ついにはそのまま黙り込んだ。

「ほら、僕の勝ちだよ。じゃあ、僕は先に行くね」

 個人用エマージェンシーキットをあさり、表面にドクロが描かれ、毒々しい赤に塗装されたピルケースを開く。中には、まるでゼリーのように透き通ったダークグリーンのカプセルが一粒だけ入っていた。これを飲めば、僕はわずか数秒で苦しむことなく速やかに眠りにつき、そして、そのまま安らかな死を迎えることになる。

「じゃあ、みんなによろしくね」

 僕は飲料水のチューブをくわえて水を一口飲み、カプセルを包装から押し出して手のひらにのせる。

「やっぱり、そんなのやだ!」

 不意にユキは大声を上げ、僕の右手からカプセルを弾き飛ばした。顔をくしゃくしゃにして、涙をポロポロこぼしながら。

「ヨシ君が死んじゃうなんて嫌だ! ヨシ君は確かに考え方も子供っぽいし、泣き虫だし、すぐいじけるし、無鉄砲だし、いたずらばっかりするし、とっても意地悪だし、エッチだし……」

 なんだかボロクソに言われている。

「……でも、でも、私にとって宇宙でたった一人のヨシ君なんだよ。世の中にとって価値があるとかないとか、そんなんじゃない。ねえ、死なないで。お願い、ヨシ君がいなくなったら、私一体どうしたら……」

 不意に服を両手でぐいとつかまれ、ユキは涙まみれの顔を僕の胸にぎゅーっと押しつける。

「ヨシ君のいない宇宙は地獄だよ。だから、お願い、死なないで」

 やっと聞けた。多分、これがユキの本音なんだ。僕はユキの頭を優しくなでながら言う。

「ありがとう。その言葉が聞けただけでもう十分だよ」

 僕は涙ににじむコンソールの端っこに引っかかっていたカプセルを拾い上げ、一気に飲み下した。

「さよなら。ユキ、愛してる」

 次の瞬間、世界は暗転した。





「はい、宮倉さーん、訓練終了でーす」

 カプセルがプシッと音を立てて開き、リクライニングシートがゆっくりと立ち上がる。訓練課のアテンダントスタッフが明るく「お疲れさま~」とねぎらいの声をかけながら熱いおしぼりと冷たいイオン飲料のボトルを差し出してきた。

 僕はまだ仮想現実のぼんやりとした残滓を頭の片隅に残したまま、おしぼりを目の上に置いてなんとなしにため息をつく。

 ヴァーチャルロールプレイテストの具体的な舞台、人物設定シチュエーションは実験終了と同時に被験者の脳からきれいに消去される。今回の設定は確か、搭乗した宇宙機が遭難し、二名の搭乗員のどちらが生き、どちらが死ぬかの二択を迫られた際の相互作用と精神的負荷を調べるものだと聞かされている。

 仮定のシチュエーションにおいて、僕らがどう考え、どんな判断を下したのか。普段表に出ることのない本音が露わになる趣味の悪いテストだけど、結果は診断AIによって管理され、そのまま本人に通知されることがないのがわずかな救いだ。

 だが今回、強いストレスのかかる設定の割に、僕の脳に残されているのはそこはかとない寂寥感と、不思議なほどの充足感だった。

「あー、今回は何だろね、すっごい泣いた気がするな~」

 隣のブースが開き、相棒の笹森がスポーツの後のような爽やかな顔でニコリと笑う。

「おかげでなんだかすっきりーって感じだよ」

 彼女とは今回の搭乗が初の顔合わせになる。

 火星までの長距離航路。パイロットとナビ、閉鎖空間で二人っきり。逃げ場のない環境で何週間も顔をつきあわせることになるのでお互いの相性はとても重要な要素になる。今回のテストではそれも確認することになっていたはずだ。

「あ、ところで宮倉さん、この後お暇ですか?」

「え、ああ、特に予定はないけど」

「じゃあ、良かったらお近づきのしるしに一緒にご飯食べましょうよー。なんだか宮倉さんとは初対面って感じがしないんですよねー」

 明るい笑顔でそう誘ってくる笹森の顔を見下ろしながら、彼女とは不思議に気が合いそうな、そんな予感がした。


――――了――――

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