第9夜 百万年の午睡
◇Tマイナス720(離昇十二分前)
二十名の乗組員を収容した作業艇の打ち上げ管制システムを担当する
コーディネーターはただちにカウントダウンを自動凍結し、次いで自己のワークスペースを調整すると空いたメモリ空間に自己診断プロトコルを起動した。
目覚めた自己診断プロトコルは船内の各システムを光の速さでスキャニング、ポンプの駆動回路に不良を発見した。
コーディネーターは当該部位を予備回路に切り替える一方、クロックの再調整のためにカウントダウンを二時間延期する事を船長に提案した。
AIの提案を受けた船長はその提案を承認し、余剰時間を活用し、乗組員全員に一時間の自由時間を与える事を決定した。
◇赤茶けた乾いた地面。風が吹き抜けるたびに細かい砂粒が舞い上がり、視界を薄いピンク色に染め上げる。
そんな中、遠くから砂を踏み締める音が近付いてくる。近付くにつれそれは二人の人間の足音である事がわかる。
ひとつは軽やかに、そしてもうひとつはわずかに引きずる様に。
足音はすぐそばまできて途絶えると、画面中央付近の岩の上に、親子ほども年の違う二人の男が腰をおろす。
そして、しばしの沈黙。
「チーフ、最後にもう一度この景色を見るチャンスができてよかったですね」
「まあ、な。もう見る事もなかろうと思ってたから、よけい感慨深いね」
◇背の高い若者の呼びかけに、老人は枯れた声で答える。
「……この風景ともずいぶん長いつき合いだったなあ」
「チーフはいつからここに?」
「そうだなあ、第一次先遣隊でここに来たんだ。もう三十年近いな」
「三十年!」
「しかし、すべては無駄だったようだ。結果は見ての通りだ。いくら努力しても砂漠化は際限なく進行し、いくら手厚く保護しても、動植物は次々に滅びて行く。空も、海も、今じゃ有史以来かつてなかったほど徹底的に浄化されたのに……」
老人はそこで言葉を切り、深いため息をつく。
「多分、我々は遅すぎたんだろうな」
「哀しいですね。しかし、哀しがる権利はぼくらには無いんですよね」
若者も大きく深呼吸すると、肩を落として答えた。
「権利か……。むしろこのデリケートな星を我が物顔にいじくり回し、汚し、瀕死の状態であっさりと見捨てた“報い”だろうな」
「見捨てたって!」
老人の自嘲気味の独白に、青年はさっと気色ばむ。
「それは違うと思います! 現に、今、こうしてぼくらが……」
「違わないさ。今、この星にいるのは浄化作業員である我々。ほんの数万人だけだ。人類の大部分はとっくに母なる惑星を見捨てて、火星か、上空のスペースコロニーの中でぬくぬくと何不自由なく生活している。自分の犯した大罪に気づきもせずに、だ」
「でも……」
「おまけに、今日限りで作業も中止だ。『もはや、打つ手なし』だなんて、冗談じゃない! 火星には通用したテラフォーミング技術が、なぜ、この星には通用しないと言い切れる?」
◇しばしの気まずい沈黙。
「悪かったな。君にあたっても仕方の無い事だ。ただ、私が、この死にかけた星でやってきた三十年は一体なんだったんだろうな、って、そう思ってね」
「……」
「ところで、君は、“ガイア”と言うのを知っているかい?」
「ええ、確か、ローマ神話で大地の女神の事でしょう」
「残念。ギリシャ神話の方だね。それにもうひとつ、地球は、大陸、海洋、大気、さらに我々生物を含め、それそのものが意思を持った一つの巨大な生命体になぞらえることができないか、という思考実験が昔あってね。その仮説の中で、地球複合生命体のことを“ガイア”と呼んだんだよ」
「興味深いですね。もう少し詳しく教えてくださいよ」
「ああ、地球上のありとあらゆる生命体は、自分たちに生存に都合のいいようにそれぞれが環境を改変し、結果として、お互いの影響力が絶妙にマッチして、穏やかな生育条件が長期的に保たれる奇跡の星になったのではないかと考えられる。そういう理論だ」
「地球そのものが魂を宿しているという話ですか?」
「いや、そういうオカルトじゃないみたいだね」
「では、結果的にまったく偶然の産物として、地球そのものが一種の群体生物のように振る舞っているように見える、ということですか?」
「まあ、そうとも言えるな。私たちの体だって同じだろう? 赤血球やリンパ球に仮に自意識があったとして、人体を巨大な生き物として認識しているとはとても思えない。それぞれが遺伝子の導きで自然と自分の活動を果たし、結果として人体全体の
「じゃあ、我々は?」
「ああ。赤血球というより、我々は“ガイア”に巣くうガン細胞だった。しかし、たとえガン細胞といえ、本体が死んでしまった後に自分たちだけ生き延びることはできん。いずれ滅びる運命にあるんだろうな」
「でも、そうすると我々人類は一体何の為に地球上に誕生したんでしょう?」
「何のために?」
「ええ、仮にですよ、地球全体が生命体にたとえられるように機能しているのなら、なぜ、我々がこんなふうに進化する事を黙って見過ごしたんでしょう。地球上で私たちが果たしてきた役割って何だったんでしょう? もし全体にとって害になるのなら、もっと早い時期に滅ぼしてしまう事だってできたはずなのに」
「……その辺はわしらにとっては永遠の謎だろうよ。浅はかな人類には、たとえ最後の日がやって来たとしても、“ガイア”の考えなんて理解できるかどうか……」
◇再び沈黙。風の音だけが響く。
「それより、君はどうしてわざわざこんな地球にやって来たのか、出来たら教えてくれないか?」
「ええ、私は火星の生まれですが、高校二年の夏にサンライズ5コロニーに旅行に来たんです。そこで地球を間近に見て、あの青さにすっかり魅せられてしまって。何だか、とてもあったかくて、それに懐かしく感じたんです」
「確か、火星生まれの君でもそう感じたのかね」
「ええ。不思議ですよね。それで、地上に降りてみたいと思ったんですが、そのときはもうだれも地上に降りることは出来ないと聞いたんです。でも、大学に入ってすぐに地球浄化プロジェクトの最後の求人があったんで」
「じゃあ、大学は?」
「退学しました。休学でもよかったんですが、何年かかるか判らなかったし、それに、最後まで……。出来れば地球、いや、“ガイア”の蘇った姿をこの目で直に見てみたかったんです。でも」
「そうか……」
◇風の音が強まってくる。二人とも、吹き付ける風に逆らうようにそのまましばらく動かなかった。
日はすでに暮れかけて、鮮やかな、恐らく地球誕生以来最も澄み切った美しい夕日が空を彩る。
「そろそろ、戻るか」
「あ、ええ」
◇二人、無言のまま夕日に背を向けて歩き出す。数歩歩いて老人がふと、立ち止まる。
「なあ、今、急に思い付いた事だがね」
「何ですか?」
「さっきの“ガイア”の話の続きなんだが、もしかしたら、地球が人の住めない不毛の惑星になったのは、実は最初から仕組まれた事だったと考えたらどうだろう?」
「は?」
「いや、これはまるっきりわしの妄想だが、地球の今の状態は、むしろガイアの意思にそぐうものなのかもしれない」
「すいません、ちょっと意味がわからないんですが」
「うん。人類はそろそろ親離れの時期を迎えたのかもしれない。だから母親である
「じゃあ……」
「そう。今さら私達がいくら女々しく取り入ろうとしても無駄だ。人類は母親を離れて自力で荒野に踏み出さなくてはいけない。今やその時期がきたんだ。大いなる母親の意志に我々が逆らうことはできんだろうなぁ」
「……でも、仮にそうだとして、“ガイア”は我々を追い出して一体何をやるつもりなんでしょう?」
「さあ、な。我が子の成長を楽しみに、しばらくはゆっくりと休養でもするんじゃないかね。そのうち体力も戻るだろうし」
「百万年の午睡ですか」
「いい表現だ。そう考えると、わしも少しは気が楽になるよ。でも、出来ることならなぁ……」
「はい?」
「……わしの生きている内に目覚めて欲しかったんだけどな」
「……」
「さあ、それより時間だ」
◇二人、その後は終始無言で歩み去って行く。
しばらく後、吹き抜ける風の音に交じって遠くからロケットモーターの鈍い響きが伝わってくる。
◇そして、辺りは闇に包まれる。
『ノアズアークプロジェクト』終末期の映像資料より再構成
(了)
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