第6夜 桜の散る丘
取材からの帰り道、借り出したコミューターが不意に不調を訴え始めた。
顔なじみのパイロットは落ち着いた操作で自己診断モニタを作動させ、不調の原因が外気導入フィルタにあることを確認して舌打ちをした。
おそらく、昨日遭遇した砂嵐の残渣がフィルタをふさいでいるのだろう。
パイロットはそう言うと、修理のために予定外の着陸が必要であることを私に告げた。
私はうなずいた。
コミューターの整備、操縦技術に関して彼の腕に不安はない。彼がそう言うのならそれはまさしく必要なのだ。
不時着の場所には困らなかった。
滑走距離の短いコミューターは、遺棄された四車線の直線道路に軽々と着陸し、ゆっくりと停止した。
かつて首都と呼ばれた場所。打ち捨てられた、大都会の廃虚が眼前に広がっていた。
パイロットは修理に要する時間をざっと二時間と計算した。その間、私には手伝える事は残念ながらない。私はパイロットに断ると、カーゴルームから愛用の電動オフロードバイクを降ろし、大都会の廃虚を探検しようとその場を離れた。
地球浄化プロジェクト『ノアズアーク』は、開始されてすでに十年が経過していた。
二十一世紀中までの人類の環境破壊に端を発した生態系の崩壊は、いまや加速度的にその範囲を拡大し、それ以上の拡大をどうにか食い止めようとする人類の必死の努力をあざ笑うかのように着実に進行していた。
宇宙植民が別に珍しいものではなくなった頃、国連はこれ以上の生態系崩壊を阻止するためには、思いきった手段が必要だとついに決断し、全人類の火星移民が実施された。それには大いなる痛みと様々な困難があったと聞いているが、私が生まれたころには、すでに地球に残されたのは浄化プロジェクトに参加した数百万人だけとなっていた。
だが、プロジェクトメンバーの必死の努力にもかかわらず、砂漠化は止めどなくなく進行していた。
すでに大陸のほとんどが砂漠に埋もれていた。
唯一砂漠化から免れているのは温帯地方に存在する大小の島々だったが、それらも海面の上昇によって次第に失われつつあった。そんな絶望的な現状を取材するため、私はプロジェクトの随伴記者としてここ数カ月、地球に滞在して各地のはかばしくない状態を目にし、そしてすっかり打ちのめされていた。
南の方角はすでに海面に覆われてほとんど足を向けることが出来なかった。
私は高架道路が崩れて波に洗われているのを目にすると、来た道を今度は北に向けて走り始めた。高層ビルの廃虚が蔽いかぶさるように道にのしかかり、昼間なのにあたりは薄暗かった。
私は舗装の亀裂や瓦礫の山をたびたび飛び越し、遺棄された高層ビル街に笛のようなモーター音を響かせながら無人の街路を走り続けた。
と、不意に視界がぱっと開けた。正面はT字路になっていた。眼前にはなだらかな丘がぽっかりと存在し、全体が一面の淡いピンク色に染まっていた。私はその美しくもシュールな光景に一瞬我を忘れた。
近づくにつれ、それは丘一面を蔽い尽くすように広がる花の色であることがわかった。
どうやら、丘一帯がかつては公園であったらしい。
私は丘の目前でバイクを停めると、より詳しく観察するために、デジタルカメラを手に丘を徒歩で登りはじめた。
木々は人間の背丈ほどの高さから大きく枝を広げ、枝一面に小さなピンクの花びらをまとっていた。風が吹くたびにハートの形にも似た小さな花びらがはらはらと舞い落ち、人ひとりいない園路をピンクに染めていた。
それはなにか破滅の匂いすら感じさせる、美しくも不吉な光景だった。
私は花の名前が知りたくなり、パイロットに無線で尋ねてみた。
パイロットは風景を描写する私の言葉を静かに聞いた後、それは「サクラ」であると答えてくれた。
「サクラ」はかつてこの都市の持ち主であった日本人の気質を代表する花であったと彼は静かに言葉を添えた。
私は礼を言い、無線を切った。
花は美しかった。私が崩れかけた園路を辿る間、花びらは始終ひっきりなしにはらはらと舞い落ちていた。香りはわずかで、しかも控えめなものだった。
火星で見る花はどれも大胆な色と強い香りで私を楽しませたが、この花はそれらとはまったく違っていた。
おとなしく控えめで、しかも破滅の匂いを漂わせた花。
私は知り合いの日本人数人を頭に描いてみた。
確かに、彼らに共通する物静かな態度と一種の無常観は、この花のイメージとどこか共通する所がある。
だが、彼らは、自分たちの苦労は結局無駄に終わるかも知れないと口では言いながら、私の目には他のメンバーよりはるかに真剣にプロジェクトに参加しているように見える。
目の前に茫漠と広がる砂漠を見つめながら、その向こうにある何かを見通そうとしているかのように。
砂漠はとめどなく広がっている。
オゾンホールは今や年間通じて巨大な規模で存在する。
二酸化炭素濃度はもはや暴走列車のように増え続け、海面はすでに五十メートル以上も上昇し、さらに上昇する気配を見せている。
このままではプロジェクトは失敗に終わるかも知れない。
近ごろではここにいる誰もがそう感じているとさえ思われる。
だが、それを実際に口にするメンバーは一人もいない。
皆が、地球の終末が近いことを肌でひしと感じながら、それでも必死の努力を続けている姿は、部外者の私には奇異に映って仕方なかった。
そんなことを考えながら歩いていた私は、ふと疲労を感じて立ち止まった。
砂利を踏み締める自分の足音が途絶え、あたりは静寂に包まれた。
その時、私は不思議な音を耳にした。
ぶーんという、震動音に近い音。
何百何千のプロペラが遠くで回っているようなかすかな、しかし重厚に重なり合った音。
その音の正体を探そうと私はあたりを見回し、その音の源に気づいて絶句した。
一面に広がる「サクラ」の花。
そして、その花びらに群れる数百万のミツバチ。
花に隠れて今まで気づかなかったが、小さなミツバチが散りゆく花から一心に蜜を集めて飛び回っていたのだ。
その時、私は探していた答に不意に巡り合ったような気がした。
散りゆく花びらを惜しむことはたやすい。だが、私はそのはかない事実だけに気を取られ、この、もの悲しい情景すら生態のワンステップであることを忘れていたのだ。
「サクラ」の花の散り際がいかに寂しく、むなしいものであろうとも、花に集まるミツバチがいる限り、生態系そのものが絶えてしまうわけではなかったのだ。
日本人達は、いや、このプロジェクトに参加しているメンバーはそのことを知っているのだろうか。
いや、はっきりと頭で理解しているのではないのかも知れない。
今回の試みが失敗に終わったとしても、数十年、いや、数百年の後、この努力の結晶がどこかで酬われることを彼らは願っているのだ。
私は再び歩き始めた。だが、疲れの割に足取りは軽かった。
私はここ数カ月で目にした絶望的な現実にただ打ちのめされていたにすぎない。だが、奇跡はそれを信じる者の前だけに現されるのだ。
不意に強い風が吹き抜け、視界一面が「サクラ」の花びらで埋め尽くされた。
その瞬間、私の心は地球に降りて初めて、しみじみと安らかな気持ちに満たされた。
(了)
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