第5夜 金木犀の咲く頃に
確か、秋もそろそろ半ばだったと思う。
昼間はまだ時々汗ばむほど暖かい設定の日もあったけど、すでに街路樹の葉はちらほらと黄色や赤に色づき始めていて、通りに面したブティックのショーウインドウは気の早い冬物で花盛りだった。
私はその日、大学近くのなじみの
最初に感じたのはかすかな香りだった。私はふと、足を止めて辺りを見回す。
なんとなく甘い不思議な香り。
(芳香剤? それとも途中ですれ違った誰かの香水かしら)
最初はそう思った。
でも、もっと自然で、穏やかに鼻をくすぐる不思議な香りだった。
私はきょろきょろと辺りを見回して香りの元をさがしたけど、近くにそれらしき人影はない。
通りにも、あたり前のユニット住宅が立ち並ぶ以外には何も発見できなかった。
私はその場にしばらくたたずみ、あの香りがもう一度漂って来る事を期待したが、無駄だった。
数分後、私はちいさく首を振ると、再び駅へと足を向けた。
私がサンライズ5にやって来たのは今年の四月のことだ。
しょせんは高望みだったと半ばあきらめていたサンライズ技術工科大から思いがけない合格通知が舞い込み、意気揚々とシャトルに乗り込んでから、まだほんの半年しか過ぎていない。
それまでは地球を一歩も離れたことはなく、たまに旅行でコロニーを訪れた友達の話を聞いてはいつもうらやましく思っていた。
「コロニーから見る地球の姿は涙が出るほどきれいだった」
友達が遠い目でまるで夢でも見るように話すのを聞かされては、私もいつか行ってみたいものだと思っていた。
でも、まさか自分がそこに住む事になるとは、そのころは思いもしなかった。
コロニーへの入植には今だに開発当初と変わらない厳しい審査が行われている。何の特殊技能もなく、訓練も受けていないド素人の一般人が思いつきで住んでみる訳にはいかないのだ。
だから、学生の特権で審査なしに居住が認められるのは本当にラッキー以外の何ものでもない。
私は与えられたチャンスを、この際、精一杯に生かす事にした。
クラスメートのほとんどが住む大学近くの文教地区ではなく、始終入港した船の乗組員がうろつく宇宙港の近くに部屋を借りたのだ。
確かに、女の子が一人で暮らすには治安が少々不安だ。それでも短い学生生活を同じ大学の友人ばかりに囲まれて暮らすのはもったいと思ったのだ。
こんな時でなければ会えない人に会えるかもしれないし、宙航士志望の私には、その手の刺激は多ければ多い方がいい。
それに、決め手だったのはお気に入りの展望台に歩いて行ける距離だったこと。
ああ、ところで、あなたがもし展望台を訪ねるつもりなら時間は慎重に選んだ方がいい。
昼間の展望台はただ騒がしいばかりの観光客に占領されている。逆に夜はカップルで足の踏み場もなくなる。
でも、夜明け直前の展望台はいい。ほとんどいつも誰もいない。たったひとりで気がすむまで地球の姿を眺めていられる。
友達の自慢話を聞いていつも想像していたとおり、いや、それ以上に感動的な眺めだ。
じっと地球を眺めていると、それがいかに優しく私達を包んでくれていて、そしてどれほどはかない存在なのか心の底から感じる事が出来る。
いつも、気がつかないうちに涙ぐんでしまう……
……話が逸れてしまった。
不思議な香りの話だったね。
その後も、その通りを通る度に立ち止まってみたのだけど、二度とその香りを感じる事はなかった。
秋は足早に通り過ぎてしまい、目前に迫った試験や大量の課題に追われるうちに、私はそのことを忘れてしまっていた。
そしていつの間にか一年が過ぎた。
翌年の秋、私は失恋の痛手を抱えていた。
彼が不意に地球に帰ってしまったのだ。
神経質過ぎてコロニーの人工環境にどうしてもなじめない人達がいるということは知っていた。
けれど、私は、彼がそれほど壊れやすい心を持っているなんて思わなかった。
私と一緒にいる時、彼はいつも笑っていた。自信満々で夢に溢れていた。
でも、彼のことなら何でも知っているつもりの私には、それが私のための彼の精一杯の演技だった事には気付きもしなかった。
その日、彼が最終のシャトルで去った後、私は孤独な夜を展望台で地球をただぼんやりと眺めて過ごした。
許せなかったのだ。
彼が、ではない。
彼をそこまでギリギリの精神状態に追い込んでおきながら、そのことに最後まで気づかなかった自分の鈍感さが、だ。
不思議なことに、涙は一滴も出なかった。
気がつくと、私はなじみの大学通りをぼんやりと歩いていた。
早朝の大学通りはうっすらと朝靄にかすみ、静まり返った通りに、私の足音だけがこだましていた。
そんな中、私は思いがけなくあの香りに再会した。
今度こそ間違いない。
香りは昨年よりはるかにはっきりとしていた。
ほどなく、私は香りの大元が数ブロック先の一軒のユニット住宅の庭であることを発見した。
人の身長よりわずかに高い塀に囲まれた、ごくごく一般的な住宅。
私は人影のないのを幸い、塀によじのぼって中をのぞき込み、そして絶句した。
庭の中は一面、やわらかなパステルオレンジの花に埋めつくされていたのだ。
私は驚いて声も出なかった。
個人で、厳しい植物検疫を受けてまでわざわざ植物を持ち込む人がいたなんて。
それにこの量。
一本や二本ではない。何十本。いや、多分百本はかるく超えていただろう。
人の背丈をわずかに越える高さにきちんと剪定された大量の庭木には、表面を覆いつくすように淡いオレンジ色の小さな花がびっしりと咲き誇っている。
それはまるで、あたり一面にパステルオレンジの霞が漂っているようにさえ見えた。
私はしばらくの間、その現実離れした景色にすっかり心を奪われていた。
多分、ぽかんと口を開けていたと思う。
不意に背後から声をかけられた私は、塀からずり落ちんばかりに驚いた。
「そんなところにいらっしゃらないで、良かったらお入り下さいな」
慌てて振り向くと、銀髪の小柄なおばあさんがそこに立っていた。人の良さそうな微笑を浮かべた感じのいい人だった。
「ああああ、あの、つい、いい香りがしたもんで」
私は真っ赤になってしどろもどろに答えたが、彼女は表情を一層やわらげた。
「この庭を気にいっていただけました?」
「はい! あ、あの、あなたのお庭なんですか?」
汗がどっと吹き出し、安心と恥ずかしさで思わず座り込みそうになりながら私はかろうじて尋ねた。
「そうですよ。どうぞ、こちらへいらっしゃい。そんなふうに女の子が塀に張り付いているのはあんまり格好よくはありませんからね」
その一言に私は塀から滑り落ち、恥じ入りながら無言で彼女の後に従った。
言っとくけど私だって普段は人の家をこんなふうに覗いたりなんかしない。
あの不思議な香りがつい私を引き付けたのだ。
言い訳に聞こえる?
まあ、いい。
私は彼女に付いて小さな門を潜り抜け、庭に入った。
「今、紅茶でも入れてあげるからそこに座っててね」
「はあ」
私は示された縁台に腰を下ろし、何気なく辺りを見回した。
壮観だった。
良く見ると、オレンジ一色に見えた花の色にも微妙な違いがある。
ほとんど原色のオレンジに近いのものから、真っ白なものまで、結構幅広いバリエーションがある。
「驚いたでしょう」
振り向くと、おばあさんが二組の白磁のカップを乗せたトレーを持って立っていた。
私は無言でこくりとうなずいた。
彼女はにっこりしながら私の隣に腰を下ろし、私に紅茶を勧めると自らも優雅に一口すすった。
「あの、これ、何て花なんですか? 私、初めて見たんです」
「
彼女は静かに目を細めた。
「でも、まあ、こんなにたくさんあるのは珍しいかも知れないわね」
「どうしてこんなに?」
「聞きたいかしら?」
「あ、別に無理に聞きたい訳じゃ……」
彼女は私の顔を優しい目つきでしげしげと見つめると、クスリと笑った。
「あなた、もしかして失恋でもしたのかしら?」
図星。私の表情は無意識に引きつった。
「やっぱりね。あなたの瞳はとても寂しげだもの。まるであの時の私みたいに……」
彼女はそう言うと、ひとつ大きなため息をつき、その後、遠い目をしながら話してくれた。
彼女がまだ若い頃の、辛い別れの物語を。
彼女には婚約者がいた。
彼はサンライズ計画そのものがまだ生まれたばかりの頃、
そして、ある日突然、軌道上への長期出張を命じられた。国際宇宙ステーションからサンライズ1コロニーへの転換技術者として派遣されたのだ。
しかし、作業中に予期せぬ事故が起きた。溶接部分にほんのわずかに含まれていた不純物が、彼の使ったレーザートーチの熱で一気に気化し、そして破裂した。飛び散った破片は彼の与圧服をまるでアルミホイルでも破くように一瞬で、しかも完全に切り裂いた。
一緒に作業していた同僚が気付いた時には、彼はもはや息絶えていた。
フロンティアではありがちの、悲惨な事故だった。
地球で彼の帰りを待つ彼女にその知らせが届いた時、彼女に残されていたのは、最後に一緒に歩いた公園で、咲き乱れる金木犀の小枝を花ごと手折って作ってくれた不器用な髪飾りと、すでに彼女に宿っていた彼の子供だけだった。
「“来年、また金木犀の花が咲くころには戻るから。そうしたら今度はちゃんとした結婚指輪をプレゼントするよ。子連れの結婚式になっちゃうけど、まあ、それもいいさ”と、それが彼の最後の笑顔だったわね」
彼女は遠くを見る目つきで寂しげに微笑んだ。
「それからはもう必死。生まれてきた彼の子供をどうにか一人前にすることだけを考えて、どうにかひと息ついた頃にはもうこんなおばあさんになってましたよ」
彼女はそこまで話すと再び大きくため息をついて冷えた紅茶をすすった。
私は何も言えなかった。
彼女の背負った心の傷に比べたら、私の失恋なんてちょっとしたひっかき傷のようなものだ。私は何だか自分が恥ずかしくなった。
「でもね、この歳になってもどこかで彼が生きているんじゃないかと思う事があるんですよ。宇宙空間に季節はありませんから、花は咲かないでしょ。だからわざわざコロニーまで苗木を持ち込んで、ここで毎年咲かせてるんですよ」
「はあ」
「環境のせいか香りはずいぶん弱くなってしまいましたけど、花は不思議なほど見事にたくさん咲いてくれるわ」
「でも、世話とか大変じゃあないんですか?」
「いいえ、そうでもないわ」
彼女は微笑むように目を細めた。
「それにね、あの寒い空間で漂っている彼の魂も、いつかこれを見つけて帰って来てくれるんじゃないかって、いや、もしかしたらいまごろはもうここに辿り着いているんじゃないかって、そう思うだけで心が休まるんですよ」
そう言って静かに話を締めくくった彼女の表情に、かげりはもはやなかった。
それからの私は、足繁くおばあさんの家を訪ねるようになった。
彼女は私にとって素晴らしい人生の先生だったし、独り暮らしだった彼女は私と話しができるのを楽しみにいつも喜んで迎えてくれた。
かわいい白磁のカップで紅茶を飲みながら、大学での出来事からつまんない愚痴まで、彼女にならどんな事でも話せた。
彼女もまた、遠慮しない語り口で時に優しく、時に厳しく私にアドバイスしてくれた。
私の心の中では、いつしか金木犀の優しい香りが、彼女自身のイメージとダブっていた。
一年が過ぎ、再び金木犀の季節が巡って来る頃、彼女は、
『体調がすぐれないのでちょっと病院に行ってきます。また来週おいでなさい』
と、短いメッセージを残して姿を消し、そして、二度と戻って来なかった。
急性の心臓疾患だったと葬儀の日に聞いた。
その時も、なぜか不思議に涙は出なかった。
ただ、胸の真ん中にぽっかりと空いた穴に、つめたい風が吹き込んでくるような、そんな気がしただけだった。
私は翌週から始まった宙航士の専門課程にのめり込んで事実を受け入れまいとした。
大量の公式と法規で頭を一杯にする一方、指導教官もあきれるほどの猛烈な設定値で昼夜を問わず耐G訓練にはげんだ。
頭と体を徹底的に酷使して、物思いにふける余裕をすっかり無くしてしまいたかったのだ。
しかし、どうにかショックから立ち直ったと思えはじめていたある日の夜更け、彼女の小さな白い家と金木犀の庭は突然姿を消し、代わりにビル建設用の武骨な高い防護柵が黒々と威圧的にその場を取り巻いていた。
深夜まで続いた厳しい訓練の帰りにそれを目にした瞬間、私の心の中で何かが弾けた。
私はまっすぐに展望台に走った。
平日の、しかも深夜の展望台に人影はなかった。
私はそこでコロニーに来て初めて涙を流した。子供のように全身で泣きじゃくった。
これまで必死に耐えて来た反動か、涙はいくらでも湧き出してきた。
いつの間にか、何が悲しくて泣いているのか解らなくなり、それが悲しくてまた泣いた。
そうして二時間近くも泣き続けた後、ようやくよろよろと立ち上がり、それでもまだしゃくり上げている私の前に不意に清潔なタオルが差し出された。
「どうぞ」
背の高い男性がそばに立っていた。
宙航士仲間が好む機能的な服装に落ち着いた低い声。
暗いので顔までは解らないが、いつからここに居たんだろう。ずっと見られていたんだろうか?
私は恥ずかしさから思わず差し出されたタオルをひったくるように受け取ると、顔を覆い隠した。
きっとひどい顔をしているに違いない。
まるでしびれたようにぼんやりした頭の片隅でそう思いながら、ごしごしと顔をこする。
その途端、なぜだか妙に穏やかな懐かしい気持ちに包まれた。
理由はすぐには解らなかった。
なんとか落ち着きを取り戻してあたりを見回した時には、タオルを差し出してくれた男の人の姿は展望台のどこにもなかった。
その時になって、私はようやく懐かしさの正体に気がついた。
手渡された清潔なタオルからは、なぜかあの庭と同じ優しい金木犀の香りがした。
その後、しばらく夜明け前の展望台に通ったが、あの不思議な男性に巡り合う事は出来なかった。
翌年の夏も終わる頃、私は半年にも及んだ木星への訓練航海を終えて久しぶりにサンライズコロニーに戻って来た。
後は無事に卒論を仕上げさえすれば、憧れの一級宙航士の資格が手に入る。
就職先は既に決まっていた。
宙航士は宇宙資源開発機構に一括して雇われ、さまざまなプロジェクトに配属される。と言うより、大学そのものが開発機構の経営する養成施設だから、きちんと卒業しさえすれば間違いなく就職はできるのだ。
そんな訳で、私は遅い夏休みを久しぶりの街でのんびりと過ごしていた。
友人の大半は地球の故郷へ帰省していたが、私はここに留まっていた。
スポーツクラブで汗を流し、近くの外国籍コロニーへちょっとした観光に出かけ、もちろん残ったほとんどの時間は論文を書く事に費やしていた。
そんなある日、大学へ論文用の実験データを借りに行く途中、私は街角で懐かしい香りをかすかに感じてふと、立ち止まった。
奇妙な話だ。
金木犀の庭はとうの昔に8階建ての機能的かつ無機的なマンションに変わり果て、あの頃の面影はもうどこにもないというのに。
一緒に歩いていた友人がけげんそうな表情で私の顔をのぞき込んでいる。私は大きく首を振ると、何でもないと笑顔を作って再び歩き出した。
多分、今でも心のどこかであの頃を懐かしく思っていて、そのせいでありもしない香りを嗅いだ気になったのだろう。その時はそう思った。
少し胸が痛んだ。
でも、その後大学で友人と別れ、夜遅くまで研究室で実験の手伝いをさせられた私は、深夜の大学通りでまたもやあの香りに気付いた。
そして翌日も、またその次の日も。
金木犀の香りは日を追ってだんだん強くなっていく。
香りの元はどこにも存在しないのに、かすかだった香りはいつしか芳香といってもいいほどにはっきりしたものになっていた。
その頃になると何も知らない友人達もその香りに気付くようになっていた。
学食で友人に、大学通りの不思議な香りについて聞かされながら、私は心霊現象の可能性を真剣に考えていた。
あのおばあさんの霊が……とか、あの世でやっとめぐり合えた彼とおばあさんの霊が……とか。
笑ってくれてもいいけど、あの時私はそうとでも考えないと理解が出来なかったのだ。
だが、その怪奇現象の謎は、数日もしないうちに思いがけない形で解明された。
その日もまた、帰りは遅くなった。
例の香りはまだ続いていた。
もう、すっかり心霊現象だと信じ込んでいた私は、あの場所を下を向いたまま小走りで駆け抜けようとして、ちょうどマンションから出てきたスーツ姿の男の人に顔面からモロにぶつかってしまった。
「あ、ごめんなさいっ。すいません!」
そう言いながら私は、相手のワイシャツに口紅がついていない事を確認して、彼の顔を恐る恐る見上げた。
ところが、彼は私の顔を驚いた様な顔で見つめたまま、まるで凍り付いたみたいに身じろぎもしない。
思ってもみない相手の反応にこっちが逆に不安になった頃、ようやく彼の顔に理解の色が広がった。
「ああ、あなた、あの時の泣き虫さんですね?」
「はあ?」
「ほら、去年の今頃、港の展望台で泣いてた事があったでしょう」
「あああっ!」
私の顔は一気に耳まで真っ赤になった。
「良かった。もうすっかり元気になりましたね」
「あの……どうもすいませんでした」
うつむいて、どうにかそう返事しながら、私はあの時の謎をしっかり思い出していた。そう、彼の渡してくれたタオルになぜ金木犀の香りがしたのか?
「ところで!」
「はい?」
急に態度を変えた私に、戸惑いながらも彼は答えた。
「あの時貸していただいたタオルの香りなんですけど……」
「あれ、すいません。汗臭かったですか? 使ってないつもりだったんだけどな」
彼は苦笑いしながら頭をかく。
「そうじゃないんです。あの香り、金木犀ですよね!」
「へえ、良く御存じですね、それが何か?」
「なぜ、あなたのタオルにあの香りが……?」
「ああ、それなら簡単。ちょうどあの日は祖母の庭木をサンライズ3の農場に預かってもらうんで、その積み込みに立ち会った帰りだったんですよ」
「じゃあ……」
後は言葉にならなかった。私の目にじわっと涙がにじんだ。一方、また泣き出すとでも思ったのか、彼は慌てて声をかけて来た。
「わあ、どうしたんですか。あの香りに何か悲しい思い出でもあるんですか?」
そう言って慌てて取り出したハンカチを貸してくれる。これも金木犀の香り。
「洗濯して屋上に干しとくとですね、どうしてもこの匂いがついちゃうんですよ。ほら、あれって匂いが結構きついでしょう」
「それじゃあ、今も……」
「ええ、このマンションの屋上にすっかり移しましたよ。あの木は今では地球でもめったに見られない珍しい変種でしてね、簡単に切ってしまうわけには行かなかったんですよ。それに、ほら、結構見事ですし……」
私の目から思わず涙が落ちた。彼はそれを優しく拭ってくれながらながら言葉を続ける。
「あなたは会う度にいつも泣いてるんですね。何がそんなに悲しいんですか?」
彼の言葉に私は思わず泣き笑いの顔になってしまう。
「違います。今日は……嬉しいんです」
後は大してつけ加える事はない。
翌日、彼は私を部屋に招待すると、おばあさんの庭を見せてくれた。
ライトアップされて暗やみに淡く光るパステルオレンジは、おばあさんが生きていた時と同じぐらい、いや、それ以上に幻想的で奇麗だった。
そして、窓の広い部屋で紅茶をごちそうになりながら、私は彼女の話してくれた『おばあさんの彼』の話を彼にも聞かせてあげた。
驚いた事に彼はその話を知らなかった。
それがきっかけで彼とはつき合い始め、その翌年私たちは婚約した。
プロポーズの返事を聞いた後、彼は照れながらもおじいさんの真似をして金木犀の小枝で髪飾りを作ってくれた。
うまい出来とはお世辞にも言えなかったけど。でも、私は大切に持ち帰ると、小さな花がしおれてしまわないようにすぐに樹脂コートしてもらった。
その時私は、冷たい宇宙からようやく帰還した『彼』と、彼と再会を果たしたおばあさんの魂を、そしてまた孫である私の彼の想いをも、その髪飾りの中に確かに感じたと思ったから。
もちろん、それは私の一番の宝物になった。
そして今回の航海が終わりしだい、ウエディングドレスを飾る予定になっている。
そう、秋も半ば、金木犀の咲く頃に。
(了)
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