第4夜 ターミナルストーン

『火星開拓の現状と展望・現地レポートその三』


 私は出版社の名前入りの黄色いマルチパックにそう大書すると、コアディスクをケースごと入れてターミナルの網膜認証機能で封印する。

 さらにエス・メール社の放射線保護ボックスに放り込み、念の為宛名をもう一度確認してからボックスのフタについたボタンを強く押し込む。

 内臓のボンベが破れて窒素ガスがボックス内に充填され、インジケータが青色に変化すると同時に、速硬性の接着剤がボックスを完全密閉する。


 これでいいはずだ。

 私はでき上がったメールパックを持って部屋を出ると、フロントのサービスカウンターに荷物を持ち込んだ。

「サンライズ5宛て、特急便、先方払いでよろしゅうございますね」

 若い顔なじみのフロントマンがにこやかにほほえみながらそう確認すると、控えを私のターミナルに返しながら続ける。

「先方到着は来月の頭ですね。詳しい到着日時はエス・メール社のサイトでご確認いただけます。それでは確かにお預かりしました」

 私はフロントマンのピカピカのほほえみに負けない様にニカっとほほえみ返すと、面食らっている彼を後に残し、解放感にどっぷりと浸りながらロングステイホテルを出た。

 私は今、一か月近いルポの取材を終えて、どうにか無事に最後の原稿を送り出したところだ。

 今どきネット入稿に加えて生の原稿メディアまで欲しがる会社も珍しいし、毎度のことながらこの儀式は正直言って面倒臭い。

 当然記事としてメディアに載るのは先ほど送り出した荷物の方ではなく、メールに添付した電子データだ。何の役に立つんだろうと思うことはある。

 だが、成りすましやネットサーフだけでネタをでっち上げるエア取材が業界全般に横行する昨今、かたくなに百パーセント現地取材を売りにしている硬派ニュースメディアであればこその証拠保全措置ということだろうか?

 まあいい。

 ともあれ、これで仕事は終わり。明日からの残りの火星滞在は休暇という事になる。

 去年の春に十年ぶりのカゼで三日休んだ後、その後はほとんど休みなしで働いたから、よく考えてみたらなんと一年半ぶりの休暇ということになる。

 フリーライターなんて職業なのだから時間なんか自由に使えそうなものだ、そうあなたは思うかも知れない。

 だが、それは一部の超売れっ子ライターに限られる。

 トラベルライターから身を起こした私みたいなマイナーは、身を粉にしてあくせく働かなくては人並みのまともな生活なんて出来ないのだ。

 でも、まあ、おかげさまで今回の仕事はかなりいい出来だったと自分でも思う。

 原稿料もかなり良かったし、今回の依頼元は結構アクセスの多いメディアだ。うまく行けばこの仕事が私にとってのジャンピングボードになるかも知れない。

 そう考えると自然に顔がゆるんできた。

「よし、今日はうまいものを食べるぞー、オー!」

 ここの所連日ホテルに缶詰状態で、カップ麺だけが唯一のお友達だった私は、そう決心すると火星でも一、二の大都会、アズプールに意気揚々と繰り出した。

 だが、同日深夜、満腹のほろ酔い加減で部屋に帰った私を待っていたのは、ある旅行雑誌の出版社からの大至急の原稿依頼だった。

 ここは売れない時代から何かと面倒を見てくれた所で、断るわけにもいかない。

 そんな訳で、私の華麗な休日はたったの五時間で終わりを告げた。そう、五時間!


◆◆


 三日後、同時刻、私は火星に程近い小惑星帯の片隅で、なす術もなく漂っていた。

 私を乗せた小型の宇宙艇が何の前ぶれもなく突然その動きを止めてから、かれこれ三時間が経過していた。

 私は観光用宇宙艇を貸し出した大手レンタシップメーカーの整備士(もちろん、会った事もないし、今となっては顔も見たくない)に向かって思いつく限りの呪いの言葉を唱えながら、沈黙した宇宙艇の動力をなんとか回復させようとむなしい努力を続けていた。

 しかし、状況は明らかに最悪だった。

 よりによってメインの電源系統が問題を抱えているらしく、エンジンも無線機もぴくりとも動かなかった。

 非常灯の赤い光が船内をぼんやりと照らし、非常用バッテリーが室内の生命維持装置を弱々しくも何とか持ちこたえさせてはいる。

 だが、こんな時の為に積み込まれているはずの緊急用小型通信機は船内のどこを捜しても見つからない。

 いや、コンソールの下の棚に固定ベルトがぶらんとたれ下がっている所を見ると、最初はきちんと備え付けてあった物を、どっかの馬鹿が持ち出してしまったのだろう。そこだけ四角く埃が積もっていない。

 そうこうするうちに、非常灯がせわしなく点滅し始めた。

 非常用バッテリーの残量も残りわずかなのだ。


 私は、腹たちまぎれに白目を剥いているコンソールパネルを思いっきり蹴飛ばすと、痛む足をさすりながら宇宙服を着こみにエアロックへ向かった。

 いつ整備したのかもわからないかび臭い宇宙服を着こみ、ヘルメットはかぶらずに後ろへ跳ね上げておく。標準型の宇宙服は小柄な私にとって少しばかり大き過ぎ、グローブの先まで指が届かない。ブーツも同様にブカブカだったが、足首のバックルを目一杯絞り上げれば何とか歩けた。

 そこまで準備をすませると、コクピットに取って返す。

 非常灯の点滅はいよいよせわしないものになり、何分もしないうちに気の抜けたアラーム音と共についには消えたままになった。

 これで、コクピットにこうしてなすすべもなく座り込んでいる私以外の、すべての機能が完全に死んでしまった。

 そして、救助が来ない限り、いずれは私も同じ運命をたどるのだ。

 ついでに言わせてもらうならば、救難信号なんてものも全く発信できなかったのだから、救助なんて来る訳もない。

 私は、明かりの消えた船内に負けないくらい暗ぁーい気分になった。

 観測窓からのぞく星の光が、一瞬じんわりとぼやけた。



 そもそも何でこんな事になったのか。すべての元凶はあの原稿依頼なのだ。

『至急!!火星の若者に流行中の小惑星ツアー体験取材されたし。いつもの要領で軽いタッチに仕上げて欲しいとの事。容量60ギガバイト以内。〝惑星旅行〟掲載予定/Kumi』

というやつだ。

 この、Kumiっていうのは、久美子。

 彼女は私と長年組んでいるエージェントで、いつも飛び回って居所のはっきりしない私に代わって出版社とのやり取りをしてくれる。

 十年以上のつき合いで気心が知れているのは便利だが、今回の様な時は腹立たしくなる。

 特に、久美子はタイミングを図るのがうまく、私が原稿をあげるタイミングをまるで計った様に次の仕事を回してくる。

 こっちが予定より早く終わっても、逆に長引いても、そのタイミングは二時間と狂うことはない。

 どっかでこっそり見てるんじゃなかろうか。いや、間違いなく盗聴器程度は仕掛けられていると半ば確信しているが、ともかくそのおかげで私は一年半もがっちり休みなしだ。

 趣味は相当にいい。

 それは保証できる。

 仕事は選ぶ主義の私が気にいらない仕事を回して来た事はただの一度もない。向こうもそれなりに苦労してると思う。

 確かに有能ではあるのだ。

 だが、その名(迷!)コンビも、間もなく解消という事になりそうだ。

 私が今漂っているここ小惑星帯は、火星軌道と木星軌道の中間に広がる、無数の小惑星や岩くずがドーナツ状に集まっているエリアだ。

 とはいっても、見渡す限りそこら中にゴロゴロ岩の塊が転がっているイメージをあなたがお持ちなら、それは間違い。

 そうだなあ、太平洋に浮かぶ「ナントカ諸島」というイメージが近いだろうか。

 確かに小惑星が沢山集まっているが、普通宇宙船がぶつかったり、わざわざ避けたりするほどのものでもない。

 火星軌道に近いこの辺りだとさらに密度は薄く、初心者でも十分安全に小惑星巡りができる。

 だが、小惑星帯の星々、数だけはとにかく多い。

 恐らく数百万、いや、大型宇宙船クラスのもう少し小ぶりなものも入れれば数千万個はあると聞く。21世紀ももう半ばというのに未だそのすべてが登録されてはいないらしい。

 当然、そこにまぎれ込んだ小船などは、サハラ砂漠に落とした一粒の砂金みたいなものだ。

 加えて、今回みたいに何のビーコンも出していない場合、その見つけにくさといったら私がいい男を引っかけるのに比べても、なお五百万倍は困難じゃなかろうかと思う。

 もちろん、この船を借りるときにちゃんとフライトプランは出してある。

 ただ、申請したレンタル期間は四日間だから、レンタシップ会社も火星管制センターも、あと三日は騒ぎ出しはしないだろう。

 そしてその頃には、予定航路のはるか彼方まで漂流している事は百パーセント間違いない。

 発見されるまでに私が三途の川を渡らないでいられる自信は、はっきり言ってない。

『スリルと冒険溢れる小惑星ツアー』

 ベタベタのくさいコピーがこのツアーのアオリ文句だったが、さすがにこれほどのスリルと冒険はちょいと遠慮したかった。


◆◆


 目覚ましが鳴っている。私は寝ぼけた頭でフカフカのベッドに沈み込んだまま、ルームメイトの久美子が止めに来るのをぼんやり待っていた。

 しかし、いつまで待ってもベルは鳴り止まない。

 仕方ないなあ。

 私は小さく不平の唸り声を上げると、目覚ましに手を伸ばそうとして、ふと、不思議に思う。あれ?

 次の瞬間、私は飛び起きていた。

 てっきり目覚ましだと思っていたのは酸素残量のアラームだったのだ。焦点の定まらない目をこらしながらリストウォッチを覗き込むと、うっかり眠り込んでからすでに十二時間が過ぎていた。慌ててそばに漂っていたスペアボンベをひっつかむと、素早くバックパックに装着する。

 アラームがやみ、新鮮な酸素が顔に吹きつけられるとどうにか意識がはっきりしてきた。

 危なく酸欠で逝ってしまう所だった。

 心臓が早鐘の様に打っている。

 あ、あぶない。いまさらながら冷や汗も吹き出して来た。

 どうにか立ち上がれるまでに体調とメンタルが回復すると、私は観測窓に漂って行く。

 マルチディスプレイがただの透明なメタクリルの板になり果ててしまった今、外の様子を知るには自分の目に頼るしかなかった。

 しかし、残念ながら外の景色はあんまり喜ばしい代物でもない。

 船が小型の小惑星に近づき過ぎている。

 近接センサーもオートスラスターも働かない以上仕方ない話だが、このまま近づけば小惑星の持つ微小な重力に引かれてやがて墜落するだろう。

 私は、せめて墜落の衝撃が船と私をばらばらにしない程度である事を願った。


 見ているうちにも小惑星はどんどん近づいて来た。

 そら豆みたいに真ん中がくびれた楕円形で、直径は二キロもないだろう。他に大した特徴はない。ごくごくありふれたものだ。

 小惑星が観測窓一杯に収まりきれないほど近づいた所で、わずかに接近のスピードが早まった。

 どうやら小惑星の引力圏に入ったらしい。

 私は慌てて(実際はじたばたと)シートに泳ぎ着くと、六点式のうっとうしいシートベルトを自己最高のスピードで装着した。が、それが済むか済まないかのうちに船は小惑星に〝着地〟した。

 かなりのスピードで船首からまともに突っ込み、地表に斜めに突き刺さった後、ドッスンといった感じで船尾が着底した。

 そのままつんのめって逆さまにならなかったのがまあ、幸運と言えば言える。

 だがお世辞抜きに、私がこれまで体験した最悪の着地だった。胃袋が口から飛び出すかと思った。

 私はむち打ち気味で痛む首をゆっくりと回し、ついでにコクピットの様子をざっと眺めてため息をつく。

 固定されてなかったすべての物がそこいら中にぐちゃぐちゃに散乱し、サンライズコロニーにある私の部屋と比べても負けないくらい無残な有様だった。

 しかし、後方に作りつけのロッカーの扉までが吹っ飛び、中の非常食が散らばっているのが目に入った時、どうにか体内に留まった胃袋がグーッっと派手に空腹を訴えた。

 無論、私にも異論はない。物怖じしない胃袋バンザイだ。

 考えてみれば、昨夜、アズプールで名物の七面鳥料理とやらを食べてから、まる一日近く何も食べていないことになる。今なら何を食ってもうまいと感じるはずだ。

 立ち上がろうとシートベルトのリリースボタンを押すが、止め金が噛み込んでしまったらしく動かない。しばらく格闘してあきらめ、ポーチからアーミーナイフを取り出してベルトをざくざくと大胆に切る。どうせ二度と使うことはないだろう。

 私はシートベルトの残骸を放り出し、今のところ最大の欲求に従って立ち上がる。

 しかし、お粗末な船の装備に比べて、食事はけっこう良かった。非常食だからせいぜい練り歯磨き程度の味気ない代物だと思っていたが、スープあり、ビーフステーキあり、マッシュポテトあり、ライスありの食後のコーヒーまで揃っていた。それが全部チューブ入りのゼリー状(!)だということを除けば、味、風味共に一級品だ。

 かつて私が乗ったあらゆる宇宙船の中でも、今回の船は食についてだけは満点をつけてもいい。

 それ以外は論外の酷さだが、おそらく、この変わった食事も冒険ツアーのお楽しみの一部なのだろうと思う。

 ただし、演出なし、正真正銘本物の非常事態で、ヘルメットをかぶったままでこれを口にしたのはこのツアー開始以来、私がおそらく初めてのはずだ。多分。

 空腹が満たされてどうにか一息ついた私は、ヘルメットのコネクターからコーヒーのチューブを慎重にはずしながら、今後の見通しを検討してみた。

 食料は定員の二名が五日は持ちこたえられる量がある。一人ならば節約して二週間は持つだろう。

 一方、酸素は十時間用ボンベがあと九本。おとなしくしていれば五日ぐらいは持つかも知れない。

 三日後、帰らない私に気付いたレンタシップ会社が捜索願いを出す。それに応えてすぐさま宇宙資源開発機構が捜索隊を出すとして、それでも二日しか待つ事はできない。

 厳しすぎる。

 たった二日で何ができるというのだ。

 私は立ち上がった。今のうちにもう一度太陽を見ておきたくなったから。

 それに、どうせ助からないのなら、うす暗い船内に座り込んでほんの一日長生きするより、星の光の下でより長い時間を過ごしたかった。

 いずれ自分の墓になる星だ。この際、隅から隅まで知っておくのも悪くないだろう。



 しかし、エアロックはこの麗しき借り主の意志に反し、頑として動かなかった。

 仕方なく私は扉の脇にある赤枠で囲ったアクリル板を気合と共にたたき割る。カバーはパコンという気のぬけた音と共に弾け飛び、中からこれまた真っ赤に塗装された無骨なレバーが顔をのぞかせる。

 そこで私はまず壁の説明書をじっくり読み、次いで壁に足をかけ、全身の力を込めてレバーを引く。

 くそ重いレバーを六十度ばかり手前に引いたところで不意に衝撃が感じられ、扉が外に吹き飛ばされた。

 爆破ボルトが働いたらしい。重力がごく弱いせいか、扉はえらく遠くまで吹っ飛んだ。


 壁にあいた穴からは、ほこりをまきあげながら扉がふんわりと着地するのが見える。同時に、床に収納されていた伸縮はしごがゆっくりと船外に垂れ下がる。

 それを見届けた私は、反対側の棚から低重力ソールを引っ張り出してブーツの裏に取りつける事にした。地球でこんなゴツイものをつけたら、か弱い私など一歩も歩けやしないだろう。なんせ片方だけで私の体重ほどの質量があるのだ。でも、これがないと、1Gに慣れた筋肉では一歩あるくたびにこの星の引力圏を永久に振りきってしまいかねない。

 今でさえ状況は最悪なのだ。この上宇宙の迷子から宇宙のチリに格下げされるのは絶対にごめんこうむりたい。

 というわけで、準備ができた所で私は慎重にはしごを下り、下り切った所で数歩下がって船を眺めた。

 エアロックが素直に開かないのもなるほど仕方ない。

 船体は衝突のショックで見事にエビぞっていた。

 船底には亀裂が走り、エンジンが半ばむき出しになっている。

 亀裂からはみ出した燃料タンクは、ちぎれかかった配管でかろうじてぶら下がっている。

 蹴っ飛ばしてみるとえらく軽い足ごたえ。中の燃料はどこかの裂け目からとうに蒸発してしまったらしい。

 結局、役に立ちそうな物を見つける事はできなかった。

 私は振り返り、当初の予定を果たすためにゆっくりと歩き出した。

 重いソールのおかげで、歩くたびに何メートルも飛び上がるのを防ぐ事ができた。

 細かいほこりに覆われた地面にくっきりと足跡を残しながら、ゆっくりと進む。

 せいぜい二時間もあればこの小さな星を一周する事ができるだろう。

 でも、一回りした後は一体どうする?

 一瞬、その疑問が頭に湧いて、あわててその考えを振り払った。

 とりあえず、先の事は考えない様にしよう。

 いずれ確実に死神が迎えに来るとしても、その瞬間まで体を動かしていよう。そう、思った。

 今は比較的冷静でいられるけど、そうでもして気持ちをまぎらわしていないとそのうち心のどこかが切れてしまいそうで怖かった。

 しかし、結局私はその星を一周する事ができなかった。



 一時間後、小惑星をおよそ半周ほどした所で、私は立ちすくんでいた。

 目の前には扉があった。

 地面や他の岩によく似た石質のカモフラージュが施された扉が、塚のような丘の側面に取りつけてある。

 しかし、それは国際規格で採用が義務づけられているどんなエアロックとも違う異様な形をしていた。

 どこを探しても扉を開くためのレバーもボタンも見当たらない。

 もちろん、どこかの国の宇宙開発機関が開発や探査のための前線基地として、こうしたトンネル状の建造物を造るというのはあり得る話だ。

 ちょっと前まで取材していた火星開発の最前線にもよく似た建物はまあたくさんあった。

 しかし、それにしてはアンテナも、レーザー通信用の信号灯も見当たらないのは不可思議だ。

 いや、あるとしてもよっぽど巧妙に隠されているのだ。

 これほどの手間をかけて(もちろん相当に金もかかったに違いない)施設を隠す必要がどこにある……?

 そこまで考えた時、背筋にゾクっと寒気が走った。

 もしかしたら私はとんでもない面倒に巻き込まれているのではなかろうか。

 手間やコストをいとわず、発見されない事を最重要に考える組織といえば私の知るかぎりでは一種類しかない。

 私は背後の岩陰から今にもレーザーライフルを持った兵士が飛び出してくるような妄想におびえて慌てて振り返った。

 しかし、星は怖いほどに静かだった。

 私自身の足跡が一直線に続いている他には何一つ見当たらない。

 私はほっとして座り込んだ。

「そうだ。足跡がないじゃないか」

 思わずつぶやきが漏れた。

 雨も風も存在しない宇宙空間では、ただの足跡といえども相当長い間地上にとどまり続ける。

 以前取材で訪れた月の静かの海には、百年以上前のアポロ十一号宙航士の記念すべき足跡がいまだにくっきりと残っていたじゃないか。

 この施設が何にせよ、もう相当長い事誰も訪れた事がないのだ。

 いや……、まて。

 さっき感じた背筋の寒気が戻ってきた。後頭部までチリチリとうずく。

 足跡のような痕跡が完全に消えるほどにチリや微少隕石が降り積もるには、一体どのくらいの時間が必要なのだろう。

 千年? 一万年?

 だとすると、この施設が何にせよ造ったのはおそらく……

『人類じゃない!』

 私はその場から猛スピードで後ずさった。



 私は船(の残骸)に駆け戻り、例のグルメな非常食を詰め込みながら自身の考えをまとめようと必死になっていた。

 心臓がドキドキと音をたて、食事の味はまったくわからなかった。

 久美子の趣味のいい仕事選びのおかげで、私は宇宙開発の最前線を常に飛び回っていた。

 だから、世間に公表される事がはばかられる変わった事件や事故を何度も目にしている。

 でも、こんな事態は初めてだ。

 公表されれば太陽圏は一体どれほどの騒ぎになるだろう。想像するだけでワクワクした。

 そして、そのスクープを物にするのがどれだけ素晴らしい事か、考えなくてもわかる。

 ただ……

 私は、迫り来る運命を静かに受け入れる悲劇の美女(誰が? という非難めいた突っ込みはこの際なし)を気取るのはやめる事にした。

 こうなったら、たとえどんな馬鹿げた努力でもいい。救助されるために、いや、この事をみんなに知らせるためにどんな事でもやってみよう。

 私は思わずコーヒーのチューブを握り締め、吹き出してきた液体にむせ返りながら立ち上がった。


◆◆


 翌日、私はストレス解消を兼ねた徹底的な破壊工作の末、エビぞった船の残骸から着陸灯のライトハウジング三個、太陽電池五枚、空の非常用バッテリー二つを強引にむしり取る事に成功した。

 ついでに大量の電線や光ファイバーと、エンジンルームの点検はしごも取りはずした。

 パイプやフレームの類も外せる物は全部むしり取ってしまった。

 むしったはしごやパイプはロープ代わりに光ファイバーの切れ端で縛ってつなぎ合わせ、高さ十メートルあまりの塔を組み立てた。

 いや、塔などと呼んではコロニーの建築技術者が真っ赤になって怒りそうだ。まともな重力の元でならまっすぐ立てる事さえできそうにない。

 危なっかしい代物だが、この際見栄えはどうでもいい。要は中身だ。

 私はその先端に着陸灯をくくりつけ、電線を引っ張ってバッテリーにつないでみた。

 丸一日太陽電池で充電されたバッテリーはなんとかLEDライトを点灯させた。

 翌日はそれを小惑星の自転軸、つまり、火星の方角から見て小惑星の中心から最も離れた場所に引きずっていき、時間をかけてゆっくりと持ち上げた。

 塔、いや見た目に準じてきちんと“物干しざお”と呼ぼう。

 先端のライトハウジングはそれなりに重く、まるで釣り竿のように大きくしなったが、幸いにも折れはしなかった。

 弱い重力のおかげさま、まっすぐ立ててしまえばなんとか直立する。

 後は電線をバッテリーに接続するだけだ。火星時間のままのリストウォッチを覗き込み、アズプールに夜が来るのをひたすら待つ。


 それから、火星に向けてライトの向きを調整し、小さい頃参加したこどもサバイバルのコースで習ったある間隔でライトを点滅させる。そう、“SOS"だ。

 まさか、クラシックなモールス信号を再び使うはめになるとは思わなかった。

 後は、火星でどっかのひま人が空を見上げてくれている事を祈るばかりだ。

 二時間ほど休み休み繰り返し、ライトが目に見えて暗くなったのを見て私は慌てて作業を中止する。このタイプのバッテリーは過放電に非常に弱いのだ。

 私は太陽電池をバッテリーにつなぎ、ちょっとでも多く充電してくれる事を祈りつつ船に戻った。


 ところで、ここへ来てもうひとつ困った事が持ち上がった。

 船にたどり着いた所で私は体中のむずがゆさについに耐え切れなくなったのだ。

 丸三日間ぶっ続けで着続けた宇宙服の内装はじっとりと湿って汗臭くさえ感じられるが、エアロックは景気よく吹き飛ばしてしまったので船内でも宇宙服を脱ぐ事は出来ない。

 しばらくもぞもぞと体をくねらせるが、かゆみはかえってひどくなるばかり。

 こんな時の為に孫の手を仕込んだ宇宙服があればきっと売れるのに……などと馬鹿な妄想におちいり、さんざん悩んだ末についふらふらとオートバスに入ろうとして、ふと我に返る。

 電力が使えないのに温水シャワーが使える訳がないのだ。

 しかも真空中で。

 私は極度のイライラでオートバスの扉に当たり散らす。だが、完全防水の丈夫な扉はあっさりと私の抵抗をはね返した。

「いや、待てよ」

 不意に思いついて今度は慎重に扉を開く。

 扉の縁にはぐるりと防水パッキンが取りつけられている。

 壁と壁の透き間は完全にシールされている。

 では、もしも排水口と換気口をふさげばどうだろう。

 私は大急ぎで応急修理キットを持ってくると、本来は船体の穴をふさぐ為に使われるコリジョンマットを取り出した。

 換気口と排水口の大きさよりわずかに大きくマットを切り、付属のチューブから強力真空速硬パテを遠慮せずに気前よく搾り出し、マットに盛りつける。

 しばらく待ってからそれぞれの穴にマットを押しつける。三分ほどたって、パテが完全に硬化しているのを確認して蛇口をひねってみると、ちょろちょろと流れ出した水が排水口に溜る間もなく蒸発する。

 私はほっと胸をなでおろした。どうやらあれだけ手当たり次第の破壊工作も、運よく配水管には及んでいなかったらしい。

 私は軽い足取りでエアロックに向かうと、ロッカーから新しい宇宙服と酸素ボンベを取り出し、バスルームに入ってロックした。

 十時間分もの貴重な酸素をバスルームに放出してしまうのはけっこう勇気が必要だったが、身体のかゆみには逆らえなかった。ボンベが空になった所でゆっくりとヘルメットのロックをはずしてみる。

 一瞬シュッと空気の漏れる音に驚いたが、それ以上は何も起こらなかった。かなり息苦しいがとりあえず大丈夫のようだ。

 私は大急ぎで宇宙服を脱ぎ捨て、蛇口をひねる。

 ちょろちょろとしか出ない凍りかけの水でも今の私にはありがたかった。

 二十分後、新しい宇宙服に身を包んだ私は、半日分の貴重な酸素を費やして得られた爽やかさにすっかり満足した。


 すっかりやる気を取り戻した私は、翌日もまたあの孤独で単調な作業を続けた。

 小惑星がゆっくりと自転してるので時々ライトの向きを変えなくてはいけなかったが、都合五時間ほどライトを点滅させ続けただろうか。

 ところが、一心にやるあまり、ついバッテリーを過放電させてしまったのだ。

 最後に小さく火花を散らした後、ライトは二度と点かなかった。

 慌てて作業を中止し、祈りを込めて充電をしてみたが、バッテリーは既に昇天してしまっていた。

 予備はない。あきらめるしかなかった。

 その日の夕方。ついに酸素ボンベが最後の一本になった。

 私は時間をかけて最後の晩餐を済ませると、ゆっくりと歩いてあの扉に向かった。


 何千年も、いや、もしかしたら何万年も前に閉じられたこの扉の向こうには一体何が詰まっているんだろう?

 できることならこの目で見てみたかったけど、運命の女神はあいにく私にこれ以上関わる事を許してはくれないらしかった。

 私は扉を背に座り込み、扉にもたれて静かに目をつぶる。

 完全耐熱の宇宙服を通してさえ、扉の温度がゆっくりと伝わってくる。何万年も太陽の光を浴びて密かにそこに在った。そう感じさせる静かな暖かさ。

(こんな目にあうのは二回目だな)

 内心ぼんやりと考える。

 幼い頃、私はちょっとした冒険の結果として生命の危機に立たされたことがある。

 今もいい相棒である久美子と出会ったのもそこで、私がジャーナリストを目指そうと決めたのもその時だった。

 そして、人生の目標にしようと決めた憧れの女性、そして、将来結婚するならこんな人と思える男性に出会ったのもあの時だった。

(私は、あの時なりたかった私になれただろうか)

 ふと思う。残された時間はそれほどないが、この際だ、考えてみるとしようか。


 

 やがて酸素残量のアラームが鳴り始めた。

 私はアラームを切り、目を閉じて静けさの中に身を委ねた。

 やるべき事はやった。

 これだけやれば後は運命だろう、きっと。

 ゆっくりと眠気が襲ってくる。

 目の前がゆっくりと暗くなる。そして……

 身体がフワリと浮かび上がる感触、次いで耳元で妙なる音楽が響きわたる。

 おお、お迎えとはこんなものなのか。

 私は薄れ行く意識の下で、ついに最後の時が来たのを実感した。


◆◆


 気がつくと、あたり一面がぎらぎらとまぶしい光に溢れていた。

 まわり中からがやがやと話しかけられ、うるさくて仕方なかった。

 私はその場から逃れようとしたが、足がしびれて感覚がなかった。

「やめて!」

 このまま静かに寝かせて欲しいというつもりで手を振ろうとしたが、何かが万力のように腕を捕らえて離さない。


「放して! 私をほっといて!」

 そう叫ぼうとした私は不意に意識を取り戻した。

 病室らしかった。

 やわらかな淡いグリーンに統一された明るい室内に、同色のカーテンを通して光が差し込んでいる。

 枕元ではモニタリング機器がかすかなうなりを発し、私の頭には電極付きのネットが取付けられ、顔には酸素マスクがかぶせられている。

 その時になって、誰かが私の右手を握ってくれている事に気づいた。

 柔らかくて温かな手ざわり。

 ゆっくりと顔を動かしその人物の顔を見る。

 久美子だった。

 出無精ひきこもりの彼女にしては珍しく、わざわざ現場まで出向いて来たらしい。

 目の下にはくっきりとくまができているし、目も血走っているが、それでも彼女は静かに微笑すると、一言こう言った。

「おはよう。それにしても、今回はえらく無茶したじゃない?」

 全くたいした女性だ。

 それでこそ我が相棒。

 結局、救助隊はぎりぎりで間に合ったのだ。

 私の合図を見つけてくれたのは、アズプール市内の某高校の天文部員だったと後で聞いた。

 私はその高校生にキスしてやりたくなった。


 その後の事は皆さんの方が良くご存知だろうと思う。


 様々な番組に引っ張り出され、何百ものインタビューを受け、原稿を依頼され、対談をし……

 とにかく、私自身は一つ一つの出来事をきちんと覚えていられる余裕など全くなかった。

 一時期のあの殺人的な忙しさが去った今でも、当時の状況を正確に思い出すのはちょっと無理のようだ。

 そしてその間中、久美子はずっと不機嫌だった。

 私が本来の仕事をさせてもらえないでいるのが不満だったらしい。

 そして、実を言えばは私も同じ気持ちだった。

 あのばか騒ぎが一段落して一番ほっとしているのはたぶん私と久美子だろうと思う。

 ところで、騒ぎがおさまったからといって例の事件が立ち消えになった訳ではない。今も学者さんの地道な調査は続いている。

 今のところわかった事だけをざっとまとめると、あの扉の向こうにあったのは原理も構造も皆目わからないが、とにかく一種の通信施設らしいという事だ。

 正面にはスクリーンがあり、コンソールがあって、人類には多少サイズが合わないしデザインも変わっているがちゃんと椅子らしきものまで作りつけてあった。ちょっと豪華なヴィジチャット用ブースといった所だろうか。

 それに、なんと利用マニュアルと思われるデータディスクまでちゃんと備えてあった。


 サンライズコロニーの光電子技術者によってディスクを読み出す機械はどうにか作れたらしいが、中身の解読はまだ手つかずの段階だと聞いている。

 ちなみに、私自身の直感から言えば、あのディスクはアドレスブックみたいな物じゃないだろうかと思っている。

 はるか昔に太陽系を訪れた話し好きな生物が、いつの日かこれを見つけた知的生命が自分達の星へ長距離通話してくれる事を夢見て、わざわざ通信機とアドレスを置いていってくれたのだ。とね。

 ばかばかしい? まあ確かにそうだ。

 だが、その考えを笑う人はいるだろうが、間違ってると言い切れる人もいないだろう。

 まあしかし、いずれにしろ、将来、最初にその席に着くという名誉な役目はなんと私に与えられた。

 宇宙資源開発機構は、第一発見者の立場を尊重してくれたらしい。

 私は、最初の一言を何にしようかと今から悩んでいる。



 あ、もう一つつけ加えなければいけない事がある。

 あの船を貸し出した大手のレンタシップ会社とそのメーカーからは、入院してすぐに豪華な見舞いの花束が届いたらしい。

 らしい、と言うのは、本人の元にたどり着く前に怒り狂った久美子がダストシュートに直行させてしまったからだ。

 その後、社長やら重役連中やらがぞろぞろやって来て、マスコミへの手前か、慰謝料としては破格の値段を申し出てきた。

 そのまま引退しても一生生活に困らないほど。

 つまり、そういうことだ。

 思惑のすけて見える申し出に久美子は始め強硬に反対したが、私はありがたく受け取る事にした。

 ただ、素直に引退なんてしてやる義理はない。

 そこで、それを現金で受け取るのではなく、私名義の航続距離の長い小型の宇宙快速艇で支払ってくれるように吹っかけてみた。こうすれば宇宙船メーカーとしての相手のメンツも潰さずに済むし、私は自由に使える取材の足ができて今以上にいい仕事ができるはずだから。

 結局、金額的にはけっこう無茶な申し出であったにもかかわらず、相手は大喜びの二つ返事で承知してくれたし、久美子もそれ以上は文句を言わなかった。

 しかし、退院してしばらくして船ができたと連絡があり、受け取りにいった私は正直言ってぶったまげた。

 確かに注文どうり、超小型の快速艇ではあった。

 だが、強化発泡セラミックの真っ白い滑らかな船体に最新型の低燃費高馬力エンジンが備えられ、さらに単機で大気圏突入や離脱すら軽々こなすという、軍用の強襲偵察艇もびっくりの超高性能艇が私を待っていたのだ。

 もちろん、完全フルカスタムメイドだ。

 設計者も技術者も相当に暇だったらしい。

 最新のテクノロジーがまるで見本市のように詰め込まれ、恐らく個人の名義としては太陽系最高クラスの船だろう。


 ゆっくり驚く間もなく、派手な贈呈式に続いてマスコミを招いての発表会までもが催された。

 どうやら懐柔に失敗した会社側は、今度は私をイメージアップ広告代わりに利用する腹らしかった。

 転んでも、決してタダでは起きないこの商魂逞しさに、私は腹をたてるよりさすがは商売人と思わず感心してしまった。


 とにかく、こうして私は自分の船を手に入れた。

 名前? ああ『がるでぃおん』号だ。

 純白の野生馬を乗りこなすフランスはプロバンス地方の荒くれカウボーイの意味だそうで、この船と私のイメージにぴったりだと久美子が名付けた。

 私はもっとこう、地味でおしとやかな私に似合った女性らしい名前にして欲しいと希望したが、彼女は絶対に譲ろうとはしなかった。

 そんな訳で仕事のスピードは格段に上がったが、名前が売れて依頼の方もぐんと増えた。久美子は私がフルパワーでぶっ飛ばす『がるでぃおん』のコンピューターに、相変わらず絶妙のタイミングで魅力的な仕事を送り込み、おかげで私はますます休暇と縁遠くなってしまったが、後悔はしていない。


 だって、あの通信機が動き出せば、人類は孤独な宇宙で初めての友人を得る事ができると私は信じている。

 そうなれば『がるでぃおん』と私が太陽系を飛び出し、独占取材におもむくのもそう先の事ではないだろうし、ね。


(了)

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