第3夜 ウインド・シア

 その日は、春も近いと言うのにひどく冷たい風の吹き抜ける日だった。

 彼は約束に三分遅れて店に入ってきた。

 トレードマークの長身、そして一見神経質そうな外見。どちらも五年前の印象そのままだった。

 彼は私を見つけて小さく手を振ると、そのまま大股に店を横切って私の席に近付いてきた。

 そう、彼から、五年ぶりに突然のメッセージが送られてきたのは昨夜のことだった。

 住み慣れたこのサンライズ5コロニーを出て、サンライズ7セントラルで工業インダストリアルデザインの学校に通っていた彼は、卒業直前のある出来事のために、故郷を捨ててセントラルに残った。

 その時の事情を知っていた私は当時かなり心配したのだが、その後彼とはふっつり連絡が取れなくなってしまっていた。

 ところがその彼の方から、昨晩ひょっこり音声メッセージがあった。

 離婚して住所もアカウントも変わってしまった私をいったいどうやって捜したのかは知らないが、あの頃とちっとも変わらない静かな語り口に誘われるように、私は彼に会う事を決めたのだった。




「お久しぶりです。先輩もお元気そうですね」

 彼は私の向かいに腰かけるとまずそう言ってほほえんでみせ、ウェイトレスの運んできたコップの水を一気に飲みほした。

 そして、あっけにとられるウェイトレスに手早くコーヒーを頼んで追い返すと、改めて私に向き直り、静かに口を開いた。

「驚きましたよ。住所、変わっていないと思ってました」

 私は無言でうなずくと、ダンナと別れた顛末を順を追って略さずに話した。

 彼の話をきちんと聞くには、まず自分から話さなくてはいけないと思ったからだ。

 彼は話の間中、私の目をまるで睨みつけるように凝視していた。

 五年前と同じ、真剣な目つきで。

 この癖のお陰でしょっちゅうケンカを売られるんです。そう言って笑っていた彼の顔が今の彼にダブって見えた。

「そんな事があったんですか」

 私が長い独り語りを締めくくると、彼はぽつりとつぶやいて顔を伏せた。

「全然知らなくて……。すいません。つらい事を無理に聞いちゃったみたいですね」

 私は彼のその言葉をあえて軽くいなすと、不自然にならないよう苦労しながら彼自身の近況に話を持っていった。

 五年前、彼には好きな娘がいた。

 だが、彼女の方はこっちで就職していて……つまり、絵に描いたような遠距離恋愛だった。

 いや、それ以前だったと言う方がたぶん正しい。

 たまたま両方と知り合いだった私は、二人の不器用さを見てるのがじれったくって、ある時二人別々に問いただしてみた事がある。

 結局、両思いであることは間違いなかった。

 だが、どちらも、お互いをあまりに大切に思うあまり、どうしても告白できないと言う。

 お互いにそのことを知らないまま、二人は同じ所で悩んでいた。

 私は、馬に蹴られる覚悟でそれぞれにさかんにハッパをかけたが、二人ともどうにも煮えきらない。

 そうしてそのまま、これといった進展もないままで彼は卒業のシーズンを迎えた。

 だが、残念なことに、当時、彼の専門分野を生かせる仕事がサンライズ5にはまだなかった。

 セントラルに残って専門職につくか、それともこっちに戻って別の仕事を探すか。

 彼は悩んだあげくに私に相談を持ちかけた。

 私は、同性のよしみで、はっきりしない彼をけなげに待ち続ける彼女の方にはるかに感情移入していたので、彼女をダシにして帰郷をかなり強く、熱心に勧めた。

 気合い十分の説得工作の末、彼もやっとその気になり、帰郷して無事に就職できたら彼女に告白すると『ついに』決心した。

 長かった。

 でも、彼のその一言さえあれば、その先はもう決まったようなもんだ。はた目で見ててもじれったい二人がやっと結ばれる。

 私もやっと一安心した。

 だが、信じられない事が起きたのはそんな矢先だった。

 彼が親友と信じていたある男が、彼の名前を騙って彼女と連絡を取り、あげくに独り暮らしの彼女の部屋に押しかけたのだ。

 その時、その男が一体何を考えてそんな行動に出たのか、そしてそこで何があったのか私は詳しく知らない。

 だが、彼からの絶叫めいた通話で、男が何万キロも離れた所で手も足も出せない彼にこれ見よがしにビデオチャットをしかけてみせ、そのまま彼女の部屋に居座って朝まで帰らなかったことだけは知っている。

 彼はその事実と、それまで親友と信じて疑わなかった男の裏切りじみたやり口の両方に強烈なショックを受けたらしい。

 以降、心配した私が何度連絡しようとしてもしても彼はつながらなかった。

 私は慌てて彼女を呼び出した。数日後ようやく私の前に現れた彼女の目は真っ赤だった。

 勢い込んで問い詰める私に向かって、あの日は結局何もなかったと断言し、あれ以来彼がチャット要求を一切受け取ってくれないと言って泣き伏した。事態はまさに風雲急を告げていた。

 その時ちょうど大きな仕事を首尾よく仕上げて比較的懐の暖かかった私は、セントラル行きのシャトルの切符を大急ぎで手配すると、固く拒む彼女に、彼を永久に失ってもいいのかと叱りつけてほとんど無理やりに手渡した。

 だが、ほんの一日、いや、ほんの数時間遅かった。

 彼女が不慣れなセントラル市街で迷ったあげく、ようやく尋ね当てた彼の部屋は、すでに空室になっていた。インターフォンの上には彼女宛の手紙が貼ってあり、中には、

『僕は君に何もしてあげられない』

 にじんだ文字の、一行だけの便箋が入っていたと聞いた。それっきりだった。



 彼はぬるくなったコーヒーをひとなめすると、昔と同じに静かにほほえんだ。

 その時私は初めて気づいた。

 彼の頬に、普段はほとんど目立たないが、笑うと傷跡らしいひきつりがあることに。

 五年前の彼にはなかったはず。そう思って改めて観察してみると、腕まくりした彼の両腕にはその頃はなかったはずのいくつもの傷跡が刻まれていた。彼はそんな私の視線には気づかなかったが、私の一番知りたいことにはどうやら感づいたらしい。

 彼は目を伏せ、コーヒーに再び口をつけ、そして静かに口を開いた。

「あの後、僕は発作的に月に渡りました。もう誰も信じられなくて、できるだけ人に会わなくていいところで暮らすつもりでした。だからそのまま教授の口ききで宇宙資源開発機構ナードの推進研に入ったんです……あそこ、御存じの通り事故が多い所で。実を言うと僕、うまく事故死できればいいと思って」

 私は彼の物騒な発言にしかめっ面で頷いた。

 推進研と言えば新型ロケットモーターの開発を行っているラボだが、その特殊性のために開発中の事故はつきものみたいなものだとかつての夫に聞いた事があった。

 そのためラボ内は極力無人化されているが、それでも年間コンスタントに数人の殉職者が出る。

 一部には危険で困難な開発を成功させるために人柱を立てているのだという笑えない冗談さえささやかれている。

「でも、死ねないままに四年が過ぎてしまいました。それならばせめて彼女の事を忘れようとしたんですけど、結局それも出来ませんでした。人間が極端に少ない所にいると、かえって人恋しくなってしまうものなんですね」

 彼は言葉を切り、苦笑じみた笑みを浮かべて視線を窓の外に向けた。

 仲むつまじげに腕を組んだ若いカップルが何事かささやき合いながら彼の視線を横切った。

「僕は選択を誤ったのかも知れません。普通なら新しい出会いのおかげでいずれ古傷はいやされるものなんでしょうが……」

 彼はそのまま黙り込んだ。

 確かにそうかも知れなかった。彼はまるで手負いのライオンの様に人目を避け、たった独りで心の傷と向かい合ったのだ。だが、その傷は独力で癒すにはあまりにも深く、くっきりと残った傷跡は、四年以上たった今も鋭い痛みを引きずっているらしかった。

 しばらく沈黙した後、彼は再び話し始めた。

「でも、三年半ほどたって、このままじゃ、後ろ向きのままじゃいけないとようやく思う事ができた頃、その気持ちをまるで後押しするように辞令が下りました。サンライズ5に新設されたNARDOの船舶デザイン研が引き抜きに来たんです。偶然かどうかはわかりませんが、気持ちを吹っ切るにはいい機会と思いました」

 彼の言葉に私は張りつめていた息をほっと吐き出した。だが、言葉と裏腹に彼の表情はさえなかった。

「でも、その直後、また思いがけない事が起きました」

 そう続ける彼の声は、まるで地獄からの声のような不吉さを伴っていた。

 私のうなじに鳥肌が立った。

 柔らかで静かな語り口が、四年前のあの日、受話器の向こうで彼が上げた叫び声よりもさらに強く、私の心臓に迫って来た。

「計測器の操作方法を後任の所員に教えていた時でした。すぐそばのテストベンチで出力試験の下準備をしていた試作品のロケットモーターが予期しない燃料漏れで暴発したんです。ちょうどモーターと僕の間にいた新任の彼は、破片をモロに受けて一瞬で血まみれのボロ屑になりました。そして僕も……」

 彼は頬の引きつりにゆっくりと手を触れた。

「とっさに腕で顔を覆ったつもりだったんですが、破片ひとつがここから入って……」

 そのまま腕を後頭部に回す。

「こう、口をつき抜けて頭蓋骨の根っこに当たって止まりました。神経索のど真ん中に食い込んで、今でもここにあります。毒性も腐食性も強いやっかいな合金で、そして、摘出手術は不可能なんだそうです」

 うなじの鳥肌が私の全身に一気に拡がった。すべての音は消え失せ、瞬間時間が凍りついた。



 彼は残ったコーヒーを静かに飲みほし、ゆっくりとした動作で皿に戻した。

 カップの底がかすかにカチリと音を立てた。

 まるでそれが合図だったかのように、私の耳に再びざわめきが戻ってきた。彼は軽く右手を上げてウェイトレスに二杯目を頼むと、複雑な笑みを見せた。

「どうしてなんでしょうかね。僕が決心すると、必ず何かがそれを阻止するんです。たぶん、彼女とは一生縁がないって事なんでしょうね」

 私はどうにか放心状態から立ち直ると、彼に質問の矢を続けざまに浴びせかけた。体は大丈夫なのか、本当に手術はできないのか、結局彼女をあきらめるのか、そして、一体これからどうするつもりなのか、など。

 彼は一つ一つの質問に無言でうなずきながら、私が息切れして黙り込むのを辛抱づよく待った。

 そしてようやく私が黙り込むと、運ばれてきたコーヒーをゆっくりとかき回し、クリームの形づくる渦巻を真剣なまなざしで見つめながら、まるで他人事のように、軽くつぶやくように言った。

「破片は骨に当たって中枢神経索を抱き込むように変形してるんです。ちょっとでも破片が移動すれば、その鋭い切り口のいずれかが神経を切り裂いてしまいます。とても手術なんてできる状態じゃないんですよ。それに、腐食した破片から溶け出した有毒物質が神経をマヒさせるまで、せいぜい長く見積もってあと半年。どちらにしても結果は同じです。それに、この状態でたとえ彼女に告白したとして、向こうは迷惑以外の何物でもないでしょう。それに……」

 最後まで言わず、大きなため息と共に彼は沈黙した。

 彼の回りだけ、とてもゆっくりと時間が過ぎているかのようだった。

 私は辛抱強く次の言葉を待った。

「デザイン研で小さな宇宙艇を設計するつもりです。残された時間ではたぶん一隻が精一杯だと思いますけど、何も残さないより、たったひとつでも僕の存在した証しがこの世界に残せれば、それで十分です」

 ポツリとそうつぶやき、彼は立ち上がった。

 私は何も言えなかった。

 そのまま彼は私に背を向けると二、三歩歩きかけ、ふと思いついたように立ち止まって振り返った。

 その目は迷いと憂いに満ちていた。

「ひとつだけ教えて下さい。彼女は、和美はもう結婚したんでしょうか?」

 私は包み隠さずに真実を伝えた。

 まだ結婚まではしていないが、心に決めた相手が存在するらしいという事を。

 彼はそれを聞くと静かに頷いて、ふわりと微笑んだ。

 そして、来た時と同じように大股で遠ざかっていった。

 店の入口につけられたカウベルがカランと大きく音を立て、次の瞬間、彼の長身は外の雑踏にのみ込まれて見えなくなった。



「なにも変わってなかった……」

 背後からつぶやきがもれた。私はそのままの姿勢でその声に答えた。

「彼の本質は、ね。でも、彼の身体は……」

「いいえ、私にはそれだけで十分です」

「でも、今のあなたと彼を隔てているものは、あの頃みたいな距離だけじゃないのよ。個人にはどうにも出来ない、もっと大きな分厚い壁が……」

 返事はなかった。

 カウベルが鳴り、風が吹き込むと同時に、店の中が一人分広くなった。




 しばらくして私も店を出た。

 気づけば、吹き渡る風に、先程店に入るまでのあの刺すような寒さは感じられなくなっていた。

 どことなく青葉のようなみずみずしい香りさえ漂っているように感じられる。

 多分それは、彼らに会うまで、私の胸の内を吹き渡っていた風の微妙な変化に関係しているのかも知れない。

 願わくば、彼らを包む風にこそ、こうであって欲しい。でも……。

 私はポケットから端末を取り出すと、思い切り深呼吸して、一度は忘れようと思ったアカウントに接続リクエストを出した。

 コール音が響く。



(了)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る