第3話

 帰り道は風が強く、伸ばされた前髪が乱れてしまった。右目を隠すために伸ばしているというのに、強風に弱いとなると鬱陶しいばかりの白髪である。被り物はお面にした方が都合に合っているかもしれなかった。

 帰り道は徒歩で四十分。魔法を使えば数秒にまで短縮できてしまうけれど、幽鬼と対峙するために魔力を可能な限り残しておきたいし、久しぶりに町の様子を見て帰りたかったので、細く頼りない脚を動かして歩くことにした。 

 町並みはすっかり変わってしまったようで、並ぶ店々は奴隷市、香ばしい香りを漂わせる屋台、お酒を専門に取り扱う店、可愛らしい雑貨類を並べる出店、怪しげな薬の販売店、小動物の集会所、華やかな服を販売する大手服飾の系列店、奴隷市、賭け事のための建物、奴隷市、空腹の少年たちの寝床、貴婦人の休息所、配色がとても悪い宿泊施設、お金を貸しているらしい場所、屋台、雑貨屋、服屋、奴隷市、奴隷市、奴隷市、そして、王様の像。

 奴隷は認められていないはずであるが、やたらと奴隷市が散見されるのはどういうことなのだろう。城下を見て歩くのは久しいので、記憶違いによる現状に対する無知なのかもしれないが、少なくともこの道には、過去に奴隷を扱う場所は一ヶ所もなかった。あそこの奴隷市では過去に野菜を売っていて、向こうの奴隷市では焼き肉屋さんが展開されていたはずといった具合に、多くの店が当時なかったものへと建て替えられてしまっている。よく通っていた果物屋さんなど、今は見る影もない人肉取扱所だ。脳が最高額だという、気分の悪くなる情報が店の看板に大きく書かれている。食人という本来の文化にないものが流行しているのでは、虚しいとすら思えないではないか。記憶違いではないことだけは間違いない。

 彩りがよく華やかな風景を期待していたのだが、華といえば奴隷が鞭打たれることで飛び散る血液が、そう見えないこともないだけであって、目に入るのは期待から大きく外れた凄惨たる光景である。これが人々の共通の認識として、生活に深く根差しているのだから笑えない。ここまで徹底した腐敗の具合は、誰かによる人為的なものでなければ到底信じられないものである。

 現実的に発展する先がなく、建設的でないあれこれの行いを楽しむ人間となると、悪の味方も笑い者にする確信犯くらいのものでしかないように思う。この町の傾向は、私のような子どもが歩くべきではないものとなってしまっているのだろう。私が適応できるように頑張ったところで、笑顔で生活している様子は想像できない。それに、穢れた右目が理由なのか、私は異分子とみなされているらしく、行き交う人々はこちらを訝しげに見ていた。国がどのように動いているのかは風の便りで耳にしていたけれど、ここまでおかしな動きをしているとは予想すらしていなかった。

 その中、暖かな視線と目が合った。気が置けない人がいてくれたと、群衆に紛れた彼に声をかけようとしたところで私の正面は塞がれた。見たこともない超高身長のおじいさんによって。彼はしわがれた声で、

環の探偵さんじゃな。話を聞いてはくれんだろうか。もしも同情してくれたのなら力を貸してほしい。死んだ妻に会いたくてのう」

「私は探偵じゃありませんし、望みを叶えるには降霊術師のような人に頼んだ方がいいかと……。霊をどうこうして人の心を癒す仕事は生業としていませんので、何も貸せません」

 人探しの真似事や失せ物を見つける手助け、誰かの身辺調査といった、探偵らしい仕事をこれまでにしたことが一度もないとは言えないが、しかし死んでしまったものに会わせることは私の範疇を越えている。死んでしまえば人はそれまでであり、愛する人を失ったことは気の毒であるが、私にしてあげられることは一つもない。

 それに、いなくなってしまった人に会いたいという気持ちが理解できない。

 彼の思考が不思議ですらある。

 不思議といえば、彼の手に握られている鉈も不思議である。あえて触れないものとしていたが、今まさに私へと向けられているので、見過ごすわけにもいかなかった。

「わしはこの手で妻を殺めてしまったんじゃ。死んで詫びようと何度も何度も首を折ってみたが、結果は見ての通り。殺してくれとは言わん。だから、どうか」

 どうか死んでくれと叫び、鉈を真上へと投げた。

 どうして真上に投げたのか。私は空中に浮かんではいないし、そちらに誰かがいるというわけでもない。彼の様子からして投げる方向に目的があったようでもない。わけがわからずに固まっていると、彼は私を拳で殴り付けた。老いてはいるが立派な体躯の男性である。殴られた私は頬を血で染めたまま二、三回地面を転がってしまった。

 全身が熱かった。

 想定外の出来事に、驚きが頭の大部分を占める。私は死んでも構わない人間だろうし、死んだ方がよい人間ですらありそうだけれど、私が死んだところで彼の罪が晴れるわけではない。

 何か言わなければいけない。おじいさんは拳を固めている。

「あ、あの! このことは口外しません。どうしてか周囲の人々はこちらに無関心ですから、きっと騒ぎになることもありません。どうかここはお互いのために矛を収めてはもらえませんか」

「わしは長く生かされすぎた……そろそろ死ぬ頃合いじゃ。どうかわしたちのために死んでくれ」

 私は「へ? え? えっと……」と二度ほど言う。

 おじいさんの言葉は私の理解を飛び越えてしまっている。私が死んだところでおじいさんは生き続ける。死ぬわけがないのだ。絶対に。

 先程と同じように拳が振り下ろされるのだろうと理解はしているが、どう反撃したらよいのかがわからず、とりあえず目を閉じる。その次に歯を食い縛る。しかし拳が飛んでくることはなく、代わりに前方からおじいさんの唸りと、別の男性の声が聞こえた。

「こちとら面白いことがないかと散歩してたってのに、まさか汚い爺様が怪我をすることになるとはな。ああ、なんて悲しいことなんだろうか。僕の心にゃ大雨が降っているぜ」

 聞き慣れた声だった。

「やあ、やあ、こうして会うのは久しぶりだな。近況はいろんな奴から聞いていたけど、どうやら話と違って元気そうだ。ある人の話によると、兎窓環は毎日を満身創痍で過ごしている。またある人の話によれば衰老病死。お前を見る限り、あいつらの話は嘘だったってことになるな」

 私は老衰するような歳ではない。すぐに嘘だとわかりそうな話だった。しかし、事実と大きく異なるとは言え、情報らしい情報が囁かれていたということは、隠れて生きている気になっていたのは、悲しかな私だけのようだ。誰が情報の生産者となっているのかはわからないけれど、私の姿は、どこかである程度観察されていたのだろう。

 お尻を隠し忘れている人間のようで恥ずかしいが、彼が私についての情報を受信してくれていたことは嬉しく思う。恥で赤くなり、嬉しさも重なり更に赤くなる。私の顔は茹でた蛸のようになっているかもしれない。

「……私が何事もなく生きていることには、お生憎と言っておいた方がいいのな。久しぶりだね、彦君」

 彦君。彦助君。

 おじいさんは地面にのびていた。昼寝をしているように見えないこともないけれど、所々の関節があらぬ方向に曲がっているため、昼寝ではなく永眠と言った方が適当かもしれない。同じ状態で海を漂っていたとしても、その形状が人間的であるから奇妙だという点を除けば、不思議だとはまったく思わないだろう。場所が空中であっても同じく、自然な光景として処理できてしまう。

 それがどれだけ自然的で、さも元よりあるべき姿のようであるかは、すましている彦君の口調と、周囲の無反応から察することができる。

「初めからこれは倒れていたよ。僕が声をかける前からこうだったのさ」

「でも、おじいさんは間違いなく私を攻撃しようとしていたよ」

「お前が目を開いたときに、これは突っ伏していただろう? 僕の言葉だけが真実というわけだ。まあ、そんなことはどうだっていい。王室御用達の旨くはない茶葉を手に入れた少年が、環ちゃんをお昼のお茶に誘っているってことの方が重要だ」

 控えめに「いただきます」と言うと、彦君は私を抱え上げ、彼の家がある方向へと歩き始めた。倒れている老人には、私がこっそりと治癒の魔法をかけておいたので、周囲の誰かがおじいさんに対して無関心、または親切であれば、すぐに目を覚ますだろう。

 私は軽々と持ち上げられてしまったようであったが、彼の負担となってはいけないので、重くはないかと訊いてみると、暫くの沈黙の後に彼は大口を開けて笑った。それきり目的地に達するまではお互いに口を開くことはなく、ただ風の音に耳を傾けるだけであった。

 私も彼も、お喋りではないのだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る