うどん

白川津 中々

第1話

 玉葱のほんのちょっとした切れ端を落としてしまった。

 室内とはいえ落下した先は足で踏んでいる床である。衛生上よくはないし、仮に無菌清潔であっても心理的に口に入れるのは憚られる。私は止むを得ず、その玉葱の切れ端を拾い上げ、懐紙に包んで屑篭へ放った。その後調理は滞りなく再開され、無事にうどんが完成。食すにあたり、「いただきます」と命に敬意を払うのを忘れてはいけない。ゆっくりと手を合わし、感謝の意を念じる。


 この時私の頭を過ったのが、先に落下し志半ばで果てた玉葱の切れ端の姿であった。

 以前、途上国で泥を啜る少年をテレヴィジョンで拝観した私はいたく心痛したのだったが、落ちた玉葱をいとも容易く廃棄した行為は、その心痛に背するものであり、偽善者の刻印を自らに押し当てたようなものではないのだろうかという苦悩が生まれたのだ。果たして私は失った玉葱の欠片を黙殺し、腹を満たしてしまっていいのだろうか。悩みは辛苦を生み出し良心を抉らんとその牙を深く私の心に突き立てる。罪悪の枷が重く嘖むも贖罪の仕様がなく、ただただ申し訳ないと首を落とし許しを請うばかりなのだが、玉葱と荒野で飢餓に苦しむ少年達にその謝意が届く事はないだろうと諦観し唇を噛む。雑念の入った私の言葉など、彼らの心根に響くわけがないのだ。


 目の前で湯気を立てる、余り物で作ったうどんのなんと美味そうな事か。しかも本食は今朝放られたばかりの鶏卵まで乗せている贅沢品である。まさに垂涎。珠玉の一品。身中の虫も早く喰わせろと地団駄を踏む。早い話が、私は空腹なのだ。当然だろう。腹が減ったから飯を作ったのだから。

 しかし、私はこのうどんを食してしまって良いのだろうか。無残に散ったあの玉葱の欠片を、あの犠牲を無きものとして、一人腹を満たして良いものだろうか。罪の意識と腹具合に、揺れる。

 秤はいずれにも傾かぬ。丼から立ち上る湯気が消える頃になっても、私の意思は依然としてどうしたものかと決めあぐねていた。そして気付けばうどんは伸び、朧月となっていた卵はすっかりと固まり凄惨たる残飯と成り果てていたのであった。これはいかんと意を決し、箸を伸ばしうどんを摘んで口に運ぶ。不味い。期待していた味を遥かに下回る不出来。私は、長く無駄な時間を過ごし、取り返しのつかぬ事をしたと嘆いたが、どうしようもなかった。


 

 この日、わたしは泣いてうどんを啜りながら、悩むだけの罪の意識は自己満足であり、それに囚われていては不幸となるばかりで誰も何も得るものがないと学んのであった。


 なお、うどんは捨てた。

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