【エッセイ】夢精・脳・ドライオーガズム

 今朝の夢はきわめて官能的だった。と書くとほとんどの人が誤解するので付言しておくが、性的な内容が含まれていたわけではない。しかし、ありえないほど気持ちが良かった。むしろあの経験に即して言うなら、性的な連想は、身体的反応から遡及的に形成されたものにすぎない。私は脊髄神経がものすごい吸引力で一点に向って収縮するのを感じたが、夢の中で私をそうした興奮状態に至らしめた当のものは、いっさいの性的事柄との接点をもたなかった。

 いまいましい闖入者が私の部屋のチャイムを鳴らし、一通り意識をかき乱していったせいで、部分的にしか思い出せなくなってしまったが、それはおおよそ次のようなものだった。自分の本の刊行がきまり、そのサンプルが私の部屋に届く。すると、異世界からやってきたセイントビブリオウーマン(実際にはもっとそれっぽい肩書きだったが思い出せないのでたった今そう名付けた)が現れて、この世界で自分が探し求めていた聖なる書物ナントカカントカ(おそらくラテン語のカタカナ四文字の適当な名称)がこれだと言って、私の本を指定する……。

 いざ文字にしてみるとしょうもなさすぎて呆れられてしまいそうだが、これで私の昂揚はほぼ絶頂に達した。下腹部に痛烈なほどの刺激が走り、それと同時に私は夢から覚醒するかしないかぐらいの、意識の水面のぎりぎりのところまで引き上げられたのだが、しばらくのあいだ私はその付近にとどまり、夢から出たり入ったりを繰り返しながら、持続的に快感を享受していたのだった。あのくそみたいなチャイムが鳴るまでは。


 二十代のはじめぐらいまで、私はしばしば夢精することがあった。それはおそらく私がマスターベーションを多く行わない人間であることにも起因していたのだろうが、宿命的に無益な感受性が引き起こす一種の災厄のようなものだと私は考えていた。起きると下着が濡れているのを感じて嫌な気分になったものだ。

 その一方で、あの陶酔に満ちた体験が私にどこか甘美な味わいを感じさせなかったといえば嘘になる。世の中には夢精どころか、夢さえめったに見ない人種がいるという。かれらには想像力が欠落しているので、頭のなかに余計なものが存在しないのだ。当然かれらには知るよしもない、それがどんな愛撫よりも心地よいものだということを。

 考えてみるといい。いかなる肉体的接触もともなわずに、おのれの力だけでじぶんを射精にまでみちびくということが、はたして意識的にできるだろうか。おそらく無理だ。できたとしても、かなり大がかりな仕掛けが必要になるだろう。たとえば目かくしをしてヘッドホンで催眠音声を流すみたいに。しかしそれはほとんど夢を見ることとかわりがない。

 夢精は脳内だけで完結する。いわば壮大な自作自演だ。「気持ちがいい」という信号を送り出すためだけの仮想空間をつくりあげて、実際にそこから快感を引き出している。だからそれは極限まで精錬された気持ちよさであり、その威力は特定の身体的部位への刺激に付随するそれの非ではない。また、性器をいじりながら眠りに落ちればそうした体験ができるわけでもなく、かえって意識すればするほどそれは成功しなくなる。それを体験できるのは、ある意味では限られた者だけが持つ特権なのだ。


 さすがに大学を卒業する歳にもなると射精までともなう体験をすることはなくなったが、それでも、私は今日のような体験をすることがまれにある。射精するぎりぎりのところまではいく。脳からは快楽物質がどばどばと放出されている。「寸止めオナニー」をやっている感覚に近いと言えるのかもしれないが、でもやっぱり違う。根底的に違う。あれはほとんどスピリチュアルな性質を帯びている。むしろ近いのは「ドライオーガズム」であるような気がする。


 ドライオーガズムとは前立腺を刺激することなどで得られるらしい射精をともなわない絶頂感のことだが、前立腺を開発していないしする気もない私はそのような体験をしたことがない。しかしそれがどうやら想像を絶する気持ちよさで、女性が感じる性的快楽に近いようだということは知っている。たしかに女性はいくときは何度もいく。むしろいきつづけていると言ったほうが的確かもしれない。男性は通常そのようなことにはならない。しかし夢精的体験の、あの脳がけしかける地獄のような快楽はとても不可思議で、まるで世界のもうひとつの側面があたかも顔を差し向けたかのようだ。

 そういえば夢精が起こっていた時期、私はじぶんのなかに見出される、なよなよした女々しい部分を激しく憎んでいた。それが私を三島由紀夫に傾倒させたわけだが、そのような感情が自然と消えていくのにしたがって、夢精も起こらなくなっていた。これは年齢の経過によるただの偶然なのだろうか、それともなにか必然的な因果の賜物なのか。夢精研究員の活動は続く(続きません)。

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