【評論】『frozen chameleon in the love』読者のためのレヴィナス論

 『frozen chameleon in the love』では古代ギリシアの哲学者エンペドクレスの思想にふれたが、それはたんに物語を駆動させるためのギミックにすぎない。すべての根底にあるのは、20世紀フランスの哲学者レヴィナスにおける身体論、とりわけ〈顔〉という重要な概念と、それにかかわる「倫理」の問いだ。


 倫理学が他者とのあいだがらをめぐる思考であるとすれば、同時にそれは、主体としての〈私〉の条件をも問いうるものでなければならない。では、〈私〉とはなんだろうか。と言っても簡単に解答が出せる問題ではないが、さしあたり素朴に考えてみるならば、〈私〉とはなによりもまず生命である。またそのかぎりで、〈私〉は身体でもある。やや踏みこんだ言いかたをすれば、身体としての生命は、〈私〉の自己組織化の産物である。すなわち呼吸をしたり食べたり飲んだりすることで〈私〉は自分の存在を維持し、その同一性をたもっていることになる。一方、見方をかえれば、この自己組織化の運動によって、自己とはことなった存在――〈他なるもの〉との差異が、とくに身体的な次元において際立ってくることにもなるだろう。なぜなら私たちは身体的存在である以上、たとえば皮膚で、「自己組織外」のものとの接触を欠かすことはできないし、こうした差異を利用したり、あるいは抹消したりしながら私たちは生きているからだ。そしてこのように考えたとき、もろもろの差異との関係それ自体が、一種の倫理的問題をかたちづくるようになるだろう。こうしたことがらにかんしてもっともねばり強く思索を続けた哲学者のうちのひとりが、レヴィナスである。そこで以下では、レヴィナスの思想における身体の位置づけを『全体性と無限』(熊野純彦訳、岩波文庫、2005 年)に沿って確認したのちに、「他者」へとむかう倫理について考えてみたい。


 〈私〉が「身体をもつ」と言うことはできない。それはすでにして「所有」を語ってしまっているからだ。身体が所有されるものであるならば、それに先立って獲得する意識が起源になければならず、所有する自己と所有される自己の分裂という奇妙な事態を考えるほかはない。だからレヴィナスはかえってこう言う。「身体とは自己の所有にほかならない」(p.226)。 私が「身体をもつ」より以前に、私は「身体である」。身体であることによってはじめて私は自己組織化をおこない、〈私〉をかたちづくることができる。つまり身体は〈私〉によって所有されるものというよりはむしろ、〈私〉であることの条件をなす。「身体であることが、生起したもののただなかで時間をもつこと、他なるもののうちで生きながら私であることになるのである」(p.227)。こうしたものとして〈私〉がある。

 レヴィナスは、第一の主著といわれる『全体性と無限』のなかで〈同〉と〈他〉の二元論について語っている。〈同〉とはとりもなおさず〈私〉のことであり、〈他〉とは世界である……と言うのはすこし単純化しすぎかもしれないが、〈同〉はたえず〈他〉を〈同〉に回収することによってその同一性をたもつ、のだという。言いかえれば、世界のなかに住まう〈私〉は、大気や水、パンといった〈他なるもの〉という「糧」を「享受」することによって生きている。それは私たちが「身体」であるという宿命的なできごとに由来することがらである。


「糧をとることで新たに気力をうることは、他なるものを〈同〉へと変容するこ

とであり、この変容が享受の本質にぞくしている」(p.212)


 私たちは、自然という〈他なるもの〉のうちにありながら、その無償の贈与を享受することによって、そうした隔たりを消去しつつ、〈同〉としての自己満足的な生のありかたに安らぐ。労働による「所有」もまた、他なるものを対象化し、〈私〉との関係のもとに配置し、〈私〉において意味をあたえるという点では、〈同〉へと回収していると言える。

 さて、ここでわれわれにとって重要な関心となってくるのが「他者」である。私は衣服や乗りものやビールのように他者を「享受」することはできるのだろうか。あるいは他者を「所有」することは可能だろうか。

 レヴィナスにあって他者とは、私の観念を無限にあふれ出す絶対的な〈他なるもの〉である。 他者がたんなる「もの」として、ほかの存在者一般とおなじように存在するものであるならば、私は他者を同化し、すなわち、その隔たりを完全に抹消してしまうこともできるだろう。しかしレヴィナスは、そうした〈同〉の越権にたいして「否」と言う。他者はけっして〈同〉へと還元されるものではなく、他者は私にとって測りがたく、汲みつくせないものである。なぜだろうか。それは他者が〈顔〉として現前するからだ、とレヴィナスは説く。


「他者の顔は、顔が私に残す、手でかたどることのできるイメージを不断に破壊

し、それをあふれ出す。私に釣りあい、観念されたものに釣りあった観念を、つ

まり適合的な観念を破壊して、あふれ出すのである。顔はその性質によってあら

われるのではなく、それ自体としてあらわれる。顔はみずからを表出するのだ」(p.80)


 私が他者の〈顔〉を把持しようとしても、意味の表出そのものである〈顔〉はたえずかたちを変え、私はそのすべてをけっして知ることができない。手にするさきからつねに逃れ去っていくようないわば神秘的なものとして、〈顔〉はある。それはある意味では〈私〉が構成した世界の外部から到来する。これはフッサールの唱えたような「自己投入」によって他者の存在を説明しようとする理論にあらがうものであるとも見れるだろう。したがって、私はそのようなものとしての〈他者〉の〈他性〉を、絶対に「所有」することができない。そうした試みはつねに失敗するか、不完全なものとしてしか経験されないだろう。たとえもっとも近しい恋人同士であるとしても、そうなのである。レヴィナスはじっさい、『全体性と無限』のなかで「愛撫」の例をあげて論じている。愛撫において、他者の身体は一方では「享受」へとさしむけられる。しかし他方、私が愛撫する指さきで探しもとめてやまない他者の他性それじしんは「いまだ存在しないもの」(p.169)であり、「無以下のもの」(p.172) である。それはそこにあらわれると同時に撤退していく。あるいはあらわれえないということじたいをあらわす。かくして愛撫の経験は必然的に挫折へと運命づけられているのだ。まことに興味ぶかい論考であるので、興味のある読者は下に挙げた参考文献にあたっていただきたい。


 最後に、こうした〈他者〉が現前することによって、〈私〉にどのような問題が立ちあらわれるのか、ということについて一言述べておくのがよいだろう。レヴィナスによれば、「無限の観念をあふれ出す無限なものは、私たちのうちにある自発的な自由を告発する」(p.82)。「無限なもの」が「他者」であることはすでにみた。他者が目の前にあらわれることによって、〈同〉へと回収しえないものがあるということを私ははじめて知り、自己満足的なこれまでの生のありかたがそこで揺さぶられる。そしてこのとき、外部から到来するこの絶対的に未知なる存在にたいして、〈私〉のとりうる態度はいったいどのようなものであるべきなのか、これがいよいよ切実な問いとして起こってくることになるだろう。これこそがまさしく「倫理」の起源なのである。


「〈他者〉の現前によって私の自発性がこのように問いただされることが、倫理と呼ばれる。〈他者〉の異邦性――《私》に、私の思考と所有に〈他者〉が還元されえないということ――が、まさに私の自発性が問いただされることとして、倫理として成就される。形而上学、超越、〈同〉によって〈他〉が迎えいれられること、つまり《私》が〈他者〉を迎えいれることは、具体的には、〈他〉によって〈同〉が問いただされることとして、言い換えるなら倫理として生起する」(p.62)


 〈他者〉の他性を〈同〉もとい「暴力」によって破壊することは、「倫理的に」不可能である。〈私〉は、それらを「迎えいれて(オスピタリテ)」いくしかないのだ。そして逆に言えば、他者の顔があらわれるとき、意味を表出するとき、それはほかでもなく〈私〉にむけて語りだされている。すると私には応答可能性としての責任が発生する。こうして私は、一箇の倫理的主体としての〈私〉を獲得することになるだろう。



参考文献

E・レヴィナス『全体性と無限(上・下)』熊野純彦訳、岩波文庫、2005 年

熊野純彦『レヴィナス 移ろいゆくものへの視線』岩波書店、1999 年

熊野純彦・吉沢夏子編『差異のエチカ』ナカニシヤ出版、2004 年

熊野純彦『レヴィナス入門』ちくま新書、1999 年

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