タケルは人生最大のバトルの場に立つ
タケルのスマートフォンが鳴った。
ハルトからである。通話ではなく、端的なメッセージのみ。
「来るってよ」
それだけであった。付いて歩いているハルが気にして画面を覗き込んだので、それを無言で見せてやった。
来るらしい。それならば、今夜だ。
どのみち外国の大学に行くなら、会う機会は減る。もしかすると、もう会うこともないかもしれない。向こうで仕事をすることになるかもしれぬし、そこで出会った人と結婚することもあるかもしれない。
それならばそれで、言っておかなければならないことがある。それを、自分の言葉で。そうしてタケルが示す日を、カンナはずっと待っていたのだ。
なぜ、待っていたのだろう。
カンナがそれを望むなら、自分から発信すれば話は早い。それをせず、待つ意味は。
ハルに聞いてみようかとも思ったが、やめた。
去年は全く気にも留めなかったが、金木犀というのはあちこちに咲くものらしい。住宅の生垣。公園。まるでタケルのことを追いかけるかのように咲いて、あの香りを放っている。
そして散り、蝋を塗ったような緑の葉だけになる。しかし、どうせまた咲くのだ。それを何度か繰り返せばタケルは二十代になり、五十代になり、そして彼の祖父母のようになる。
そのとき、カンナが素敵と言った祖父のようでいられるか。
それは、今の自分にしか決められない。
枕草子によれば、人の歳というのは季節に連動し、帆をかけた舟のように過ぎ去ってゆくものだからだ。
全ては、今日に繋がっている。全ての結果には、原因がある。
それを、タケルは知った。
頭の中にライムが浮かぶことは、めっきり少なくなっている。きっと、それは彼の心の揺れがもたらすものであるからだろう。
葛藤。興奮。悔悟。諦念。頭の中を支配しているそれらから我が心を守るために発せられる波。それが、彼のライムの原動力。
タケルは今、彼を支えようとする複数の存在のために、自らを殻の内に閉じ込めようとするものからある意味解放されている。
では、彼は、今から何を歌うというのか。
むしろ、カンナに問いたいくらいの気持ちであるかもしれない。金木犀の花のようにひとつ散ってはまた咲きを続け、なぜ、どうして、が彼の頭の中を繰り返し巡っている。
ひび割れたコンクリート、剥がれかけたアスファルト。頼りない街灯に、出しっ放しのポリバケツ。
その森の中に、彼のかつていた世界がある。いや、今もその世界の住人であると言うこともできるかもしれぬ。
そこからそう簡単に脱け出すことはできないし、べつにその必要もない。しかし、少なくとも、彼が何かから身を隠すようにしてそれをするよりも、いくらかはいいはずである。
もやもやとしたものが自分の周りを飛び交っているのはその名前のない散漫な思考が目に見える形になったものであるかとも思えたが、どうやら無意識に開いた防音扉の向こうの喫煙スペースからの煙であるらしい。さいきんではライブハウスといえども
いつまでも慕うようにまとわりつくそれを潜り抜け、受付へ。
「あら、久しぶり!」
カウンター越しのミサキと、ガードマン兼受付のリュウがタケルを迎えた。
「お、今日は女連れか。なるほど、どうりで最近見なかったわけだぜ」
「あのね。あたしとタケルは、そんなんじゃありませんから」
「お、こりゃ失礼。ぱっと見、友達以上恋人未満ってところかと思ってな」
「だってさ、タケル。やっぱあんた、あたしに乗り換えたら?」
「言ってろ」
ミサキからジンジャーエールを受け取り、リュウによってパス代わりのスタンプを押された手の甲で、内扉を開く。
久しぶりである。
重低音のキック、シーケンス。スポットライトに浮かぶ、二人の男。互いに睨み合い、ライムの技術を競う。折り重なる歓声、そして罵声。一人はハルト。向かい合うもう一人を、今まさに徹底的に叩きのめしたところであるらしい。
来いよ、とハルトがステージ上から手招きをする。それに向かって、タケルは首を振った。来いもなにも、まだ来ていないのだ。
ハルトから受けた連絡によれば、カンナは来るという。遅れているのか、来られなくなったのか。憮然としたタケルの喉を、炭酸が笑いながら通り過ぎてゆく。
どのみち、来たところで、何を歌うというのか。
なぜ、ここを選んだのか。どこか手近な公園や、それこそ図書室でもよかったではないか。それなのに、なぜ、ここなのか。この期に及んでなお自分の世界はここであると縋り、自分がそこに縛られている惨めな姿を見せるためならうってつけであるかもしれぬが、そのようなことはタケルの望むところではない。
ただ、ここでなくてはいけなかったのだ。
ここ以外に、なかったのだ。
べつにヒップホップは悪ではないし、やめるつもりもない。タケルにとってはなくてはならぬ場所なのだ。それ以前に、息をするくらい当たり前に、ここで言葉を吐いてきたのだ。
自分が、どうしたいか。自分が、何を選ぶか。それ自分の行動と言動で示す。
もしかすると、と彼は思った。カンナが待っていたのは、一方的にならぬためではないのかと。
カンナは、かつて言った。
「わたしは、選ぶ。誰といるかも、どう過ごすかも」
と。
もしかすると、タケルがそういう自らの意思による能動的選択を行うようになるのを、待っていたのかもしれぬ。そうしてはじめて、カンナは自分の意思をタケルに伝えることができるのかもしれぬ。
そうでなければ、カンナの意思に一方的にタケルが引きずられ、染まってしまう。
感化されやすいのだ。良くも悪くも。それを、カンナは鋭く見抜いている。ゆえに、自らの行動に対する責任として、タケルに強い接触を求めないのだ。
しかし、意思や希望は違う。カンナは、たしかに求めているのだろう。ただ単に枕草子を教えるだけなら手間以外のなにものでもないし、まさかほんとうにラップを教わりたいからその対価を支払うというようなつもりもないだろう。
タケルの思考とは、そのようなものだった。
それは、飲み下してぱちりと弾けるジンジャーエールと共に破れた。
「お兄ちゃん!」
流れ続けるシーケンスに負けぬよう、声を張り上げて呼ぶ声。メグだ。
「なんだよ。留守番はどうした」
「いいの。今夜は、わたしがカボチャの馬車の
「何言ってんだ。意味わかんねえ」
まだ、息が上がっている。歩けない距離ではないが、タケルらを見送ったあと思い直して駆け出し、電車に乗って駅からここまで走ってきたのだろう。
それほどまでして、何を見守るというのか。彼女が馭者だとしたら、それが操る馬はタケルをどこに連れてゆくのか。
いや、ここは城。舞踏会は始まり、夜は自らの後ろ。白黒どちらにしろ、今夜なのだ。むしろ、タケルがガラスの靴を手握りしている。それを履くはずのシンデレラは、まだ来ない。
ステージ脇の大口径スピーカーから、声。
「おい、ロン毛のチビ。怖気付いたのかよ」
ハルトが、
大歓声。
フロアの誰もがタケルに好奇の視線を注ぎ、あらたな挑戦者としてステージに上がることを期待している。
──上がれ。上がれ。上がれ。
その
「タケル。いつもみたいに、カッコつけてきなさいよ」
「お兄ちゃん」
二人が、淡く笑う。さらに煽る、聴衆の声。
──
プラスチックのカップがスーパースローで落ちるようなドラマチックでダイナミックさなどない。ただタケルは、それをメグにぐいと手渡した。
「負けちゃねえ。終わっちゃねえ。こっからだ」
フロアを支配する、騒音以外のなにものでもない音など存在せぬかのようにいつもと変わらぬ様子で普通に歩き、ステージへ。身のこなしは、相変わらず軽い。
両膝を大きく広げた行儀の悪い座り方のまま、ハルトを睨み上げる。
さらに大歓声。今、この空間の熱量は最高潮に達した。
「来たな、負け犬のチビ」
「うるせー、海兵隊」
「おいおい、ちょっと待て」
ハルトの声がいきなり転調したので、タケルは戸惑った。こんな呼びかけ方、ステージの上ではあり得ない。これでは、まるで、
──
「対戦相手を間違えんな。誰彼構わずフッ掛けるのは、悪い癖だぜ。次トラブったら、マジで出禁だからな」
M Cが、なぜか楽しむような顔をライトに浮かべている。ハルトにも、同じものがあった。また、マイクを口元に。
「お前の相手は、俺じゃねえ。お呼びじゃないんだよ、ド三流。それより、お前にこそ相応しい相手がいるだろうがよ」
そう言ってステージ袖に眼をやり、頷いた。
薄手のパーカーを着て、そのフードを深く被り、できるだけ緩やかなデザインのパンツで足元を固め、スニーカーを覗かせた人間。それも女。
タケルの血が、沸騰したまま凍った。
耳の中で鳴る音。それは自らの鼓動。固い、固い氷のようなものが、血の管を掻き分けながら泳ぐ音。
あちこちにばらばらに散らばったものが、磁力でもって互いに惹き合って寄り集まり、今目の前のものを形作るような。
うっすらと桃色を唇に咲かせ、それが笑っている。
「ラッパーのつもり?」
それが、辛うじて発することのできた言葉。フードの奥の唇がぱっと開き、笑い声が漏れた。
「なにこれ、すごく恥ずかしい。だから嫌だって言ったのに」
フードを外し、そこから現れたカンナの顔を真っ赤にしながら、俄か造りのラッパーはハルトに照れ隠しの抗議をした。
「さあ、本日のメインバトルだ!永遠のルーザーの汚名を、タケルが今夜完全に打ち砕く!ここにいる全員が証人だ、いいな!」
M Cの呼びかけに、フロアの全員が
「それで、何?」
サイズオーバーの長い袖から爪先だけ出して、カンナが上目でタケルを見た。
スポットライト。知らず、タケルに突き刺さる。
古びたミラーボール、黒ずんだ床、ダクトむき出しの天井。
腹を揺さぶる重低音。重ねて流れるシーケンス。タケル好みの、マイナーキー。
ぶつけるのだ。
自分の言葉で、何を選ぶか。どうしたいのかを。
カンナは、ずっとそれを待っていた。タケルが自分と同じ世界に来るのを。そこで、言葉を交わすのを。
もう、心の内にある壁はない。
あるのは、掌に固く握り締められた
鋭く。
彼を見た瞬間の印象そのままの、カミソリのように。
鋭く、息を吸った。
そして、言葉として吐き出した。
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