タケルは目指したテッペンへの扉を開く
どうやら三百段あたりからは収録されている本とそうでないものがあるらしく、タケルの手元にあるカンナのものは完全版とされていて、つらつらと服装や鏡のサイズのことなどが書き連ねられていた。
なぜか、それまでの熱量のある言葉の数々とは打って変わって、ひどく端的で、なにか書き疲れたかのような印象を受けた。
ハルも、宣言通り手伝ってくれた。
『仏参りに行ったら、わけのわからぬ連中がひしめいていて、こっちは大変な思いで行ったのにそれがイラついて突き倒してやりたくなる。身分の高い人間が来るときはそういう連中を入れぬようにするものだが、自分のときはそうでなかったこともまた腹が立つ。あと、櫛を汚いところに落としてそれも最悪』
「今更だけど、あんた、すごいわね。わたしよりよく理解できてるじゃない」
ハルの成績は悪くない。それでも古典というのは授業のために修めているものであり、意味が分からない言葉や言い回しなどが多くあるらしい。それでも音を上げず、付き合った。
「お前みたいなこと言ってるぞ」
「馬鹿。あたしはこんなに短気じゃない」
この段の内容は、清少納言らしい切れ味があり、なにか気が向くことがあったのかと思えた。
しかし、もう、残りのページは数枚になってしまっている。
いよいよである。
現代語訳を見ずに、皺だらけになったタケルのノートと脳とを頼りに読み解こうとページをめくる。
『牛車を借りるとき、牛を叱咤する者の声が大きかったり鞭打つのが強かったりすると嫌な気分になる。しっかりした人の車はそれを操る牛飼いへの教育もしっかりとしている』
これが、最後だった。
そして、次のページ。あとがきのようなもので締めくくられていた。
最後の最後で退屈な文章が目立つようになり、少し残念な気持ちになりながらそれに通した目が、止まった。
『これは、自分が見聞きしたものについて、それが人の目につくことがあるかもしれないと思い、退屈な暮らしの間にあれこれ書いたが、ちょっとばかり口が悪いようにも思えるから隠していたつもりが、思いがけなく世間に漏れてしまったようだ。
人に紙をもらって、それに何を書こうかと尋ねたりするうち、その紙を全て使い切ってしまうくらいにあれこれと書きまくってしまい、今見返しても正体がまるで分からないようなものばかりである。
自分の琴線に触れるものを取り上げ、歌、鳥、虫のことなんかも書いているから、人に言わせればあざといものだろう。
とにかく自分の思うままの世界をあらわしただけなのだから、立派なものを書く名のある人と並ぶようなものであるはずがないと思っていたら、とても良いと言う人もいるから、妙な気分である。
人が嫌がるものを好み、好むものを嫌うような底の浅い人に比べればいくらかましではあろうが、とにかくこれは人に見られるべきものではなく、その意味でとても残念である』
終わった。
笑いたくなった。
これだけつらつらと書いておいて、最後はこれである。おそらくこの後書きのようなものは本文が終わってから時間を経て書かれたものであろうが、笑いたくなるくらい言い訳がましい。
「楽しそうね」
メグが部屋のドアを開き、覗いていた。
事故で怪我をしたことが嘘のように、意地悪な笑みを浮かべている。
「あ、もしかして、読み終わった?」
つつと足を滑らせてタケルの側に来て、手元を覗き込んだ。
その脇には、三冊にものぼるノート。意味を読解するために用いたものが、いつの間にかこれほどの量になっていた。そして、最後のページ。
「すごい。このところ、土日のたびに二人で頑張ってると思ったら。ついに、やったね」
「ありがとう、メグちゃん。馬鹿の相手はもう懲り懲りよ」
「うるせえ。誰だよ、てんで見当違いの訳を挟んで邪魔ばっかしてた奴は」
「──タケル」
ハルが、じっとタケルを見つめている。
視線が刺さると、やはり少し気後れがする。
「なんだよ」
「あんた、そんな顔で笑う人だっけ」
それを聞いたメグが嬉しそうにする。彼女も同感であるらしい。
思えば、タケルというのはいつの頃からか、仏頂面で声の色の変化に乏しく、笑わないようになっていた。笑ったとしても口の端に皺を寄せる程度のもので、いつも怏々として愉しまずといった風であった。
そのタケルが、目尻までくしゃくしゃにして白い歯を見せて笑っているのだ。これは、長年彼を見守ってきた二人にとっては、天地創造にも等しい。さながら無から有が生まれた瞬間に立ち会ったような衝撃と、それがもたらす喜びと、そしてタケルの笑顔につられてこぼれる、同じ笑顔がそこにあった。
「その次のページ。見てみなさい」
本文が終わり、出版社のことや初版の日付が書かれているページ。そこにまで目を通すよう、ハルは促した。
言われるままにして、タケルの顔から笑みが消えた。
「ずっと、迷ってる。あなたとこのまま、もっと仲良くなりたい。だけど、決めたことがある。あなたは、どうしたい?あなたは、なにを選ぶ?」
カンナの字だろう。もうすっかり金木犀の移り香は消えているはずなのに、そこから確かにあの甘く苦い香りが漂った。
ふと見ると、薄く開けた窓から見える向かいの家の生垣として手入れされている金木犀が、花をつけていた。
シャーペンで書かれたカンナの言葉は、とても細かく、さらに語る。
「わたしは、選びたい。それを、自分の言葉で、あなたに伝えたい。そして、お願いしたいことがある。だから、そのときを待ってる」
タケルはメグとハルに覗き込まれているのを無視しながら、黙ってその香りを聞いている。少ししてから本を閉じ、代わりにスマートフォンを手に取った。
「──俺だ。いや、べつに、どうもしない。頼みたいことがあるんだ」
誰かと、通話をしている。
「乾カンナと連絡取り合ってたろ。呼べ。今夜。いつものライブハウスだ。無理なら、いつなら来れるか聞いてほしい」
しばらく通話の相手の言うことを聞いて、頼む、と言い、切った。
「誰?」
メグが心配そうな顔を向ける。
「ハルトだ」
それだけ言うと、メグもハルもタケルが何をしようとしているのか察しがついた。
「あたしも、一緒に行くわ」
「来んな。めんどくせえ」
「いいえ、行きますからね。最後まで付き合うって言ったでしょ。それとも何?あんたの枕草子は、原文に自分なりの下手くそな訳を付け加えて終わりなわけ?」
押し問答をしても無駄である。好きにしろと言うと、ハルは嬉しそうにした。
「あたしは、待ってるね。お母さんの夕飯の支度、手伝わなきゃ」
「わかった」
「今夜も、ちゃんとシンデレラでお願いね」
「ああ、そうする」
まだ、今夜来るかどうか分からない。カンナの都合もあるのだ。用事があるかもしれないし、ハルトからの連絡に気付かないかもしれない。それでも、タケルはトレードマークになっているいつものトラックスーツを羽織り、ハルを伴って玄関へ。
この季節の夕暮れは早い。
その淡い色によく似合う香りが漂う世界への扉を、メグに見送られながらその手で開いた。
ゆくのだ。
そこが、
そこへ、今から。
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