第五段 あおはるはあけぼの

タケルは過ぎに過ぐるものを知る

 それから、タケルは、ひたすら枕草子を読みふけった。夏休みが終わり、停学期間も終わり、通学を再開しても、なお。

 授業中も、枕草子を手放すことはなかった。暴力事件を起こして停学を食らってそれが解けたタケルがいきなり古典を読みふけっているのを遠巻きに見るクラスメイトは気味悪がっている。ハルだけは理解を示しているようで、休み時間の度に話しかけてきて、タケルが読解に困っている箇所について手ほどきをしたりした。


「それにしても、すごいわね。あんたが、こんなに読み進めるなんて」


 ハルが感心半分、あとは呆れというような様子で頬杖をつく。


「うるせー、いいから続きだ」


 クラスメイトの間では、タケルとハルがいい仲だという噂が広まっている。ハルはまんざらでもないらしくへらへらと笑っているが、タケルは気に食わない。しかし、それをいちいち訂正する時間すら惜しい。


 ──ほんとうはどうなのか、お互い知ってる。人がそれを見てあれこれ憶測するのなんて、放っておけばいい。


 そう思っている。

 九月もあっという間に過ぎ、十月になった。図書室には、一度も行っていない。

 どうせ、カンナはセンター試験の準備とやらで忙しいだろうから、図書室などに顔を出すはずがないのだ。


 行っていないといえば、ライブハウスもそうである。久しく顔を出しておらず、心配したのかハルトが連絡を入れてきた。


 ──さいきん見ないけど、元気か?また俺にボコられに来い。

 ──言ってろ、カス野郎。


 そういうやり取りをした。ハルトはそれでタケルが普段通りであることが分かったのか、何も言ってこなくなった。


 全てを、枕草子に注ぎ込んだ。夕飯のときも、手放すことはなかった。

 そこに綴られるあらゆる言葉が、カンナの声で再生された。それはいつも、不思議と現代語訳の方ではなく、原文の方だった。


『ただ過ぎに過ぐるもの。帆かけたる舟。人の齢。春夏秋冬』

 ――気付けば過ぎ去っているものといえば、帆をかけた舟に、人の年齢。それに、季節。


 文字から、言葉から、金木犀きんもくせいの香りが。花のない紫陽花あじさいの緑が。蝉の雨が。それに濡れたアスファルトが。揺らぐコンクリートが。向かってくるヘッドライトが。追い越してゆくテールランプが。垂れ落ちるような赤が、薄っぺらい黒が、アクリルの青が。

 それらが粘性の低い濁流となり、タケルの中を駆け回ってゆく。

 それは、ヒップホップだった。

 紛れもなく、ヒップホップだった。声なき声で、歌う歌。音なき音で、揺れる脈。それが、たしかにそこにあった。それこそが、タケルの求めたものの一部だった。

 一部であるということは、全部ではない。その全てを得るには彼はあまりにも未熟で、無知で、不器用であった。それを補おうとしているのか、それとも全く別の何かを手にしようとしているのか、彼自身にも分からない。だが、タケルは、今ここに確かに存在するものをその目で見て、感じていた。


「メグちゃん、元気になってよかったね」


 ハルがメグのことに話題を向けてきた。それに、タケルはぶっきらぼうに鼻を鳴らして答えた。


「報せを聞いたときはびっくりしたけど。でも軽症でよかった。すぐ退院もできたし」

「ああ」

「――自分のせいだって思ってるの?」

「いや、思ってない」

「じゃあ、誰のせい?」

「誰のせいでもない。メグはそう思ってる。だから、それでいい」

「偉い」


 ハルがおもむろに手を伸ばしてきて、タケルのツイストパーマを乱暴に撫で回した。刺さるクラスメイトからの視線に耐えかねて思わず払いのけたが、ハルは満足そうだった。


「メグちゃんに、感謝なさいよ。あれだけお兄ちゃん大好きっ子だったのに、その愛するお兄ちゃんの恋を応援しようって勇気を出したんだから」

「うるせーな。そんなんじゃねえ」

「素直じゃないのね。こんなに一生懸命勉強してるくせに」

「殺すぞ」

「はいはい、ほら、続きでしょ」



 そんな調子で休み時間が、その日が、日々が過ぎ去った。まさに、枕草子に書いてある通りである。

 そして、秋がその顔を大きくして幅を利かせながら街を闊歩する頃になった。タケルは相変わらず枕草子を読み続け、ついに残すところあと僅かというところまで来ていた。

 帰宅途中、例の三本ラインのトラックスーツを身に纏い、ぼろぼろになったカンナの枕草子を手握りしたタケルを、ハルが呼び止めた。


「ねえ、あんた、聞いた?」

「なにを」

「カンナ先輩のこと」

「だから、なにを」

「もしかして、知ってた?だから、あんなに一生懸命枕草子を――」

「早く言えよ」


 今から告げようとしていることをタケルがまだ知らぬものだと確信したハルは、その顔色を窺いながら、恐るべきことを口にした。


「カンナ先輩、外国の大学に行くんだって。イギリスだったかフランスだったか忘れたけど」


 絶句。カンナが先に卒業して大学生になっても、どこかでまた会えると思っていた。それ以前に、カンナとこの先どうにかなるというようなことを己の未来に重ねて考えていなかった。

 しかし、外国の大学に行くとなれば、どうだ。一年に何回帰ってくるのだろう。街を歩いていてふらりとすれ違うこともないし、また誰かに絡まれても助けにゆけぬ場所である。枕草子を教えろとせがんでも教えてはもらえぬし、ラップを教えるというあの場だけの約束も果たすことはできぬ。

 ほんとうに、清少納言の言う通りだった。

 帆をかけた舟のように、あるいは季節のように。時間とは、知らぬ間に過ぎているのだ。そして、限りがあるのだ。

 タケルの頭の中のそのくだりには、続きがあった。彼の記憶が確かなら、二四五段。

 ――気付けば過ぎ去っているものといえば、帆をかけた舟に、人の年齢。それに、季節。どのみち、そうなんだ。明日になれば、もう今日は過ぎ去ってしまっている。だから、今できることを今するしかない。


 これだったのか、と思った。カンナが突然、タケルとの接触をやめようとしたのは。関わりを持ちはじめた頃はまだ外国の大学に行くというのを決めかねていて、しかし、どこかのタイミングでそれを決意して、だから心残りにならぬよう、タケルとの関わりを終えようとしたのか、と想像した。

 しかし、なぜ。それならば、カンナはタケルとの関わりを心残りだと思っているということになる。まさか、と思う。

 そして、なにがきっかけで。それについては、想像できた。

 カンナがタケルのステージを見ようとライブハウスまで駆けつけてきたが、既に終演していて見れず、ハルと仲良く過ごしている姿だけを見たとき。

 それが、カンナの言う、


「借り物の言葉でしか繋がっていられないんだとあのライブハウスの前であなたを見て思った瞬間、わたしはあなたの前にはいられなくなった」


 ということの内訳なのであろう。

 混乱する。

 それを打ち破ったのは、またハルであった。


「言っとくけど、あんたの頭の中は、お見通しだからね」

「は?」

「あんた今、カンナ先輩が、自分のことを好きなんじゃないか、いや、そんなはずはない、とか思ってるでしょ」


 タケルは、答えない。まさにその通りだからだ。なぜか、考えてはいけないことのような気がして、とても口に出せたものではない。


「あんた、ほんとうに馬鹿なのね。メグちゃんのことがあった日、カンナ先輩、別れ際に何て言ったの?」

「俺の枕草子が終わっちゃいないって、ほんとうか、って」

「でしょ。前に聞いたわ。で、あんたは何て答えたって?」

「その通りだ、みたいなことを」

「で、カンナ先輩は?」


 待ってる。カンナは、確かにそう言った。

 なにを待つのか。どうなれば、それを果たせるのか。


「あんた、最後のページ、まだ見てないのね」

「見てない。順番に進んでる。こないだ、二九九段まで来たじゃねえか」

「そういうことじゃなくて。見てないのね?」

「なんだよ。うるせえな」


 ハルが、やってられないといった具合に溜め息をついた。それがふわりと制服のブラウスの襟元のリボンを揺らし、いつもの高級な香水とは違う匂いを運んだ。それを嗅ぎ取ったタケルの表情を見て、得意げに笑う。


「気付いた?あんた、男が上がったわね」

「――金木犀」

「正解ー。カンナ先輩と同じ匂いなら、ってワンチャン狙ってたんだけど。駄目ね。馬鹿」

「何言ってんだ」


 ハルがタケルに好意を持っていることは、知っている。だが、どこまでいっても口うるさい幼馴染でしかないのだ。その彼女がタケルのツイストパーマを強く引いた。


「あんたって人は、ほんとに愚直ね。あ、これはけなしてるからね。つけ上がるんじゃないわよ。何この髪型、ダッサ。最悪。ちゃんと洗ってんの?なんかベトベトなんだけど」

「ほっとけよ」

「いつまで経っても、甘えんぼね。いいわ、思うようにやりなさい。ただし、カンナ先輩が日本からいなくなるまでの間に、必ず最後のページまで読み終えること。仕方ないから、付き合ってあげるわ。とことんね」


 タケルはわけが分からぬまま、頷いた。

 そのまま帰宅し、また枕草子を開いた。最後のページというのが、この本の読解を完遂するというだけの意味合いとは違うように思え、どういうことなのか気になったが、やはりここは初志貫徹ということで見ないことにした。

 あと二十四段。どのみち、すぐにたどり着く。清少納言の言うことが正しいなら、時間というのは流れるままに過ぎてゆくのだから。

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