カンナは午後六時二十五分のテールランプを目に宿す

「もう、夏休みも終わりだね」


 白状すると言った割には、カンナは全く関係ない話題を持ち出した。


「夏休みが終われば、知らない間に秋が来て、冬が来て、春が来て。そうすれば、わたしも大学生」


 自然の摂理である。タケルもそれに従って最上級生になれるかどうかは定かではないが、カンナの世界においてはそれは定理だった。


「夏川くんは、ずっと夏みたいにして過ごすのかな」

「どういう意味だよ」

「なんとなく、そんなイメージ。皆がちょっと迷惑がるけど、でも、それなくして過ごすことはできない。そんな感じ。苗字にも夏が入ってるしね」


 やはり、カンナの言葉には圧力のようなものがある。タケルが世間から疎んじられているのを自認していることを知った上で、そう言うのだ。


 陽が、暮れかかっている。

 少し前までなら、この時間でももっと明るかった。台風は我が物顔で列島を通り過ぎてゆくし、世の高校生は今頃山積みになった宿題の処理方法について模索をする頃であろう。


「それで、何を白状するんだよ」


 このまま取り留めもない話をして日を暮らすつもりはなかった。

 自分が追ってくると確信していたような様子のカンナは、一体何を白状しようというのだろうか。


「そう、枕草子のこと」

「ああ。納得いかないね。あんたから、教えようかと持ちかけてきた。あの本だって、俺が図書室から借りパクしないようにと、あんたが手渡してくれた。だけど、あんたから、枕草子はもう終わりだと言った。受け身だったとはいえ、俺は望んだ。だから、それが突然絶たれたことについて、なんでなのか理解したいんだ」

「夏川くん、そういう物言いするんだ──」


 と呼吸を挟んでから白い前歯をウサギのようにちらつかせて笑い、継いだ。


「あなたがどうしたいのか、何が腑に落ちないのか、すごくよく分かった」


 前置きはいい。そう思ったが、言わずに待った。


「夏川くんのお祖父じいさんとお祖母ばあさん、素敵ね」

「うちの?ああ、まあな。いい爺さんと、いい婆さんだ」

「夏川くんも、あんなお爺さんになるのかな」


 また、関係ない話をしている。そう思ったが、カンナから理由を聞き出さなければならないタケルはかえって焦ることなく、それを待つことができた。


「お父さんも、たじたじだったね」

「まあな。妙な爺さんだが、空手も柔道も黒帯、剣道も何段とかいうくらいだから、親父の小さい頃なんかは怖かったんだろう」

「じゃあ、夏川くんと同じだね」


 自分とは違う。自分は黒帯もなければ段もなく、誰かが認めた知識や技術を示すあらゆる資格や称号を持たない野良犬である。だから、自分は祖父とは違うし、祖父のようにはなれない。そう思った。


「とにかく、素敵なお祖父さんとお祖母さん」


 父母とは仲は悪いが、祖父母のことを褒められるとなんとなく嬉しい気持ちになることができた。

 そこで、普段、なにかを嬉しい、楽しい、と思うことが極めて少ないことに気がついた。

 ヒップホップに打ち込んでいても、それを楽しいと感じていたかどうか。今振り返っても、判然としない。

 ただ目の前の現実のみがそこにあり、それから目を背けるための手段としての有用性を感じていたことは間違いないが、それはタケルに己の無力と無価値を突き付ける十分な材料であった。


 陽は、もう沈んでいる。腕に巻き付いた時計は、午後六時二十五分。まだ西の空は赤く、そのアクリル絵の具と同じ透明な赤に水墨画のように浮かぶビルのミスマッチが徐々に覆いかぶさっている。


「わたしね」


 カンナは声の色をその風景と同じものにした。


「怖くって」

「怖い?」

「うん、怖い」


 なにが、とみじかく言うタケルのツイストパーマが、少し揺れた。夕凪が終わり、夜の方に向かって吹く風のせいだろう。


「夏川くんを知って、夏川くんを知ろうとして、怖くなった」


 どういう意味なのか測りかねた。だから、髪が揺れるに任せて待った。


「夏川くんの周りには、夏川くんを必要としている人がたくさんいて。その人たちは、みんな夏川くんのことが大好きで」

「そんなことない」

「いいえ、ある」


 タケルに吹くのと同じ風がカンナの髪を弄び、その唇を叩いている。それをそっと摘んであるべき場所に戻し、笑う。


「わたしとあなたを繋ぐのは、枕草子。でも、あなたは、あのライブハウスの中で生きている人。そうじゃなければ、メグさんやハルさんのいる世界で生きている人。みんな、自分の言葉と行動で思いを表す人。その中に、清少納言が書いた借り物の言葉しか使えないわたしが混じるのが、怖い」


 赤と黒に、カンナは完全に溶け込んだ。手を伸ばして掴み止めないとそのまま消えてしまいそうだと思った。


「わたしは、選びたい。誰と、どう過ごすのかを。だから、借り物の言葉でしか繋がっていられないんだとあのライブハウスの前であなたを見て思った瞬間、わたしはあなたの前にはいられなくなった」


 だから、枕草子は終わった。

 カンナは、自分の言葉で、そう言った。


「終わっちゃいねえ」


 先ほどまでは無かったはずの、赤に混じりかけている群青を睨み付け、タケルは呟いた。


「勝手に、終わらせんな。終わっちゃいねえ。俺はまだ途中までしか読んでない。あんたがくれた本だ。俺が枕草子を手放したくないって意思をもって、あんたから受け取った本だ。あんたの言葉を借りるなら、俺は自分の言葉と行動で、自分の意思を表している」

「それが、あなたの意思──」

「そうだ。ヒップホップは、俺がこの世界に対して積んだ壁。この髪型も、服装も、言動も、全部。受け身の中でしか生きていなかった俺が、自分の意思を持ったのが、枕草子だった」


 二人の間では、枕草子という比喩が成立している。だから、この会話には不自然さはない。


「そう。じゃあ、最後まで読んでくれるの?」

「ああ。あんたに教えられなくとも、必ず」

「そう」


 カンナの表情は、やはり赤と黒とわずかに混じる青だった。駐車場から発進しようとする自動車のヘッドライトがそれを照らし、少しの間、あるべき色をもたらした。

 それでも、その目は赤いままだった。

 大きくハンドルを切りながら脇を通り過ぎてゆくテールランプの光がそのまま滴になって目に溜まり、今にもこぼれそうだった。


「待ってる」


 そう言い残し、遠ざかってゆく車のテールランプとほんとうに一つになった。

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