タケルはいつも追いかけて行く

「父さんと母さんには、俺から連絡しておいた。すぐ来るそうだ。なあに、心配ないさ、タケル


 祖父が落ち着いた様子で笑うのを見て、なんとなく心が軽くなるような気がした。


「こちらは?」


 と脇のカンナのことを訊くのにどう答えていいか分からず、曖昧に笑う。

 そのタケルの前にすっと出て、丁寧にお辞儀をし、カンナが挨拶をする。


「夏川くんと同じ学校の、乾カンナです」

「付き添っていてくれているんだね、尊に」


 恵実メグにではなく尊に、とわざわざ付け加え、祖父は笑った。


「おじいちゃん、おばあちゃん、ありがとう。わたしは、大丈夫」


 メグがベッドの上から弱々しい声ながら笑うのを見て、祖父母は互いに顔を合わせ、頷いた。


「なにも心配することはないぞ、恵実。爺ちゃんも、婆ちゃんも付いてる。お前のとんでもない兄貴も、カンナさんもいる。もうすぐ、父さんと母さんも来る。みんな、お前のところに来る。みんながついてる。だから、心配することはない」


 そう言ってメグの少し日に焼けた頬に掌をそっと重ねてやる祖父の背を、タケルは見ていた。



「恵実!」


 しばらく談笑していると、父と母が駆け込んできた。


「何があったんだ。大丈夫なのか」

「それは、医者に聞けよ」


 父が鋭い声を発するタケルを顧みて睨みつける。


「なんだ、その態度は。妹がこんな大変な目に合ってるのに、お前って奴は──」

「仕事、仕事、仕事。何回連絡したと思ってんだ。偉そうな口利くくらいなら、緊急の電話くらいすぐに出やがれ」

「大事な契約の日だったんだ。仕方ないだろ」

「はっ、そうやって家族のためにっていう大義を振り回してりゃ、楽だろうな。自分が母さんやこいつのことを放棄してる隠れ蓑にできるもんな」

「お前──」


 タケルの胸ぐらを掴みかけた父の手を、祖父が目にも止まらぬ速さで捻り上げた。


「やめろ、二人とも。場をわきまえろ」

「い、痛い、親父、やめろ」

「お前って奴は、いつまでも子供のままだ。自分が正しい。自分だけは間違っていない。緊急の連絡がつかないこともあるだろう。お前の言うようにどうしても出られない、たまたま携帯から目を離していた、腹の調子が悪かった、理由や事情はそのときそれぞれだろう」

「そ、そうだ、親父。俺だって、分かってればすぐに出たさ」

「そうだろうとも。そこまで人でなしに育てた覚えはない」


 祖父はゆったりと笑ったが、捉えた父の腕に込めた力をさらに強くした。


「だから、ごめんなさい、だろう。駆け付けるのが遅れて済まなかった、不安な思いをさせて済まなかった、だろう」


 祖父が離した腕を抑え、父は俯いて黙った。窓の外を向いて同じ表情をしているタケルにも、祖父は言葉をかけた。


「お前もだ、タケル。不安な気持ちは分かる。しかし、お前の父さんはここに来た。来たのだから、責めても仕様があるまい」


 正論に、ぐうの音も出ない子と孫を交互に見て、祖父が溜め息をつく。


「全く。誰に似たんだか」

「あなたの若い頃、そのまんまですね」


 満面の笑みで祖母が言うと、一座の空気は和らいだ。ばつが悪そうに頭を掻く祖父が、気を取り直してまた口を開く。


「恵実は、無事だった。今ここで彼女の前でお前たちが反目しあって、何になる。お互いの感情はあるだろう。しかし、それをぶつけ合うことに意味はないんだ」


 祖父が言うと、父も黙る。どうやら、幾つになっても親には頭が上がらぬものらしい。

 母は母で何も言わず、父の苛立ちが収まってゆくのを見て胸を撫で下ろしているようであった。

 そういう二人を見てタケルはまた苛立つわけであるが、ここは祖父に免じてこれ以上追求するわけにはいかない。

 なにより、メグが悲しむ。また自分のせいだと自分を責めてしまうかもしれぬ。それだけは避けなければならない。


「お兄ちゃん」


 タケルが自分のことについてなにごとかを考えているのが分かるのか、メグがタケルに呼びかけた。


「今日はもう、大丈夫だから。お爺ちゃんもお婆ちゃんも、お父さんもお母さんもいるし」

「ああ、そうかよ」

「だから、わたしのことは心配しないで」


 もう帰っていい、ということであろうか。いや、そんなはずはない。メグは、自分に一番そばにいてほしいはずである。それなのに、今日はもう大丈夫だなどと、なぜ言うのか。


「メグさん。ほんとうに、大丈夫?」


 なぜか、カンナが念を押した。

 タケルがこんなに大人しそうで賢そうな美少女と共にいるということがどういうことなのか理解できず父も母も目を丸くしている。

 それに向かってカンナはぺこりと一礼をし、


「メグさんも大丈夫みたいだし、わたしはそろそろ」

「付き添ってくださって、ありがとうね。ええと──」

「乾カンナちゃんだ。タケルのだよ」


 窺うような声色の母に向かって、祖父が笑った。それに、カンナは同じ笑みを返して答えた。


「いいえ、違います」


 おや、という顔を祖父がした。父と母は、なぜかほっとしたような表情であった。


「じゃあ、夏川くん。わたしは、これで」

「──ああ」


 タケルは、そう答えるしかない。

 メグに笑いかけ、他の家族に向かってお辞儀をし、カンナが病室のドアに手をかけた。


「夏川くん、さっき言ったこと、ほんとう?」


 憂いのある金木犀の香りが、遠ざかってゆく。それに向かって思わず手を伸ばしそうになるのを辛うじてこらえ、応えた。


「──なにが」

「枕草子はまだ終わってない、って」

「ああ、まだ終わっちゃいない」

「そう」


 カンナはなぜか困ったように笑い、廊下に身を滑らせた。

 しばし、沈黙。窓の外の青い銀杏いちょうに預けたタケルの目線を、メグが引き戻す。


「お兄ちゃん」


 兄妹でよく似ている、と親戚などにもよく言われる目である。


「行って。追いかけて」

「なんでだよ」

「そうだぞ、尊。行け」

「爺ちゃんまで、どうしたんだ」

「いいから、行け。俺の孫なら、今すぐに」

「あらあら、お爺さんもわたしをそうして追いかけてきて下さったものね」


 祖父母は穏やかに微笑み、メグは唇を一文字に引き結んで頷き、父母は何が何だか分からぬといった具合の顔。それらを残し、タケルは衝き動かされるようにして廊下へ駆け出した。

 そこに充満する病院の酸い臭いの中、彼の行くべき先を示す導のように舞う、目に見えない金木犀の花弁を追って、追って、追って。

 いつも、追いかけていた。何を。何かを。その名前のないものが今、実際に目で見て手で触れて耳で聴いて鼻で嗅げるものとなって、タケルから遠ざかってゆこうとしているのだ。

 いつも、追いかけていた。だから、今も。


 病院の中は走ってはいけない。それは分かっている。だが、今、タケルは走らなければならなかった。

 迷惑そうな視線を向けてくる子連れの親も、なにごとかと呼び止めようとする医師も、叱責する声を飛ばしてくる警備員も、車椅子も、点滴のぶら下がったストレッチャーで運ばれる人も、老人ばかりの待合も、全て追い越した。


 頭の中に言葉はいつも渦巻いていて、それが律動リズムを持ち拍動ビートになり脈動グルーヴになる。知らずのうち、タケルの世界の中はその渦で満たされている。しかしその世界を守る壁の亀裂の存在が明らかになり、壁の崩壊を目の当たりにし、彼はそれを半分失った。

 だが、カンナを救わんと息を切らせ、彼女に迫る危機を蹴散らかしているまさにそのとき、それは確かにあった。

 まだ終わっちゃいない。

 枕草子は、まだ。


「おい!」


 もう少しましな呼びかけはないものかとうんざりした。こういうときに適切であると思われるような手法の前例を下らないテレビドラマか何かで見たことがないはずはないのに、自分のするようにしかできなかった。

 それでよかった。どう呼びかけるかを考えて足踏みをし、立ち止まるのは御免だった。五年経ったとしても骨張った言葉と態度ばかり振り回し、上手くできるようにはならぬかもしれない。だが、いつも、向かうべきは正面だった。

 だから、その後姿を、振り向かせる必要があった。


「──どうしたの」


 こいつ、と心のどこかで思った。

 待っていやがった。追いかけてくると、思っていやがった。振り向き方、表情、声の色、その全てがそれを表していた。

 そこには、紛れもないあの夜の女神が、そして人の心を抉り去る悪魔が、そしてカンナそのものがいた。


「ちゃんと、説明してもらおうじゃねえか」

「なにを」

「枕草子教えるって言っといて、急にもうおしまい、ってどういうことだよ」


 病院の駐車場のアスファルトと車のボンネットの熱気が、世界を小刻みに振動させている。

 その中でカンナはまた困ったように笑い、みじかい呼吸をひとつした。


「仕方ないなあ。白状する」

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