タケルの枕草子はまだ終わっていない
「大丈夫。妹さん──メグさんは、きっと」
救急車に揺られるタケルの手を、一緒に乗り込んだカンナがそっと握った。
何が大丈夫なのかは、カンナにも分からない。実際にメグは今怪我をして、意識がない状態なのだから。
己の行いが、己に結果をもたらす。
そういう教えを、かつて教師だったか親だったかテレビだったかから受けた記憶がある。タケルは今、そのことを考えている。
あれをしていなければ、もしこうであったなら、などと考えるだけ無駄であることは彼も分かっている。しかし、それをせざるを得ないほど、彼の前の現実は残酷だった。
守ると決めたのだ。それなのに、また自分のせいで。
もっと、普通の高校生であったなら。
勉強をし、テストの点が良かったとか悪かったとかクラスメイトと言い合って笑い、部活に所属して終われば塾に行き、帰って家族と団欒しながらバラエティを見て、休日はテレビゲームか友達とカラオケ。
タケルの世界がそんなだったら、メグは苦労もなく日々を過ごし、今こんな風になってストレッチャーに横たわってはいなかっただろう。
守るとは。
喧嘩をして相手を叩きのめすことではない。
ステージの上でのバトルに勝ち、対戦相手を沈黙させることではない。
そこまでは、骨に染みるほどに理解した。しかし、その続きが見当たらず、途中で描くのをやめた水彩画のようになって彼の前に広がっている。
自分を呼び戻しに、追いかけてきたのだ。そして息を切らし、それが整ったら現場にまた戻ろうとして、事故に遭った。その車は、タケルがいたがために逃げ出し、必要以上のスピードを出してメグの前に現れた。
何度も、そのことが頭の中によぎった。
どれだけ偉そうなことを言っても、どれだけはみ出し者を気取って尖っても、そのことだけは変わらない。
結果、メグはこうなった。
もう、自分が自分であることがその原因であるとしか思えなかった。
メグとはまた別に診察の必要な病人のような顔色をして、救急病棟に運び込まれるストレッチャーを見送る。そこで待つようにと指示された椅子に腰掛けながら。
「きっと、大丈夫よ」
カンナが小さく声をかけてくる。
握ったままの手の心地もその温度も、何も感じない。
自分は、いてはいけない人間なのだ。だから、そもそも何かを感じてはいけないのだ。
メグが目覚めれば、何と言って詫びればよいのだろう。いや、メグは果たして目覚めるのだろうか。
自分が今まで叩きのめしてきた不良の兄弟や親も、このような気分であったのだろうか。
それでも、身の程を知らずに喧嘩を仕掛けてきた方が悪いと言えるのだろうか。
自分と同じように救急の待合の椅子に腰掛ける家族に、そう言えるのだろうか。
「夏川くん」
自分のことを呼んでいる、と思った。そうだ、カンナと一緒にいたのだ、とも思った。彼女の中ではもう、枕草子は終わっている。では、何の用があって自分のことを呼ぶのか。
「助けてくれて、ありがとう」
瞬間、タケルの中で何かの均衡が崩れた。マイクを握っているときのあの感覚に、どことなく似ていた。
「全部、俺のせいなんだ」
「どうして?」
ちょっと困ったように笑いながら小首を傾げるカンナを見ると、もう止まらなくなった。
「俺のせいで、あいつの人生は曲がった。だから、もう二度とあんな思いをさせないと決めた。俺を恨んでくれれば楽だった。だけど、あいつはそれをせず、むしろ自分を責めた。あいつの人生を歪めたのは俺だって親が俺を見放したのも、そのせいで夫婦仲が悪くなったのも、俺がどんどん良くない方向に進んでいくのも、全部」
目の前を、医師らしい格好の人間がばたばたと通り過ぎた。カンナはそれにちらりと眼をやったが、タケルは気付いてもいないらしい。
「そんな俺がのめり込んだヒップホップを、あいつは認めてくれた。何もかも失って閉ざしてしまった俺が新しく得た、たった一つの世界を。だけど、そのことも苛々する」
「どうして?」
「ヒップホップは、俺が目指すべき場所じゃなかったからだ。俺が目指すべき世界じゃなかったからだ。もともと、この世界のどこにも居場所なんてないんだ。結局、俺はヒップホップっていう薄暗くて狭い世界に逃げ込んでいただけなんだ。自分の居場所が、そこにあると錯覚したくて。でもそんなわけないってとにかく深く自覚していて」
カンナは同じ表情で聴いている。タケルとは眼が合わない。椅子から乗り出すようにして膝に肘を乗せているから、長く垂れ下がったツイストパーマが邪魔をしている。
「とにかくメグは、いつも俺を気にかけて、何かあればすぐ自分のせいだと嘆く。俺が、あいつをそんな風にしたんだ」
「ううん」
タケルの顔が、上がった。この絶対の真理に対して、まさか否定の言葉が被さってくるとは思っていなかったらしい。
「それは、あなたが悪いせいじゃない」
薄っぺらい冷房の風が、病院特有の臭いをかき混ぜている。よく消毒液の臭いと評されるが、消毒液を直接嗅いでもこの臭いはしない。では、一体何の臭いなんだろう、とこのようなときでもタケルの思考の一端はあらぬ場所でバウンスしている。本来快くあるはずもないその臭いに、ほのかに金木犀の香りが混じり込んでいることから眼を背けているのかもしれない。
「妹さんが、あなたのことが大好きだからよ」
また、この圧力。久しぶりだから、発生しかかっていた耐性が切れているらしい。喉にガソリンを注ぎ込まれるような、あの感覚。
「そんなこと──」
「あるの。実際、そうなの。どこに逃げたっていい。知らんぷりしてもいい。だけど、実際、そうなの」
「なんで、あんたがそんなこと──」
「分かるの。わたしには」
女同士だから、と呪術が成就した黒魔術師のような顔をしてカンナは笑った。
「怪我をしたあなたを送ってコンビニの前で妹さんを見たとき、分かった。あの場にいたのが自分じゃなくてわたしだったことが、嫌だったみたい。だから、わたしもつい挑戦的に」
「そんなこと」
「あるの。わたし、全然優しくなんかないし、すぐかっとなるし、負けず嫌いだし」
もしそうだとしたら、それはタケルの知らないカンナである。彼にしてみればカンナはいつも冷静でものの道理をよくわきまえ、理性的で穏やかかものであるが、彼女がそう言うならそうなのだろう、と思った。
「だけど、ううん、だから、分かるの。妹さんの気持ちが、すごく」
それが一体どういうことなのか、タケルには分からない。
ただ開いたり閉まったりを繰り返す世界への扉に圧倒され、木の葉のようにそこから時折吹き込んでくる金木犀色の風に弄ばれるばかりである。
「あのとき、そばいたのは、わたしじゃなかった。そういう気持ちって、すごく辛いの。でもそれは自分のエゴだって分かってるから、誰が自分に望んだことでもない自分の中の願いだから、相手にそれを押し付けることもできなくて。だから、心の中だけで消化しなくちゃいけないのに、ずっと払い去れずに居座って──」
またタケルの知らない位置にある扉が開き、季節外れの風。どうやら、圧倒されているのではない。ひとつ吹くたび、刻み込まれているのだ。
「難しく考えないで。ただ、あなたは妹さんをとても大切に思っている。妹さんも、あなたをとても大切に思っている。それだけのことね」
それは、タケルにも分かりやすかった。なんとなく照れ臭いような、認めたくないような気がするが、実際、そうなのだ。カンナが言うなら、そうなのだ。定食屋に入ったときにテーブルに置かれている調味料のセットくらい自然な存在感で目の前にあるそれに、目を向けていないだけなのだ。
また、扉が開いた。今度は、メグが運び込まれた物々しい扉である。
「ご家族への連絡は?」
医師に言われて、タケルは家族への連絡をするよう言われていたらしいことを認識したが、その記憶がない。だから曖昧に返事をして、立ち上がった。
「妹さんの、意識が戻りました。頭を打っておられるので検査のために数日入院が必要ですが、すぐに退院していただきます」
こういう断定的な物言いをされると、すんなり受け入れられる。今のタケルにとっての医師のこの物言いは救いであった。
「大丈夫なんですか。怪我の具合は」
すかさずカンナが立ち上がり、質問をする。タケルにはできない芸当である。
「ええ、怪我自体はそれほど大きくはありません。完治までにそれほど時間はかからないでしょう。入院は、あくまで検査のためのものです。ですから保護者の方とお話をしないといけないので、早く来ていただけると有り難いのですが」
淡々とものを言う医師である。だからどうということもないが、女性であった。
タケルはポケットからスマートフォンを取り出し、母に連絡をした。
母は、パート中で応答しなかった。
仕方なく、父に連絡をした。父もまた仕事中で応答しなかった。
お父さんの会社は?とカンナに言われ、ネットで父の会社の電話番号を調べ、かけてみた。外出しており、戻る時間は不明だということであった。息子だと名乗っても、本人の許しなく社用携帯の番号は教えることはできない、こちらから緊急の連絡である旨を伝え、すぐに連絡してもらうようにする、の一点張りだった。
ふと思いついて、東京に住んでいる祖父に電話をしてみた。もう仕事も引退して今は釣りやゴルフなど趣味を謳歌しているから、連絡がつくと思ったのだ。
「なんだ、
祖父は正月に会ったときと変わらない様子で冗談を言った。なぜか、ほっとした。
「──
もう七十になるが、コンピューターソフトウエアの開発会社の重役をしていたから、祖父はこういうことに明るい。
──文明の利器が人の未来を拓くんじゃない、人は自分で作り出して持つようになった力を使う責任を、文明に試されているんだ。
というような哲学的なことを言う祖父で、タケルはわりあい好きだった。
聞けば、車で二十分ほどの距離のショッピングモールにいるという。
「よかったね。もう、心細くないね」
カンナが染み透るような笑顔で溜め息をついた。心細いという言葉をなぜ選んだのか、気にはなったが別に食いつくところではないと思い、ただ頷いた。
「妹とは、話せますか」
身内がすぐに来てくれるということが分かり、医師も安堵したらしい。急に表情を和らげて頷き、タケルとカンナを促して案内した。
「メグ」
そっと、声をかけてみる。そうすると、メグは目を開いた。それで、はじめてタケルは自分の頸動脈に血が流れるのを感じる余裕ができた。
「お兄ちゃん」
弱々しいが確かな声でそう言って笑う姿は、頭の包帯がなければいつもとさして変わらぬくらいの様子であった。
メグはまた、自分を責めるのだろうか。
自分もまた、自分を責めるのだろうか。
そんな思いが去来する。
それを破る言葉を、メグは持っていた。
「──カンナさん」
はっとした顔のカンナが少しだけ進み出て、メグの横たわる寝台に手をかけた。
「よかった。間に合ったのね」
メグがカンナに向かって言ったのは、それだった。
間に合ったというのは、あの場で何かが起きる前にタケルが間に合ったという意味であろう。そのために事故は起きたとタケルは思っているが、どうやらメグはそうは思わぬらしい。
「間に合わなかったらどうしよう、って。すごく心配で」
「メグさん、そんなこと、今はいいから」
困ったようにカンナが笑いかけても、メグは話すのをやめない。
「ううん、あなたは、夏川タケルを知らないわ。わたしの兄は、どんなことがあっても、求めることを望むのをやめない人。だから、あなたの危険を知ったわたしは、兄に伝えなければならなかった。兄が、なにを求めてるのか知ってたから。だから、間に合ってよかったと思うの」
声は弱くとも、言葉には太く強いものが通っていた。それでタケルは安堵することができたと同時に、今一度ハルやメグが自分のことをそう認識しているのだということを思い返した。
そうだ、と何かが繋がった。
まだ終わっていないのだ。
枕草子は、まだ終わっていないのだ。
それを、鼻に慣れない消毒液でキラキラと光る金木犀に包まれながら思った。
なにかを言おうとしたが、病室に慌てて飛び込んできた祖父により、それは挫かれた。
自分の番に回ってきそうだった話の主人公の座を祖父に明け渡さなければならなくなったタケルは、まずその来訪を喜ぶことにした。
これまでなら、ん、と喉を鳴らし、横目でちらりと見るのみであったところである。しかし、今は、それをしなければならぬと思ったのだ。
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