タケルは己の行いがもたらす結果を見る

 何が何だかよく分からぬまま、駆けた。長く垂らしたツイストパーマが自分で呼んだ風に流れてそこから汗が石英の結晶のように飛び散って、それすら目にすることなく駆けた。

 大通り沿いのファミレスの前といえば家からほど近い。そんなところに、なぜカンナが。メグのあの慌てようからして、ただごとではない。


 メグが現場から駆け戻り、自分がそこに戻るまで、十分以内。だが、その十分が惜しい。タケルはそういう場面を横目で何度も見たことがあるが、面倒な連中というのは世の中に多くいて、たとえば車で連れ去ったりするようなことをする連中もいる。

 折悪しく、夏休み。たちの悪い大学生などがうろついている期間である。そういう連中には昼も夜もなく、むしろ何か声を発せられたとしてそれが目立つ夜よりも、昼の騒がしさと雑踏の中に紛れてそういうをする方が目に付かぬと大胆で狡猾な計算をする者までいる。

 たとえばSNSなどを通じて「サークル」と称してそういうことをする者のことを、真っ先に思い浮かべた。


 すぐに、着いた。

 果たしてタケルの想像の通り、歩道の脇に車高を低くした高級セダンが停められ、男が数人群れて笑い声を上げている。三人。そしてセダンの運転席から一人、顔を覗かせている。おそらく歩道の上で待機していた三人が通行人の中から目ぼしい者を見当てて足を止め、その間にファミレスの駐車場から車が出てきてそこに連れ込むというような算段なのだろう。

 車に連れ込んで連れ去ったあと、そのぎゅうぎゅう詰めのセダンが向かう先でどういうことになるのかは想像に難くない。


 なぜ、人を。

 自分のために。

 快楽。利益。自己肯定。そんなもののために、なぜ人を。

 もう沢山であった。

 父も、母も、教師も、この世界の全ての住人も。それぞれ法に触れるか触れぬかの違いだけであり、本質としては同じだと思った。

 そして、自分もまた。

 だが、自分なら、少なくとも今目の前でそれに苛まれている者を救うことができる。

 見えた。男の群がる隙間から、カンナの姿。その瞬間、タケルは火の玉のようになった。


 忘れ得ぬあの落雷が理不尽な迫害を与える男の一人のこめかみを固く握り締めた拳となって爆砕する。

 他の二人と運転席の窓から顔を覗かせる一人はへらへらした顔を凍りつかせて一瞬静止し、突如として自分たちの快楽を叩き壊した闖入者の来訪に向かって身構えた。

 打ち掛かってきた一人の拳を絡め上げて鳩尾みぞおち目掛けて膝を叩き込んで黙らせて、下に屈み込んで別の角度からの一撃を外させて、半身振り返りざま強烈な肘を交差させる。

 鳩尾に膝を食らった一人がどうにか息をしようとするために前に大きく下がったその脳天に、踵落とし。弾みで嘔吐し、崩れるその男から眼を外し、脅威の見落としがないか瞬時に視界を広げる。


 そしてまた集中。運転席の開いた窓から身を乗り出したままの男。カンナに直接絡んでいた三人より、少し歳上のようにも見えた。どうやら、この男が中心になって人を募り、を働いていたのだろう。

 弛緩と収縮を絶え間なく繰り返すタケルのその肉体の働きを遺憾なく発揮するのはまさしく集中フォーカス。忌憚なく相手を沈黙させるための技へと昇華するよりステージで放歌する方が同じ異端でもまだましだと自分でも思っているが、どちらにしろその行為が彼の奥深くにあるものを消火することはない。幸か不幸か、彼は感情の量が人並み外れて多い。それが、今この場においては層化して蜂窩ほうかのようになって発現しているものらしい。

 たとえば、このような形で。


「自分が何やってるか、分かってる?俺は、分かってる」


 静かな、とても静かな声で、運転席の男に語りかけた。脇でカンナが何か叫んだが、耳には入らない。

 この男どもは、踏み入れてはならないところに足を踏み入れたのだ。無論もともとカンナに狙いを定めたわけではなく偶然通りかかった彼女に目をつけただけなのであろうが、それでも、彼らは決して人が足を踏み入れることのできぬ女神の世界に干渉したのだ。

 そう、カンナは、まだタケルの女神だった。

 枕草子を教えることは一方的に終わりを告げられたが、


「枕草子は、まだ終わっちゃねーんだ。途中も途中、わけわかんねえよ」


 とタケルは確かに言い、力なくカンナに向かって笑いかけた。

 この隙に、と思ったのか、車のサイドブレーキを解除する音と、パワーウインドウが上がってゆく音。逃げるつもりである。


「待てよ――」


 今から手を伸ばしたところで、狭くなってゆく窓の隙間をどうすることもできない。下手をすれば腕が挟まれてしまう。

 そんなこと、タケルの知ったことではない。

 窓ガラスを叩き割ってやろうかとも思ったが、それよりも一瞬早く、車は発進してしまった。

 タケルの目的はカンナを救うことであって不良を叩きのめすことではないから、別に逃がしたところでどうということはない。脅威は去り、目的は果たされたのだ。


「夏川くん――」


 カンナの声で、頭の芯がすっと冷えてゆくのを感じた。感じて、久々にその声を聞いたような気がした。この女神が、暴力など好むはずもない。血まみれになった拳をちらりと見て、口元に手をやっているのを横目で見た。

 別に、構わない。既にカンナからは枕草子はおしまいだと告げられているのである。だから、今さらどう思われようと構わない。ただ、タケルはメグからカンナの危機を聴きつけ、この場に来た。来て、カンナを救った。それでよかった。

 あとは警察にでも行って、傷害でも殺人未遂でも何でも食らえばいい。

 少なくとも、タケルの枕草子はまだ終わっていないのだから。それでよかった。

 いや、いいはずがなかった。それを、認めることができた。なにしろ、タケルの枕草子はまだ終わっていなかったのだから。

 カンナが、続きを言葉にした。


「――逃げよう」


 そう言ってタケルの傷付いていない方の手を取り、駆け出した。先に立って走る彼女から、金木犀の花弁がこぼれ、きらきらと光になってアスファルトに落ちた。

 蝉の鳴く木の作る影が縞模様になっている歩道を、野次馬をかき分けて。ほとんど水のように湿った夏の風を切ってタケルを導き、ひたすらに駆けた。まるで、その向こうに新しい世界があることを教えようとしているかのように。

 メグが開いた扉の、その先へ。その先へ、タケルを連れ出そうとしているかのような。


 ふと、思った。メグは、どうしたのだろう。

 野次馬を掻き分け、歩道に落ちていたコンビニの袋を踏みつけた。中身が入っていて、溶けたアイスが流れ出た。

 なんとなく、嫌な予感がした。


 野次馬の注意の先が、一瞬で叩きのめされた不良グループと騒ぎから逃げ去るツイストパーマの少年とその手を引く芸能人も顔負けの美少女から、別のものに移った。

 サイレン。そして、赤色灯。

 パトカーであってくれ。この騒ぎを聞き付け、自分を捕まえにきたパトカーであってくれ。せめて、パトカーであってくれ。

 タケルは、カンナのこぼす金木犀の花弁に包まれながら、念じた。

 しかし、二人を追い越してゆくそれは、救急車であった。タケルの家のある住宅街への交差点を左折してゆくのを見て、タケルがカンナの先に立った。


「どうしたの」


 何も答えず、カンナが痛いと声を上げるほどにその手を強く引き、駆けた。

 また、別の野次馬。もう住宅街の中である。

 それを断ち割って、そして足を止めた。


 ストレッチャーに乗せられる、目を閉じてぐったりとしたままのメグ。額からは血が流れている。救急車の向こうには、ボンネットが大きく破損したセダン。

 先程の不良の車である。タケルから逃げようと混乱したまま住宅街に入り込み、無謀なスピードのまま走行し、事故を起こしたのだろう。


「メグ!!」


 お知り合いですか、ご家族ですか、と訊いてくる救急隊員を突き飛ばし、ストレッチャーに駆け寄った。


「メグ!!」


 答えはない。眠っているようにも見えるが、では、この頭の血は何なのか。いつもの家着がこれほど汚れているのはなぜなのか。

 分かっている。何があったのか。

 さっき、この男を逃さず、窓ガラスを破ってでも止めていれば。

 いや、いきなり三人に殴りかかったりせず、話し合いでもしていれば。ちょっと脅せば、退散したかもしれない。

 自分が招いたことなのだ。

 自分のせいで、メグは。

 また、同じことを。

 そして、今度は、取り返しがつかない。

 学校にいられなくなって転校を余儀なくされるのとは、わけが違う。


「夏川くん」


 おそるおそる声をかけてくるカンナに蒼白な顔を向け、そして何も言わず救急車の中に乗り込んだ。

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