メグは世界への扉を開く
取り憑かれたようにとは、タケルが自宅で枕草子を読むさまを指して言う。
読むうち、繰り返し出てくる言い回しなどがあることに気付いた。知らない言葉でも、その言葉と意味をノートに書き留めておくと、あとで同じ言葉や言い回しが出てきたときに見返すことができるということも発見した。
「余ってるノート、ねえの」
とタケルがメグの部屋を訪ねて言ったとき、メグはふとテレビを点けて流れるニュースが自分の知らないところで突如起こった世界大戦のものであったときのような顔を一瞬したが、すぐに笑顔になって机に据え付けた本棚から一度取り出した新品のノートを引っ込め、紙が滑らかで書きやすいからと改めて取り出した少し高そうなノートを渡してくれた。
書き味がよいとか悪いとかいう違いはタケルには分からぬが、そこに綴られる己の字の下手さに辟易しながらもそのノートに懸命に書き込んだ。
『絵に描きおとりするもの。なでしこ、菖蒲、桜。
物語にめでたしといひたる男女のかたち。』
めでたし、というのがおめでとう、というような意味ではないように思い、現代語訳の部分に目をやった。するとそこには素晴らしい、というような意味であるとされていた。なるほどと思い、またノートに下手な字が降ってゆく。
――絵に描くと下らないもの。なでしこ、菖蒲、桜。あとは、とても素晴らしいと書かれている物語の中の男女の姿。
できるだけ現代語訳をそのまま見ずに、自分なりに頭の中で訳してみる。そのあとで本の中の訳に眼を通し、間違っていないことを確認する。違っていれば、またそれもノートに書き留める。
花はそれだけで美しいから、絵などにわざわざ描かなくともそのものを見ればよい。物語の中にある美しい男女の姿も、目で見えず頭で想像するからよいのであって、それを見えるようにしてしまってはつまらない。
そんな風に捉えることができた。
『男こそ、なほいとありがたくあやしき心地したるもの』
――男ほど荒唐無稽な心を持つものはない。
これは清少納言が誰かを異性として見て書いた文であろう。だから、特定の対象をあえて『男』と拡げた描き方をしているのだろう。強く思うからこそ、分からぬ。自らの思う通りにしたいはずなのに、それが正しいことなのかどうかも。清少納言がタケルと同じ心持ちであったかどうかは彼の知るところではないが、彼の中にはそういう思いが間違いなくあって、それと重なる文章であった。
『世の中になほいと心憂きものは、人ににくまれんこととあるべけれ』
あるべけれ、の読み解きに時間を要した。あまりにも分からず、そのため現代語訳を安易に見るのが嫌になって、遂にメグに助けを求めた。メグに訊くよりも訳を見る方が嫌だというのが、なんとも彼らしい。
「~べし、って言うでしょ。それの已然形で、この場合だと~のはずだ、っていう意味よ」
端的に臨時講師が解説してくれるのにうんうんと頷き、またノートに書き留める。
「この世で他にないくらい辛いのは、人に憎まれることだろう」
「まあ、そう。そんな感じ」
なにごとかを考えている様子のタケルに、メグが笑いかけた。
「まるで、お兄ちゃんのことみたい」
「うるせー、邪魔すんな、出てけよ」
「なによ。自分から教えてくれって言っておきながら。はいはい、コンビニでも行ってくるわよ。何かいる?」
「いや、別に」
「あっそ」
すっかり、いつもの調子である。メグにはメグの思うところがあるのかもしれず、ともかく肩を落としたり涙を流したりせず明るく日々を過ごしてくれているのはタケルにとってよいことであった。
机の脇の東の窓から、メグが通りを歩いてゆくのが見える。それはやがて揺れるアスファルトに溶け、タケルはまた枕草子に眼を落とした。
メグは、タケルが自分を窓からなんとなく見ているとも知らずに住宅街の一方通行の道路をゆく。しばらくすれば大通りに出て、駅前方面に数分歩けばコンビニである。最寄のコンビニまで徒歩十五分というのは首都圏に数えられるこの街にしては不便な立地だが、そこで生まれ育っているから気にはならない。歩くのが好きだからこの炎天下でも自転車などは用いず、陽射しが肌を痛めつけるのに顔を
あの夏休みの入り口から時間はあっという間に過ぎて、もうお盆も終わった。父も母もどこかに行こうかなどとは言わず、仕事が休みで家でごろ寝をしている父に対して母は溜め息をつき、父が仕事仲間や友人などと誘い合わせてゴルフに行ったら行ったで溜め息をついた。では二人の間でどうなれば正解を引き当てられるのかはメグには分からぬし、当人同士でも分からぬのであろう。
自分の足音が、雑踏に溶けてゆく。
兄は、大丈夫だろうか。いや、大丈夫に違いない。あれだけ勉強嫌いであった兄が、一心に枕草子を読み解いているのだ。それも、メグが驚くほど速く、そして正確に。成績優秀な妹から見て、兄はとんでもない馬鹿であるが頭は良い。勉強をしていないというだけで、頭の瞬発力がもともと高いのだ。それに、常人離れした集中力も持っている。それがヒップホップの才能の基になっているのだろうが、当人が気付いているかどうか。
兄にとっての枕草子とは、よほど大切なものなのであろう。たとえばヒップホップに並ぶか、あるいはそれに代わるくらい。
未だに、自分のせいで兄は世間での居場所を失い、自分のせいで両親が不仲になったという思いは強い。だが、それを見せれば自分も兄も辛くなるだけだから、できるだけしないように決めた。
ずいぶん前、父に言われたことがある。タケルと仲がいいのはいいが、あまり関わりすぎて悪い影響を受けるな、と。その言葉に、ひどく傷付いた。自分がそばにいてその存在を認め続けていなければ、兄はいったいこの世界のどこに存在するのだろうと思う。兄は、自分のために世界から消えたのだ。
自分が、兄を繋ぎとめている。兄がそれを望むか否かに関わらず、それをやめることはできない。
だが、兄は、世界からその存在を抹消されてなどいなかった。ちゃんと人と知り合い、怪我をしたら助けてくれる友達がいて、そして、そして好きな人がいる。その相手は学校外でも知らぬ者はないほどの才色兼備で通った乾カンナで、黒髪のストレートヘアから
正直、複雑であった。
自分こそが。そう思っていたものが実際はそうではなかったというのは、世界が自分に対して背反行為をしたと言うに等しくも思え、兄の窮地にそばにいたのが自分ではなかったということは己の無価値を証明し、そしてそれをつい色に出してしまった自分の心の揺れを見逃さず、すかさず棘のある言葉を吐いてきたあの女を、なんと嫌な女なのかとも思った。
自分の世界を壊す者。そうカンナのことを認識した。しかし、それもまた自分の勝手。それを押し通せば、今度こそ本当に自分のせいで兄は世界と断絶されてしまう。
だから、笑うしかないのだ。
兄は、カンナと何かあったのだ。だからあんなに傷付き、荒れ狂い、無謀を働いたのだ。それを責めようとは思わぬが、何があったのか知る権利くらいはあるのではないかと思える。しかしそれは他者の立ち入れぬ深い深い
気が付けば、コンビニで品定めを終え、帰路についていた。小腹が空いたのでチョコ菓子と、兄の好きな蒸しパン。それにアイスを二つ。
自分の足音に、いや、鼓動に合わせて音を立てる袋のリズムが街路樹の蝉の声と横断歩道の音に重なるのを聴きながら足を回転させているうち、思考はそれにつられて取りとめもなく散っていった。
はたと足が止まった。
なぜ足を止める必要があるのか、分からなかった。
しかし、自らの視界の中に、足を止めなければならぬものがあった。
カンナ。紛れもなく。
その存在に全ての集中を奪われ、一瞬の後それが戻ると、よく分からぬ男数人に囲まれて絡まれているらしいことが分かった。
ちょうど、信号は青。それが発する音を追い越すほどの速さで、アスファルトを蹴った。カンナとそれを取り巻く男どもに追いつき、止め立てをするでもなく大きく声を発した。
「待ってて!お兄ちゃん、呼んでくるから!」
からかうような響きの声を立てて楽しんでいた男どもも、迷惑そうに顔を伏せているカンナも、メグを見た。それを横目に、通り過ぎた。
腕に蛇のように絡みつくレジ袋が煩わしくなって、それをアスファルトに捨て、駆けた。ここからなら、走れば五分もせず家にたどり着く。兄の足の速さは異常だから、数分後には兄の女神は助け出されていることだろう。
何をやっているのか、とも思った。
しかし、自分には、自分の役目がある。
自分は、この世界から隔絶されたところでたった一人で孤独に膝を抱え、それを他人に悟られぬよう牙を剥く兄に、世界への扉を示すことができるたった一人の人間。
思い込みでもいい。少なくとも、自分ではそう思っているのだから。
夏物のブラウスが汗で透けるのも気にせず、アスファルトを蹴り続けた。ちょっとコンビニに行くだけだから、とスマートフォンを置いてきたのを後悔した。
玄関の扉を勢い良く開き、靴を脱ぎ捨て、乱暴にドアを開いた。
表情は薄いが明らかに驚いた表情のタケルに、息を切らしながら告げた。
「――行ってあげて。大通りの、ファミレスの前」
「なんだよ。汗まみれじゃねーか」
「いいから!行ってあげて!急がないと、どうなっても知らないよ!」
怒鳴りつけて兄の尻を椅子から跳ね上げさせ、部屋から追い立てるようにして出した。
「カンナさんを、助けてあげて!」
何がなんだかという具合に階段を小刻みに降りてゆくタケルの背に、そう叫んだ。タケルは一瞬足を止めたが、すぐにツイストパーマを揺らして階段を降りきり、玄関のドアから太陽の支配する世界へと飛び出していった。
やはり、メグはドアをタケルと世界を繋ぐドアを開く役割を担っているものらしい。
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