タケルは二人がタケルがそこにあることを知っていることを知る

「なんで、泣いてんの」


 間の抜けた質問である。家がわりあい近いということでタケルとハルは小さい頃は仲が良かったから、メグも親戚のお姉さんくらいの親しみを覚えている。その目が、鋭くなった。


「お兄ちゃんのことを、心配してくれてたんでしょ」


 メグがぱっとハルの側から離れ、タケルのスマートフォンに明かりを灯し、そこに満たされている通知の嵐を提示した。


「心配で、心配で。でもあんまり突っ込んだらいけないと思って、だからすぐにでも家に来たかったのに、我慢して」


 なんで。お前に、何の関係があるの。喉元までそう出かかったが、こらえた。


「どうしてだと思う?」


 ハルの代弁者となっているメグが、タケルを逃がさない。


「お兄ちゃんが、傷付くと思ったから。傷付いてると、思ったから」


 小さい頃した危険な遊びのために怪我をしても泣くどころか大笑いしていたようなハルが、なぜそれで今泣くのか。タケルには何がなんだか分からなくて、その関わりを断って自分の壁の内側に閉じこもって何もないものを守るという姿勢が取れない。

 頭の中にいつも浮かぶ言葉の渦も、全くない。今、その意味で、彼は丸裸である。


「だから、ここにいるの。分かる?お兄ちゃんを大切に思うから、ここにいるの」


 ハルのことを代弁しているのか、自分のことを言っているのか、その両方であるのか。

 タケルは、ツイストパーマを少し前に垂らした。うつむいたのだ。


「タケル」


 ハルが、なぜか泣き笑いのような顔をして名を呼んだ。


「元気そうじゃない」


 色々なものが崩れてゆく。それは全くの無に己が染まってゆくようであり、無に染まることで己というものがはっきりと浮かび上がるようでもあった。タケルとはとても感受性が豊かな青年であるから、自分の内側で何かが起ころうとすることに対して敏感である。

 その事象が何であるのか知らなくとも、それを言葉にはできなくとも、分かるのだ。


「悪かった──」


 言葉にできない何かが、別の形をもってタケルの口から発せられた。それはタケルが予想だにしていなかったものであり、今自分の口から出たそれの姿をまじまじと見てみたいような衝動に駆られた。その衝動は、また次の言葉を呼んだ。


「──心配かけて」


 それに、ハルはまた泣き笑いで答えた。


「かけすぎよ、馬鹿」

「すまん。だけど、心配いらない。俺は、大丈夫だ」


 次々と言葉が言葉を呼び、互いの口から発せられる。ハルとメグとの三人の間で、それが繰り広げられた。


「大丈夫、じゃないわよ。ふつう、心配するでしょ。なによ、停学なんか食らっちゃってさ。どうせ、夏休みが長くなってラッキーとしか思ってないんでしょ」

「まあな」

「お兄ちゃん、この機会に枕草子、ちゃんと勉強したら?」


 メグもハルも、タケルに何があってこうなったのか察しているらしい。それを、タケルは察した。


「枕草子は、もういいや」

「駄目」


 メグの語気が強い。ハルも、メグの言葉の強さと同じ眼をしている。


「最後まで読まなきゃ、駄目。途中で投げ出すなんて」

「でも」

「あんた、逃げる気?」


 ハルはタケルの扱いを、メグとは違う形で心得ているらしい。


「あんたは、いっつもどうでもいいことは放り出して自分の好きなことに熱中するじゃん。それはすごく馬鹿だけど、でも、自分が欲しいものは絶対手に入れる、そのためにどんな努力でもする、っていう姿勢だけはカッコいいと思ってたのに」

「べつに、お前に気に入られなくたって」

「馬鹿ね。あんたって人間の存在証明の話をしてるのよ。モノにしたいと思い続けて、どれだけ駄目でもどれだけ惨めでも、何度でもステージの上に這い上がって。考えて、練習して、それでも駄目で、苦しんで、馬鹿の一つ覚えみたいに真正面から」


 けなされているのか褒められているのか分からない。しかし、なぜか嫌な気持ちにはならなかった。さらに、ハルは言葉を継ぐ。


「あたしがそういうところを好きかどうかは、どうでもいいわ。でも、それがあんたでしょ。あんたは、そういう人でありたいと、自分で願ってるんでしょ。だったら、逃げ出したら駄目。投げ出したら駄目。今ここで求めることをやめちゃ、あんたは誰になるのよ」

「そんなこと──」


 タケルは、返す言葉がない。


「お兄ちゃんが喧嘩ばっかりしてるのは、喧嘩が好きだからそうしてるんじゃない」


 何の話だ、と思った。たしかに、べつに自ら好き好んで喧嘩をするわけではない。では、何のために。肩がぶつかり絡まれたとて、謝って笑ってすれ違えば済むではないか。それをせず牙を剥くのは、なぜなのか。


「わたしのことなら、気にしないで。いつまでも、気にしていないで」


 メグが、少しだけ笑った。その笑顔の質量の軽さと眉の下がり方で、タケルはメグがどういう心境なのかを知った。


「わたしは、だいじょうぶだから」


 それ以上、メグは言わなかった。ただ、しばらくの沈黙のあと、別のことを言った。


「あのとき、お兄ちゃんが助けにきてくれて、びっくりした。でも、嬉しかった。それと同時に、わたしのせいで、と思った」


 それは、タケルも感じている。だから彼はあれ以来、メグが自責の念を募らせているのだと思っている。

 それをも飲み込み、凌駕し、立ち向かうことができる自分。そうであると、自認したがっている自分。

 利己的で理不尽な振る舞い。自分こそこの世の中心だとしか思わぬ行い。または何も考えずにただ動物のように生きるだで理性などほぼ無いような存在。

 それを打ち砕くことのできる自分。

 タケルは、彼らに自分を見ていたのかもしれない。メグの困ったような笑顔が、タケルの拳に痛みを走らせた。教師を殴ったときに痛めたのに、今さらそれを自覚した。


「それと、あと、そのとき思って、あれからずっと言えなくて、今も言えないままのこと」


 ありがとう、とメグは目を細めた。

 タケルの内なる壁は、この瞬間に完全に崩れ去った。虚無感とそれがもたらす理由のない焦燥感に苛まれる世界か自分を守り続けてきた壁を失ったあと、どうすればいいのか分からない。

 だが、間違いなく言えるのは、今この瞬間、自分の目の前の二人は自分を見て自分のことを言い、泣き、笑っているということである。

 全くの虚無の中に土足で上がり込んでくるこの二人に、タケルは今まで自分が名付けてこなかった感情を覚えた。


 歌えない。歌わなくていい。知らない。知らなくていい。だが、タケルはそれでも歌いたいと思って歌い、知りたいと思って知ってきた。

 やはり、ハルの言う通りであった。


「しばらく、考えてみる」


 タケルがそう言うときは時間を引き延ばす口実ではなく、ほんとうに深くものごとを考えるときだということを二人は知っている。


「じゃ、あたしも忙しいから。とにかく、あたしからの連絡は無視せずちゃんと返すこと。いいわね」


 ハルはいつものようにミルクティー色の巻き毛をひとつ揺らし、居丈高に言ってドアを開いた。


「ごはん、ちゃんと食べなさいよ」


 それを見送るべく立ち上がったメグは母親のようなことを言い、ハルを促した。

 二人でタケルの部屋から出るとき、


「応援してるから」


 という言葉を重ね、廊下に出てゆっくりとドアを閉じた。

 それでも、タケルを囲い込んでいた壁は蘇らなかった。むしろ、自分という一個の存在を取り巻く無限のなにかが存在するように感じた。


 結局、己がそこにあるのみ。だが、そのことを知っている者が、間違いなく二人いるということを知った。


 知って何をするでもなく、机に向かった。

 鈍い痛みの居座った手には、枕草子。どこで止まっているか、ちゃんと覚えていた。

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