第四段 秋告げるテールランプのひかりたるに

タケルは崩れた世界で最後の壁に縋る

 この世のことわりの全てが、崩れ落ちるような。タケルの知る世界が、タケルの求めてやまなかった世界が、音を立てて。何を知るでもなく、始まることもなく、それらは終わった。そう思った。

 枕草子は、もうおしまい。カンナの桃色のリップで彩られた唇がそのまま花びらのようになってこぼれた言葉はナイフの如くタケルに向かって飛び、何本も何本も突き刺さった。

 血でも流れれば、まだましであろう。しかし、悲しいことに、流す血すらもない。これならば、何人もの屈強な男に取り囲まれて手酷く殴られたり蹴られたりした方がずっといい。


 ひととおり、そういう苦しみや痛みに似た何かを味わったあと、襲ってくるもの。

 なぜ。

 その疑問。それを議論する相手すらもいない。安穏と過ごしてきたつもりはないが、一体何のためにこの苦悶はあるのか。当てはまらぬ擬音を伴って開く門。それが、タケルが今からゆくべき新たな世界を見せていた。


 そこは、暗く、何もない世界。ただ夏があり、両親がいて、学校があって、ヘッドライトとテールランプがあって、ヒップホップがあるだけの世界。

 すなわち、何もない世界。

 退屈に向かって喚き散らし、己を認めぬ他者を呪い、理不尽に喚き散らすことではじめて両足が着地していることを確認できる世界。

 そこに向かって、タケルは墜ちた。いや、はじめから、どこにもいなかった。この世界のどこにも、タケルはいなかったのだ。それを、カンナの言葉が知らしめた。


 受験。

 それが待ち受けているのは、タケルと関わりを持つ前から分かりきっていたことではないか。それならば、なぜ関わり合いになった。


 ごめんね。

 自らの意思でその関わりを断つと言うならば、なにを謝ることがある。タケルの存在がカンナの世界にとっても迷惑で騒がしいものであるなら、なぜ謝るのだろう。


 なにか見えない糸でも繋がっているようにして、図書室を出る。そうして、ふらふらと誘われるようにして、廊下を歩く。


 ここから、出なくては。彼にあるのは、その思いだけであった。この空間は、この世界は、ただここにあるだけで窒息しそうである。ただ自分が自分であるだけで圧殺されそうである。

 それには、耐えられない。だから、歩くしかなかった。


「おっ、夏川。今日も勉強か。最近、感心じゃないか」


 刹那、タケルの中で何かが沸点に達した。

 叫び声。助けを呼ぶ声。激しい怒声。それは、自分の。声、声、声、自らの拳が骨を打つ音。遅れて走る痛み。痛み。拳の。身体の。心の。

 心。そんなもの、ほんとうにあるのか。この世のどこに、それはあるのか。ただ脳があり、耳があり、目があり、鼻があるだけではないのか。では、この痛みは。八方から射掛けられる矢のように、あるいは冬の夜明けに差す光のように全身を貫く、この痛みは。貫く。あの落雷が。背骨を貫く、あの落雷は。

 全てが壊れ、はじめから何もなかったことを知らしめ、上も下も右も左も光も闇もないような世界に放り出されたような感覚。

 ほとんど、自分が何を言い、何をしたのか覚えていない。

 いや、このときばかりではない。

 今までの生において、自分が何を言い、何をしてきたのか、覚えていない。

 それは、言うべきことを何も言わず、すべきことを何もしてこなかったからではないのか。

 それを、呪った。その矛の向かうべき先は、自分。

 鼻から血を流して仰向けに倒れる教師。誰かが、自分を羽交い絞めにしている。

 まだ、叫び声。

 蝉に、似ていた。


 一人であった。そう思えば何とも思わないが、一人ぼっちであったと思えば、惨めになる。

 学校は守護不入と相場が決まっているが、これほどの騒ぎになれば誰かが警察に通報し、警官が駆けつけざるを得ない。部活か何かのために登校していた生徒の一人が警察に電話をしようとしたのを、騒ぎを聞いて飛んできた教頭が制したところで、なぜか前後の線引きがすっと明確になった。

 妙な言い草だが、興醒めしたのだろう。


「騒ぎを、大きくするな」


 教頭は、その生徒にそういい含めた。警察沙汰になれば公立ながら地域の評判だとか進学コースの人気だとか何だとか、色々なことに差し障るのだろう。

 ただ声をかけてきただけの教師を殴り倒して鼻から盛大に出血させた自分を裁くこともせず、騒ぎが大きくならぬものかということを気にする大人が、そこにあった。

 それが、世界。その世界の住人となることを、なぜ強制されなくてはならぬのか。

 カンナも受験をしていい大学に行っていい会社に勤め、その世界の住人になりたがっているのか。だから、枕草子を自分に教えることをやめたのか。

 そのまま生徒指導室に連行され、買い物姿のまま飛んできた母が絶句するのを睨み付け、会社を早退してきた父が入ってくるや否や罵声を浴びせるのを無視し、処分決定までの謹慎処分をただ受け入れた。


「退学処分にはならぬよう、善処します」

「ありがとうございます、申し訳ございません」


 なぜ、退学処分にせぬのか。なぜ、礼を言うのか。なぜ、この二人が教頭と校長と担任に謝るのか。義務教育ではないのだ。問題があれば退学にすればいいし、嫌なら自分から辞めればいい。義務ではなく任意でそれを選ぶことが許されているはずなのに、なぜこの世界に縛り付けようとするのか。

 どうせ、何もないのだ。この世界の先にも、自分がそこにあるべきと勝手に思っているあの路地裏の世界の先にも。

 だから、どうでもいい。


 カンナは、この騒ぎのことを、誰かから聞くだろう。そのとき、彼女は何かを思うのだろうか。いや、もう彼女が自分に枕草子を教えることはないのだ。だから、それも、どうでもいい。

 壁。外と内とを隔てる壁。それは何かを、誰かを、そして世界を拒むようでいて、何かから、誰かから、世界から自分を守るためにいつの間にか作り上げたもの。それが言葉であり、暴力であり、奇抜な髪型である。それら純度の高い不純なもので構成されたものが形を持ったのが自分であり、自分というものはもしかすると壁そのものであるのかもしれない、とタケルは静かすぎる生徒指導室で思った。

 いや、音は無数に散らばっている。母は涙を流して自分の非行を嘆き、父は思いつく限りの言葉を用いて自分を罵り、教師どもはなぜか寛大な処置を検討していることを恩着せがましく重ねて言う。

 だが、それらの全てに整合性がなく、不協和音どころか自然音のように無秩序で、たとえば蝉が鳴くようにして世界に存在していた。ゆえに、タケルはそれを静かだと思った。


 あの声でなければ、意味がなかったのだ。雨に支配された季節にも、陽射しに支配された季節にも似合わぬ、浮き足立ったあの金木犀きんもくせいの香りがなければ、意味がなかったのだ。

 今さら、気付いたところで。

 いや、気付いていたところで、どうにかできたのか。自分に、どうにかできたのか。そこを器用に立ち回れるのであれば、このようなことにはならなかったであろう。だから、何を言っても、何を考えても、意味などないのだ。


 処分を待つ間、自宅で謹慎する。そもそも夏休みなのであるから、謹慎も何もない。ただの退屈な日常があるのみである。

 そして数日後、学校から呼び出された。父は仕事で忙しく、もうタケルを罵倒し飽きたのか、学校には出向かなかった。母が行くことになった。母が当たり前のような顔で早く支度をなさい、と言うのが気に食わなくて、タケルは断固として家から出なかった。帰宅した母親は悲しそうな、忌々しそうな顔をして、二週間の停学処分を言い渡されたことを告げた。殴られた教師は骨折などはしておらず、これ以上騒ぎは大きくしないと言ってくれている、とも言った。

 それについて何かを考えるのも面倒で、やめた。

 メグが、ずっと心配して毎日声をかけ続けていた。居間にもダイニングにも降りて来ぬ兄を気遣い、母の作ったものを温めて部屋まで持って来たりもした。それにも手を付けぬから、母が作ったものだから手を付けぬのかと気を回し、コンビニでパンやカップ麺などを買ってきたりした。それは、なんとなく口にした。こんな状態でも腹は減るのだ。それすらもはね除けてしまえば、メグは傷付き、泣いてしまうだろう。利害が一致したということにして、食べた。そんな風にしか思えぬ己を、また呪った。

 何度も、スマホが震えた。ハルから何か連絡が来ているらしい。どうせ、大丈夫なの、とか、あんた何やってんのよ、というような類の、面倒な連絡に決まっていると思い、それを見もしなかった。

 ついに、インターホンが鳴った。父は仕事、母はパート。メグが応対し、足音。それが、二階へ。

 やめろ。タケルは、そう叫びそうになった。


「お兄ちゃん」


 部屋の外から、窺うような声。


「ハルちゃんが、来てくれたよ」

「帰れ」


 メグにではなく、扉の向こうのハルに向かって鋭く言った。それがよくなかった。


「あんたね」


 勢いよく扉を開き、迷惑極まりない闖入者がタケルの壁を乗り越えようと踏み込んできた。

 いつもの通りのツービートで何事かをまくし立ててくると思い身構えたが、それはなかった。

 代わりに、涙をひとつこぼした。それが何故なのか分からなくて、驚いてタケルは思わず声を上げた。


「あんたね。いい加減にしなさいよ――」


 言うのもやっとという具合で、ハルがその場に座り込んだ。メグがそれを気遣い、背に手をあてがう。

 なんだ、この構図は。そう思ったが、何が起きているのか分からずとも自分が招いたことなのだろうと思うと、何も言うことがなかった。

 こうして、世界は崩れ去った。

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