タケルは自らに語る言葉を持たない

「おい、おい。いちいち絡んでくんなよな」


 海兵隊頭ジャーヘッドのハルトが迷惑そうにため息をついた。それを、タケルは睨みつけている。


「来るなら来いよ、狂犬」


 雨は、上がった。それを知らせる光を反射するアスファルトを踏みにじり、ハルトが身構える。タケルはいつものようには牙を剥かず、目に世界に似たものを宿し、ただ静かに立つのみである。


「なんだよ。気持ち悪ぃな。なんで、何にも言わねえんだ」


 正直、このところのハルトのタケルに対する感情はだいぶ和らいでいる。以前は下手なくせにライブハウスでいつも絡んでくる手の早い嫌な餓鬼としか思わず忌避してきたが、関わり合いを持つようになって悪い人間ではないと思い直し、なおかつわずかに好感を持ちかけているようでもある。


 あのままメグを夏期講習に送って行き、そのまま街をぶらぶらした。そこには特に、何もなかった。雨だから世界はまだ静かであるかもしれないと思ったのに、そこには世界すら無かった。だから、陽が暮れるとすぐにタケルは路地裏の彼の世界に足を踏み入れた。

 そこにはタケルを知る人がいて、それと今こうして向き合っている。


「なあ、海兵隊頭ジャーヘッド


 もはや、それがハルトののようになっている。タケルはそう呼び、何かを話そうとした。しかし、言葉が出てこない。

 無論、何も考えないわけではない。彼の頭の中には無数の言葉がバウンスしながら巡ってシーケンスしており、そのデトロイトスタイルのような陰鬱なグルーヴは全身から今にも溢れ出しそうになっている。

 しかし、上手くできぬのだ。だから、それに向かい合うハルトは黙って身構えを解き、訝しい顔をするしかない。


「お前、最近どうしたんだよ。喧嘩には負けるわ、ラップは上手くなるわ、急に黙り込むわ」


 ──てめーのせいだ。

 ──てめーらのせいだ。

 ──いや、俺のせいか。


 それすら言葉にはならず、ただ唇を噛んだ。


「悩み多きお年頃ってのは、大変だねえ」


 茶化すように笑うハルトが瞬きをした間に、タケルの拳が炸裂していた。


「痛ぇな、何しやがる」


 しかしそれも一撃でハルトを昏倒させるような冴えを失っていて、ただ表すことのできぬ己の鬱屈を自身で知ることにしかならなかった。


「あのな」


 唾を一つ濡れたままのアスファルトに溶かし、ハルトは今の拳打で僅かに切れたらしい口をまた開いた。


「お前さ、マジ思春期なんだよ。おっと、殴るな。全部聞け」


 それで、再び出かかった手が止まる。


「お前さ。変な誤解してるだろ。それで、俺を呼び出した。違うか。呼び出したはいいけど、何て切り出したもんか。訊きたいことは山ほどあるけど、見当はずれのことを訊いて恥ずかしい思いはしたくない。そう顔に書いてあるぜ。安心しな、俺たちは何でもねえ。分かってやれよ。いや無理か、お前バカだし」

「何だと」

「いや、本当にバカだよ。マジクソ馬鹿。なんでお前を送ってったとき、あの子がお前の妹にトガったと思う?なんでこの前あの子がここに来たとき、俺に送ってってくれって頼んだと思う?」

「知るかよ。そんなこと」

「あーあ、馬鹿。お前、一生無理だよ」

「てめー、マジで殺すぞ」

「そうやってトガってろよ。んで俺みたいなどうでもいい奴に絡んでろよ。はっきり言って、お前、無駄なことばっかしてるぞ。まあ、俺にも覚えがないわけじゃないけどさ」


 ハルトの声の色に、タケルはそもそもたじろいでいる。不倶戴天の敵であるはずのこの男が、なぜ自分にこれほど同情的なのかが分からないのだ。

 逆に言えば、そのハルトが放っておけないほど、今の自分は惨めだということになる。

 親切心なのか、あるいは馬鹿馬鹿しくて見ていられないからつい口を出してしまうのか、それは分からないしどうでもいい。しかし、タケルはハルトが喧嘩に応じずむしろ何かを理解させようとするような姿勢を取っていることから、自らの今の姿形を見るような思いであった。


「例のごとく負けた腹いせに喧嘩でも吹っかけてくるのかと思ったら、しおらしいところがあるじゃねえか」


 ハルトが皮肉っぽく笑う。


「とにかく、心配すんな。俺とカンナちゃんは何でもねえ。それどころか──」


 そこまで言って、言葉を切った。こうなると、続きが気になる。言え、言わねえの押し問答になった。


「わかった、わかった。こんなこと、していいのかな。お前のせいだからな、馬鹿。チラっと見て、忘れろ。そんで、自分で気付け」


 ハルトはポケットからスマートフォンを取り出し、メッセージアプリを起動した。

 そこには、カンナの名とアイコンの顔写真。タケルの目を、ブルーライトが覆う。


 ──昨日は、ありがとうございました。夏川くんにこんなにいいお友達がいると知って、すごく嬉しい気持ちです。


 カンナのは、このようにして始まっていた。ハルトの返答は、気にすんな、困ったことがあったらいつでも言ってくれ、というようなものであった。


 ──夏川くんと連絡は取っておられるのでしょうか。夏川くんの怪我は、大したことはなさそうです。大丈夫だ、お前には関係ない、としか言わない人だから、とても心配でした。でもほんとうに大丈夫そうで、安心しました。お知らせだけしておきます。


 しばらくそれをスクロールして、他愛もないようなやり取りが続くのを眺め、あるところで指を止めた。


 ──夏川くんのステージを、見てみたい。次はいつ立つんでしょう?

 ──次の火曜、来ると思うよ。フリーバトルのイベントの日だから。カンナちゃんも来れば?

 ──遅い時間なのでしょうか。五時まで塾があるので、終わってからでも間に合うでしょうか。

 ──七時からだから、大丈夫じゃない?終わりが遅くなるなら、それこそタケルに送ってもらえばいいじゃん。

 ──塾が、長引くかもしれなくて。

 ──なら、タケルに送ってもらいにだけ来ればいい。ヒップホップに興味があるんじゃなくて、タケルに会いたいんだ。そうだろ。


 それについてのカンナの返答は、熊のキャラクターが汗をかいているスタンプであった。


「お前、マジで後悔すんぞ。正直これを見せるのはフェアじゃないと思って黙ってたけどよ。あまりにも馬鹿だから、仕方ないよな。このコミュ障め。自分が怖がってるくせに、それをあの子のせいにして人に当たり散らすんじゃねーよ」

「なんだと──」


 なにか言いかけるタケルの横面に、ハルトの拳。誰が虐げるわけでもない自らの心の内が裂けるように叫ぶのは踏み出さねばならぬ一歩を避けると出ぬほんとうの言葉。

 駆ける。蒸し暑い夜に溶けるように粘りつくアスファルトを蹴って。ハルトに礼も感謝も告げずに、汗が飛ぶのも厭わずに。電車を待ってはいられない。自分の足で駆けなければならない。

 そして、自分の手で掴まなければならない。


 家の扉。その内側に、居場所はない。自分の部屋。ただ眠るために存在する空間。

 しかし、その中ではっきりと分かる、掴まなければならないもの。ぱっと手にしたそれが微かに立ち上らせる、金木犀きんもくせいの香り。

 枕草子。その中に、タケルの世界がある。

 いや、それと共に再生される言葉の中に。

 明日、図書室に行くのだ。行って、確かめるのだ。何を確かめるのかは、明日知ることができるだろう。それを心待ちにするあまり眠れなくて、置き去りにしてきたハルトはどうしただろうかなどと考えながら夜の残りを過ごした。そっとメグが室内を窺っている気配がしたが、気付かぬふりをして寝転びながら枕草子をなんとなく読んだ。

 まだカンナに教えてもらっていないくだりも、いくらか目を通してみた。意味は分からなくとも、清少納言の言葉がカンナの声で再生されるのを楽しむことができた。そうするうちに眠りがきて、朝になることだろう。


 果たして、朝がきた。思ったよりも遅く起きてしまったことに気付き、慌てて身支度をする。夏休みだというのに本を手にして学校にいそいそと日々向かうタケルを両親は感心がるが、それは無視する。いってらっしゃい、と送る声を上げるメグにだけ、ん、とくぐもった返答をし、スニーカーの踵を踏んで玄関の扉を開く。

 そこにある、あまり好きではない夏というものを潜り抜け、ハンバーグの鉄板のようなアスファルトを踏み、陽炎に揺れる横断歩道を越え、コンクリートの林を進む。

 そして、学校へ。解放されている図書室の扉を、乱暴すぎるほどの勢いで開く。

 そこに鎮座する女神と、目が合う。にっこりと微笑み、口を開く。

 言葉が、来るのだ。

 それを、待った。カンナの口が動き始めてからそれが音になって自分の耳に届くまでの刹那の間すら、惜しく感じた。

 そして、ようやくそれは来た。


「夏川くん」


 おう、となぜか気まずいような気がして、曖昧に返事をした。


「待ってたよ」


 自分を。なぜ。ハルトが見せてくれたメッセージの内容から想像することはできる。しかし、それがどういうことなのか、今ひとつはっきりとしない。

 そうか、とタケルは思った。それを、確かめるのだと。

 次の言葉を待った。すぐに、それは来た。女神の微笑は、変わらずそこにあった。


「もう、枕草子、終わりにしようか」


 え、という音が喉を揺らした。


「色々、考えたの。わたしも、受験だし。だから、枕草子は、もうおしまいにしてもいい?」


 何か、言わなければ。何か言わなければ、この女神は微笑と金木犀の香りと文庫サイズの枕草子だけを残し、自分の前から永遠に消えてしまうと思った。

 あの夜の落雷も、それがもたらした己の変化も、その正体を確かめられれぬまま。


 ――踏み出せ。


 己の声で、己の心に語りかけた。


 ――ほんとうに、永遠の負け犬ルーザーになるぞ。


 届かない。その確信があった。自分の心に何重にも張り巡らされた有刺鉄線を掻き分け、その最も深いところにあるものに届けなければならないのは分かっているが、それにしては自ら心の中で呟いた言葉はあまりに陳腐であった。

 いや、言葉になどできないのだ。

 だから、黙るしかない。


「ごめんね、夏川くん」


 そう言って微笑んで、カンナは立ち尽くすタケルのツイストパーマをわずかに揺らす風と共に、彼の横を歩き去った。

 やはり、金木犀の香りが残った。

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