タケルは世界との交わりを拒んでいる

 雨だった。季節を呼び戻したかのような空から降るそれを、タケルは睨んでいる。直接それを睨めば目に入り、視界は霞む。だから、窓越しに。

 守られた安全な場所から、外で騒ぐものを睨みつける。それがひどく滑稽なようで腹立たしいが、雨ごときにムキになってまともに立ち向かうほど自分は馬鹿ではないと思っている。


 浮いたり沈んだりするものである。そのたび、機嫌を良くして勉強に勤しんだり、何もかも投げ出したり。まるで流れに翻弄される落ち葉のようで、我ながら情けないと思った。


「お兄ちゃん」


 こういうときの決まりごとのように、メグが様子を見に来る。それを追い返す理由はないから、ベッドに仰向けになったまま喉を低く鳴らして生存を知らせた。


「雨、すごいね」


 また、喉を鳴らす。そういう最低限のコミュニケーションはできるが、思えば誰に対してもそうである。いわゆるコミュ障と世の人が言うようなものだが、彼に言わせればそれとはまた違う。あれは取り柄を持たぬ人が、どうにか己がその他大勢のうちの一人として社会的価値のないまま埋もれてしまわぬようにと苦し紛れに生み出す自己定義であると彼は思っている。


 自分は、違う。

 何においても、そう思ってしまう。

 しかし、たとえばカンナが見れば、どうか。

 枕草子で清少納言が揶揄するようなつまらぬ者でありはしないか。気位ばかりが高く、実態が伴っていないようなことになってはいないか。

 だんだん、自分の苛立ちの正体が分かってきている。それは掲げた理想の自分と、そうではない現実の差に生じる摩擦。ただ生き、歌い、喧嘩をしていただけの頃では想像もつかなかったそれが、今まさにタケルの前に確かな目鼻と手足を持って立っている。


 枕草子がなければ。カンナに出会わなければ。あの女神がもたらした正体のない電流がなければ。そうしなければ、タケルは今なお世界に対して孤独であり、それについての呪詛を内に溜め込んでいただろう。


 今は、違う。今はタケルは世界から孤立している。似ているようでいて、その差は大きい。自分と他者との線引きが明確になり、他者の目から見た自分というものを認識することができるようになってしまったのだ。

 それは人の二次性徴がもたらすものとしては当たり前のことであるが、タケルのような人種にとっては鮮やかな衝撃を伴って出現し、それまで構築してきたあらゆる文明を破壊し蹂躙する映画の怪獣のようなものである。


 ゆえに、苛まれている。

 雨が降ろうが蝉が鳴こうがそれが苛立たしく、晴れたら晴れたで苛立たしい。すれ違うサラリーマンが苦労が積み上がった結果もたらされたようなうつろな目をしてスマートフォンを握り締めていることも、それから眼を外したかと思えば若い女性の美貌などをチラチラ見ていたりすることも、ただ群れて騒ぐしかない異様な同年代も、己の正当性を認めぬ世界に怒り散らすしかないスローな老人も、テレビの中の私情が丸出しのコメンテーターも、それが説く若者の希望がなどという高尚な持論を真面目に聞けず混ぜ返すしかないプロモーター好みのお笑い芸人も、現実では起こり得ぬシチュエーションで現実ではあり得ぬ清い詞藻ばかりで恋愛を描いて人に非日常の理想を提供するアニメ映画も、そのテーマソングに選ばれているその辺に転がっている都合のよい言葉をそれらしく繋ぎ合わせて童謡と同じメロディーを流行りのアレンジとミックスで装飾した前髪で作りの悪い顔を隠したボーカリスト以外のメンバーの影の異様に薄い記号化されたバンドの曲も、そしてそれらに飛び付き絶賛し涙を流すことのできる貧弱で平穏な感性も、全てほんとうに己が受け入れて糧としなければならない、全くの他者のある種の有象無象から遺贈されたものを知りながらそれを心の浅い部分にわざわざ建てたコンクリート造の小屋の中に死蔵させるような事象に繋がるようで、まるで無邪気な自傷のように思えて、この世の全ての自称が歪んで、浮かんで俯瞰で世界を見ることをとことん阻んで、精神は不感症、だから拒む干渉それがもたらす損傷ゆえにそれを食らう化け物は繁盛という具合にああ無情な日常よと嘆くことすら許されぬ非常事態を目の前にしてそれすらも後光の差すものとして有り難がり諸行無常の響きありと古今未曾有の‪喝采を浴びせることそのものが目的となるような世界の全てに、タケルは苛まれている。‬


「ねえ、だいじょうぶ?」


 メグは知っている。人間は、気候に左右される生き物であると。タケルが寝転がったまま微動だにしない原因を、雨に求めた。


「ほっといてくれ」


 タケルからの返答は、メグが予想したものと少し違った。うるせー、お前に関係ねーだろ、というような言葉とぶっきらぼうな声が返ってくるものと思っていたが、その言葉は接触を拒むものであり、その声は季節が逆戻りして紫陽花が枯れかけているような憂いのある色を帯びていた。


「ねえ」


 だからメグはタケルの言葉に従わずに部屋へ足を踏み入れ、タケルの寝転ぶベッドの脇に腰かけた。その振動すら忌々しそうに眉をひそめるタケルに向かって困ったような顔を向けた。


「なんかあった?」

「べつに」


 その色はいつものタケルにわりあい近くて安堵する思いであったが、タケルがこう言うときは決まってその言葉の通りではない状態であることを示すこともまた知っている。だがここでは根掘り葉掘りになると逆効果であると思い、


「そう」


 とあえて素っ気ない返答のみを返した。


「あ、枕草子。まだ読んでるんだ」


 明るい声を演出して立ち上がって机の上に放り出された枕草子を手に取り、ぱらぱらとページをめくる。


「あれ、この前までのと違う本――?」

「触んじゃねえ」

「この前までのは、図書室のシールが貼ってあったよね。これ、自分で買ったの?」

「関係ねーだろ」


 なおもめくるページが、冷房の風に逆らった。

 メグの表情が、そこで俄かに変わった。タケルには背を向けた格好だから、彼には分からない。


「すごく、いい香り――」


 金木犀きんもくせい。それが、メグを包んでいる。それは、紛れもなく、カンナの香り。

 そのまま甘酸っぱい風を小さく立て続け、最後のページで止めた。


「お兄ちゃん」


 そこに、メグの眼が釘付けになっている。

 その視線が、あっと昼白色のLEDを仰いだ。


「触んなっつってんだろ」


 いつの間にか起き上がったタケルが、枕草子をひったくっていた。メグはまた困った顔をして溜め息を一つつき、タケルの調子がいつものようになりつつあることを確認した。


「ねえ。それって、こないだの女の人の本?」


 乾さん、だったよね、とメグが窺うように言った。タケルはただツイストパーマを垂らして煩わしそうにメグを睨むのみである。


「まだ、最後まで読んでないの?」

「は?何の話だよ」

「その本、最後まで読んでないの?」

「まだ借りたばっかりだからよ」

「そう」


 メグの表情に、また妙な明るさがもたらされた。


「お兄ちゃん、ごめんなさい。この前、お兄ちゃんの大切な人に、あたし、嫌なことを」

「べつに、いいさ」

「絶対、最後まで読んだ方がいい。投げ出さないで」

「なんだよ、気持ち悪いな」

「いいから。お兄ちゃんのために言っているのよ」

「わかったよ」


 正直、一人で枕草子を読破できる気がしない。それをするには、必ずカンナの助けが要る。最後まで読めというのは、このままカンナとの接触を続けろという意味か、とタケルは解釈した。だとすれば、自分のこの憂鬱がカンナとのことにあるということをメグが見抜いたということになるが、どうか。


「ヒップホップも、頑張ればいい。枕草子も、勉強すればいい。あたしがどれだけ嫌な子でも、あたしを嫌な子にしてでも、お兄ちゃんは自分の求めるものを自分で求めないと駄目」

「何言ってんだよ」

「言葉の通り。お兄ちゃんは、そういう人。そうじゃなきゃお兄ちゃんは世界を嫌いになる」


 先ほど自らの脳内に明滅していたことを覗いたかのようなことを言う。タケルは一瞬ぞっとしたがただの偶然であろうと思い、わかったよ、とのみ答えた。


「さ、塾行かなきゃ」

「今日も夏期講習かよ」

「そ。雨だから面倒くさいけどね」


 タケルの機嫌を窺いに来たメグこそ、空元気といった具合であった。だから、無意識に口を開いていた。


「送ってってやるよ」


 駅まで。

 雨じゃなくて、槍が降るわ。などと憎まれ口をきくメグであったが、拒みはしなかった。

 そのままタケルは街に繰り出し、ぶらぶらと歩いてみようと思った。

 雨だから。雨だから、世界は濡れ、人は減る。だから、世界との繋がりを断ち切らずに済むかもしれない。

 昼間に咲くヘッドライトは、雨のときにしか見ることはできない。

 まるで、自分のようだ。そう思い、陳腐な詞操に辟易した。

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