タケルは頭の中で再生する
それからほとんど毎日、タケルは午前中から図書室に出向いてカンナと会って枕草子を教わった。いくつか、印象的なフレーズもあった。それらは清少納言の言葉ではなく、カンナの声で再生された。
『興醒めするもの。
昼に吠える犬。冬の漁のための道具が春になっても放ったらかし。もう散った花を連想させる着物。牛の死んだ牛飼い。赤ん坊のいない産屋。火のない火鉢や、いろり。学者の家に女の子ばかり続けて生まれること。然るべき訪ね方をしてもご馳走をしない家。それが特別な日なら、言うまでもなくがっかりだ』
──二二段
『心ときめくもの。
スズメの子を飼うこと。子供を遊ばせている所の前を通ること。
いい匂いに包まれて、ごろ寝。少し曇った鏡の中の世界。
身分の高そうな男が牛車を止めて、供の者に何か尋ねさせているさま。
バッチリおめかしをして、いい匂いの服を着ること。誰に見せるでもなくても、自分のはすごく弾んだ気分になる。
──待っている人がある夜の雨と風音。それも、心が騒ぐ』
──二六段
『昔が恋しくなるもの。
枯れてしまった葵。人形遊びの道具。
紫がかった青色や薄紫色などの布切れが、本の間にぺちゃんこになって挟まっているのを見つけたとき。
もらったとき心を動かされた手紙が雨などが降ってすることがない日に出てきたとき。
それに、去年の扇も』
──二七段
自分の声も、合わせて再生される。
「昔の自分を、自分が過ごしてきた時間を懐かしむ。平安時代でも、そうなんだな」
カンナの声の色が変わり、また再生される。
「人の心は、時代が変わっても変わらない。そういうものみたいね」
「布切れのくだりなんて、なかなかクールだな。昔、すごく好きな色だったとか」
「あるいは、昔とても気に入っていた着物の端切れだとかね」
タケルは、ものに感じやすい。清少納言という千年も昔の女の感受性がそのまま彼の心を揺さぶり、酸っぱい悲しさとでもいうべきもので満たされた。
「ラップにも使えそうだ」
「ほんとう?古典とラップなんて、やっぱりイメージできない」
「そうでもないさ。ラップってのは、そのとき頭にあるものを言葉にして綴るもんだ。リズムや韻なんていうのはテクニックの話で、本質は、どれだけ自分の感性を表現できるか、なんだ」
「そういう意味じゃ、枕草子と通ずるものがあるのかも」
「だろ」
それで、とカンナの表情が意地悪になった。
「夏川くんのステージは、いつ招待してもらえるのかな」
タケルは苦笑いをし、首を傾げるしかなかった。
今、タケルはまた夜の、彼の世界の中に。
無論、カンナはいない。どういうわけか、ハルが観客席にいる。意外なことにハルはフルートだったかクラリネットだったかを習っていて、その帰りに鉢合わせをした。来るなと拒むタケルを押し切り、そのまま付いて来てしまったのだ。
目の前にはハルではなく、名前が似ていてややこしいハルト。どちらにしろ、タケルは苦手である。それがマイクを口許に当て、鋭く息を吸う。
「お前の申し出丁重に断り、見えてる勝負は平常心の塊、ひとたまりもない
わっと歓声。やはり、上手い。ハルも指差して笑っている。タケルはハルトに眼を戻し、続きを乞うように手招きをした。
「気勢だけ盛んでもライムは破綻、このご時勢に流行らねえ美声はママ譲り、この勝負自体が破談、ギタンギタンにやられて降りろステージ、俺は進むぜ次のページへ」
くるりとマイクを翻し、客席に向かって両手を挙げる。大歓声が、それを賛辞した。タケルはポケットから一つ手を出し、つかつかと歩み寄ってそのマイクを奪い取る。
「春は曙、夏は夜。秋は夕暮れ、冬は凍傷。ノージョーク、褒賞なくても捧げろよ同情、お前らの総称は揃ってクズ、どうしょうもない奴が集まって渦、まるで雑兵、表せよ本性、少々馬鹿でも数ありゃ上昇、後生大事に抱えてろ王将、裏をかかれりゃすぐチェックメイトだ、せいぜい後ろに気を付けな」
先日に引き続き、明らかに、タケルのラップが変わっている。ハルトは露骨に驚いた顔をしている。
「前回、永遠の
わっと湧く客席。予定調和のようになっていたタケルの無残な負けが覆り、勝負が面白くなっているのだろう。ステージから降りた二人を、口々に讃えた。
「タケル。お疲れ。かっこよかったよ」
ハルが重低音に揺れる人の群れを押しのけて笑いかけてきた。
「あんた、ほんとにすごいのね。久し振りに見たけど、めちゃくちゃカッコいい」
タケルは、答えない。どのみちこの重低音の中では、普段の声量でハルに答えることができないのだ。
ハルが差し出してきたジンジャーエールを黙って受け取り、口に。
ステージの後は、喉が渇く。緊張しているのかもしれない。それを細かな泡が打ち付け、弾けさせてゆく。
「あれ、もう出るの?」
このままただ音楽が流れているだけのフロアに留まる意味などないから、タケルはさっさと防音扉の向こうの世界へと足を向けた。
「今日もカッコよかったよ、お疲れ」
バーカウンターの向こうから声をかけてくるミサキに、黙って空のカップを返す。
「ほんと、どうしちゃったの。ライムも凄いし、なんか最近、オーラがある」
「オーラ?」
「うん、スターみたいな」
「なに時代の話だよ」
「ううん、もともと、タケル君はその辺のラッパーとは違うって思ってたから。あたしの目に狂いはなかったってことね」
「ちょっと」
ハルが不機嫌そうに割って入る。
「あなた、誰?悪いけど、タケルは昔からこうだったわよ。偏屈で気が短くて面倒くさがり屋で。でもまっすぐで、ひたむきだったわ。今になってタケルがいきなり変わったみたいに言うのは、やめてもらえない?」
「──うわ」
ミサキの顔が、ぱっと綻んだ。まずい、とタケルの本能が危機を察知する。
「そっか、そっか。タケル君、彼女できたんだ。ごめんね、気を悪くしたよね」
「馬鹿野郎、違う」
「いいのいいの、大丈夫」
何が大丈夫なのか、ハルに笑って謝罪をし、ひらひらと手を振るミサキを置き去って、釈然としないままライブハウスを出た。
薄っぺらい階段を上がり終わると、なぜかハルがにやにやしながら腕を組んできた。それを振り払おうとしつつ、開けた夜へ。
そこに、タケルを待つ姿があった。
「夏川くん」
カンナ。タケルの血が凍った。まず何をすべきなのか脳が選択肢を探そうとするが、完全に硬直してしまって動くことすらできない。
「──あ。ハルさんも」
タケルにまとわりつくハルの姿を今更認め、にっこりと笑う。そのハルを突き飛ばして離れさせ、咳払いをした。
「なんで、ここに」
それが、さいしょに出た言葉。
「なんでって。ステージに立つときは教えてねって言ったのに、ちっとも教えてくれないんだから。でも、もう終わっちゃったのね。塾が長引いちゃって、間に合わなかった」
見れば、カンナの前髪が夜に濡れて、額に貼り付いている。もしかして、走ってきたのか。ステージを観るために。
だとすれば。だとすれば、というところでタケルの思考は切れた。
何も言えず、拳を握り締め、うつ向くしかない。
「おー、カンナちゃん」
背後から、間延びした声。ハルトが
「今来たのかよ。間に合わなかったな」
「そうなんです。塾が、長引いてしまって」
「なんだよ。残念だな」
タケルには、分からない。ハルトは、カンナが来ることを知っていた。ハルトが呼んだのか。そういえば、互いに連絡先の交換をしたと言っていた。
自分より、ハルトの方がカンナに近い。カンナちゃん、どころか、どう呼べばよいのかすら分からずお前呼ばわりしてしまっているような有様の自分が、ひどく情けないもののように思えた。
「だから、せっかく来たけど、帰らなきゃ。ハルトくん、駅まで送ってね」
雷電を伴った笑顔が、ハルトに向けられる。それは、自分の背骨に走るべきもののはずだ、とタケルは怒りに似たものを覚えた。ゆえに、抗った。
「俺が──」
「あなたは、ハルさんを送っていってあげなくちゃ駄目」
あの圧力で、こんなことを言われたくはなかった。言われれば、従うしかないではないか。
そのままカンナは振り返りもせず、歩いて行ってしまった。
「じゃあな、タケル。お前、マジで上手くなってんな。ムカつくけどよ」
ハルトもそれを追いかけ、去った。
タケルは、夜の中に。何の意味も価値もない、コンクリートとアスファルトの海に。
「──帰ろ、タケル」
なぜか機嫌を取るようなハルの声に、心底苛立った。
うきもの。
清少納言なら、この気持ちをこう表すのかもしれない。
憂き、というのは己の内に向かってイライラし、つらし、というのは外に向かって発現するものである。
それが、カンナの声と金木犀の香りで再生された。
ハルの言葉に苛立ったのではない。この苛立ちは、己の内に向く類のものである。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます