タケルは冷めたスパゲティと魂の救済の味を知る

 学校から家の方へ向かうのとは反対側へ、二人の足は進む。そのまま国道に出、ファミレスに入った。

 中と外の気圧差か何かで、そのドアを開くには力一杯取っ手を引かなければならず、それが自宅の玄関やライブハウスの防音扉とはまた違う感覚で、タケルはそれまで彼の知らなかった新たな扉を開き、その向こうにある世界へと足を踏み入れるような錯覚をした。


 あてがわれた窓際の席で、ちょこんと向かい合う二人。ズボンこそ制服のものであるが、ツイストパーマを麻布でひとつにまとめ、スポーツメーカーのTシャツを着たタケルとひとつも着崩すことなく制服を身に纏い、綺麗に整えた黒髪で背筋を伸ばして座るカンナの対比に、店員は苦笑いをするような、あるいは珍しいものでも見るような顔を向けてきた。

 いや、それもタケルがそう感じただけで、実際のところはそうでもないのかもしれない。


 カンナは何か話しているが、タケルは無言でメニューを開き、注文すべきものを見定めようとした。しかし何を食うべきなのか考えることができず、カンナが注文するものと同じものを注文することにした。


「飲み物、取ってきてあげる。何がいい?」

「あ、あ──」


 ドリンクバーのカウンターを指し、今にも行ってしまいそうなカンナを、辛うじて制した。


「俺が、行ってくる。何がいい」

「そう?じゃあ、一緒に選びに行こ」


 こういうときは自ら進んで飲み物などを取りに行くものだという知識を実践しようとしたわけであるが、カンナには通用しない。席に残した荷物を気にしつつ、二人並んで飲み物を選ぶなどという羽目になってしまった。

 オレンジジュースにするか、コーラにするかなどと迷っているカンナに構わず、タケルはジンジャーエールを。その動作に一片の迷いもないことに、カンナが目を向けた。


「ジンジャーエール、好きなの?」

「いや、べつに」


 特に理由はない。ただなんとなく、昔からジンジャーエールばかりを飲んでいる。それが何故なのだろうと思ったが、自分でも心当たりがない。


「いいなあ。わたし、炭酸苦手で。ゴクゴク飲んでる人を見ると、羨ましくなる」

「苦手なんじゃねえのかよ」

「苦手。でも、飲みたい。そういうジレンマ、分かる?」


 席についてアイスティーに挿さったストローに薄い色のリップで飾った唇をつけ、なにか含みでもあるかのような笑みを浮かべる。その上で発せられるジレンマという単語に、タケルの心はなぜか乱された。


 ジレンマ。百戦錬磨。隠せぬ線は。責任転嫁。跨がる天馬。未練は。次々と言葉が頭の中で積み重なり、ライムしてゆく。無論、それを口に出すことはないが、彼がものに感じ入ったときというのは、概ねこのような具合であった。


「知らないものを知りたがり、憧れる気持ち。知らないものを怖がり、避ける気持ち。そのどちらをも、人は持つものよ」


 さすが、文学部部長であるとタケルは素直に舌を巻いた。周りの大人がもしこれを聞いていれば、高校生の少女が分かったようなことを言う、と笑うかもしれぬが、彼らの世界においては、カンナは古の思想家か詩人に等しい存在である。

 言葉に引き込まれそうになり、思わず声を。


「さっきは、ありがとう」


 カンナは、きょとんとしている。


「枕草子、貸してくれて」

「だって、夏川くんが──」


 そこへ、料理が運ばれてきた。何も考えずカンナの注文したのと同じものを注文したタケルであるが、目の前に置かれた皿の異様な存在感に、思わず目を剥いた。


「やったあ。いただきます」


 通常の二倍のサイズの大盛りパスタにパン、サラダとスープのついたセットを前にして、カンナは嬉しそうである。もともと食の細いタケルは天を衝かんとするかのように盛られたパスタのあまりの圧力に、早くも屈服しかけている。


「夏川くん、おなかすいてたのね。ここ、いっぱい食べられて安いから、大好き」

「そうかよ」


 タケルは、ある意味この料理に救われもしている。ありがとう、などというしおらしい台詞を、かき消してくれたのだから。


「食い切れるのかよ」


 そのまま、料理の方に話を流しきるのがよい。タケルはそう判断し、言葉を使った。


「もちろん。女の子が全員少食だって思ってる人が多いのは、ある部分においてはテレビや漫画、小説なんかが作り出した繊細さ、か弱さ、儚さっていう価値を女の子に付与したからよ。もちろん、ほんとに少食な人もたくさんいるだろうけど」

「たしかに。うちの妹なんかも、馬鹿みてえに食うからな」


 妹、という言葉を出してしまい、一瞬背筋が寒くなった。しかしどうして寒くなるのだろうと思い、構わず続けた。


「なんで、女の子がたくさん食べちゃ駄目なの。いつも、そんな風に母親に噛み付いてやがる」

「そう、ほんとそれ。わたしも、家でよくお母さんに怒られるの。女の子なんだから、食べ過ぎちゃ駄目って」

「べつに食うくらい、好きにすればいいのにな」

「ほんと」


 何気ない談笑をしているということを認知してしまえば、またタケルのコオロギのように小さい肝は震え上がってしまうかもしれない。その自覚があるから、つとめて認知しないようにした。その時点で既に認知しているわけであるが、なにも意識せぬよりはマシである。


「夏川くん、やっぱり妹さんと仲がいいのね」

「そうでもない」


 話が妙な方向に向かぬよう注意を払いながら、タケルはスパゲティを頬張った。


「どうして、家族の話をしたがらないの?」


 タケルのフォークが、止まった。カンナのそれは変わらず動き続け、彼女の口に満足を運び続けている。


「あ、ごめん。聞いちゃいけなかった?」

「いや、べつに」

「夏川くんは、自分のこと話すの苦手ね」

「べつに話すことなんてない」

「ほら。さいきん、家族でどこかに行ったとか。お父さんやお母さんは、どんな人だとか」

「話すことが、ないんだ」


 スパゲティを咀嚼するのをやめ、タケルの顔の色を伺う。その色が、これまで見たことのある悪ガキのヒップホッパーのそれとは違うことに気付き、フォークを置いた。


「ごめんなさい」

「いや、別にいい」


 カンナは聡明であるから、なにごとかを察したのであろう。それきり口を閉ざし、再び開いたときにはまたスパゲティを頬張りはじめた。

 そうなると、タケルの方から話をしてしまうものである。


「ずっと、親父とお袋から、ロクデナシと言われてきた」


 カンナの眼が、皿から上がった。タケルはその愛らしい上目遣いを通り越し、別のものを見ている。


「妹が私立の中学にいられなくなったのも、俺のせいだって」

「そんなこと――」

「実際、俺もそう思う。俺のせいで、あいつの人生は」

「夏川くん」


 タケルが、ジンジャーエールを口に含む。特に理由はないが、この飲み物はいつも彼の側にあり、彼の口の中で泡を弾けさせている。


「妹さんは、あなたを恨んでる?」

「わからない」

「あなたを冷たい目で見て、あなたの問いかけを無視する?」

「いや、それは──」


 それは、自分の方である。メグに限って、それはない。夜遅くまで遊び呆けていても勉強をしなくとも、ときに毒のある言葉を吐きながらでもいつも気遣い、見守ってくれている。だからこそ、合わせる顔がない。


「こないだ、ちょっと見ただけだから分からないけれど、妹さんは、あなたをほんとうに大切に思っているような気がした」


 カンナにしては、曖昧な言い方である。いつもの圧力で断定せぬのか、と思ったが、繊細な話題に踏み込んでいることへの配慮であろう。


「──親と俺との板挟みで、あいつが一番辛いところだろうな。優秀なあいつに比べ、俺は糞みてえだ。いつも俺と妹は、そんな中で互いの顔色を測り合い、言葉のない答え合わせをし続けてる」

「大丈夫」

「なにが」

「それも、あなたと妹さんが、お互いを大切に思うから。傷付けたくないと思うから」


 ふと圧力が緩んだかと思えば、やはりカンナの言葉である。

 耳ではなく、脳を。脳ではなく、心を揺らすようなふしぎな周期を持つそれを、仰ぎ見るようにして聴いた。


「だから、大丈夫。妹さんは自分の努力で自分の人生をこれから歩み、自分で幸せになっていくわ。あなたがすべきなのはそれを阻んだと自分を責めることではなく、あなたにしか向けられない目で見守り、ときに応援し、ときに力を貸してあげること。そして、ときに助けを求めること」


 冷めたスパゲティは何とも対比にはならぬが、タケルの心臓は熱くなった。退避するわけにはゆかぬ生を歩むため、毎時、心を開示して歳費を惜しまず。零時になっても帰らぬ自分をシンデレラと揶揄して笑うあの顔は、たとえ誰が望んだとて得ることができぬものなのだ。正規の手続きを踏まぬ歪んだ兄妹であると自己定義をしていたが、実はそうではなく少しの立ち位置の変化で容易く解けるのかもしれぬ。

 最適解を求め沸いて期待を募らせる親に泣いて機械のように従い外敵はいつも己の内と苦しみもがき、足掻き続けるその手段こそ違え、メグは自分の鏡写しなのだ。


「わたしが言っても、意味ないけどね」


 カンナからの圧力が止んだ。そうすると、反作用のようにしてタケルの血の脈の内を、凄まじい勢いでもって駆け回る。


「あんたが言うから、意味がある」


 タケルは鋭くカンナを睨み付け、スパゲティにフォークを伸ばした。


「悪い。下らねえ話に付き合わせたおかげで、冷めちまった」

「あら。ここのスパゲティは、冷めても美味しいの。きっと、麺が違うのね。知らなかった?」


 片眉を上げて得意げに笑うカンナに、なぜか苛ついた。

 だけど、話せてよかったのかもしれない。

 答えはない。もともと、答えはないのだ。

 しかし、それでも、わずかに自分の魂が洗われ、泥の中から救い出されたような気がしていた。


「食い切れるかな」

「頑張って」


 そのあとは、黙々と冷めたスパゲティと格闘した。

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