タケルは南天の味を想像する
テストはタケルを通り過ぎ、夏休み。
メグなどは大仕事を終えたような顔をして持ち帰った答案をさらに見直し、ミスした箇所についてさらに復習したりしている。タケルは返却された答案の点数を見もせずそれぞれ小さく折り畳んでポケットにねじ込み、それを忘れて洗濯に回してしまって悲惨な有様になったりしたが、それは余談。
夏休みの初日、さっそく学校に出向くことにした。手には、枕草子。
青を巡らせた空に、アクリルのような色彩を見せつける入道雲。それを睨み付け、眩しくて目を逸らす。なぜか負けたような気がして妙に腹立たしくなりながら、彼にとってまだいくらか馴染みのあるひび割れたアスファルトを鳴らしたが、それすらも熱にゆらめいていて、やはり腹立たしくなった。
蒸し暑い空気とうるさい陽射しが蝉の声をスポンジのように吸い込んでいる。夏とは、そういうものであるらしい。産まれてから十数度目の夏でありながら、毎年同じようなことを思うのだ。
「あ」
後ろから飛んできた、最もポピュラーであるかもしれない母音が蝉の声を一瞬だけ塗り替えた。それが耳の中で暴れて、タケルはたじろいで足を止めた。
「夏川くん」
相手は麻布でまとめて長く垂らしたツイストパーマの後姿でそれがタケルであると既に判じているから、知らぬふりをするわけにもいかなかった。
振り返るしかない。振り返り、その声の主がどのような顔をしているのか、確かめるしかない。
「もしかして、図書室?」
なぜそんな風に悪の権化のような顔して笑うのか、と思うと腹立たしくなった。やはり、タケルが通り過ぎた交差点から姿を現したであろうこれは、女神ではなく悪魔だった。
「悪いかよ」
タケルはその悪魔に取り殺されまいとして、ひどくぶっきらぼうに言った。それでこの悪魔が逃散するはずもないが、流されて魂を食われるよりはマシである。
ふと、気付いた。この悪魔が、わずかに肩で息をしていることに。ヒップホップで培った感受性と観察力が、彼の頭の中に像を結んだ。
走ってきたのだ。交差点を通り過ぎる自分の姿を横から見て。走って追いかけて角を曲がり、今見つけたような顔をして後ろから呼び止めたのだ。
そう思うとこの悪魔が途端にカンナになって、それがさらにタケルを動揺させた。
不思議なものである。思えば、彼女が女神であった頃が、一番ましであった。それが悪魔となって戸惑い、悪魔がカンナとなって、さらにたちが悪くなったように思える。
「待ってるまでもなかったね。途中で、行き合うなんて」
それを推進力にして、軽い足取りで距離を詰めてきた。思わず身構えてしまいそうになるような圧力があった。
「べつに──」
そこまで言って、言葉に詰まった。
べつに、お前に会いに来たわけじゃない。そう言おうとした。しかし、それは嘘である。自分が手にしているのは枕草子であり、それを持ち歩いて図書室に行ったところで、カンナがいなければ何にもならぬのだから。そうである以上、タケルはカンナに会いに来たのである。
尻すぼみになったままの言葉。蝉の音は、なお強く。もともとは、何でもないことであった。意図はなく口許に笑みを浮かべる顔を横から覗き込むことは、ただ心臓を熊蝉のビートにしてゆくばかり。そうとは知らぬ女神でも悪魔でもないカンナが振り撒く
当たり前のようにして、タケルに歩調を合わせるカンナ。それがどうしてもあり得ぬことのように思えて、ただアスファルトを睨み付けるしかない。
思えば、並んで歩くのは、これがはじめてである。さいしょはコンビニの前で不良からカンナを救ってそのまま逃げ出し、あとは図書室で互いに向かい合ってばかりであった。あとは、並んで歩くどころか怪我をして肩を借りて歩いたくらいである。
あのとき、タケルは内心自分の惨めさを呪ったが、それとはまた別のところで、カンナがすぐ近くにいて自分に触れているということに信じられぬほど動揺していたのだ。そのとき自覚はなくとも、明らかにそうであった。
「今更だけどさ」
カンナが自分の頭の中にある単語をそのまま口にしたものだから、飛び上がりそうになった。続きを待つと、なんでもないような調子で言葉を継いでゆく。
「夏川くんって、無口だよね」
深い意味はない。ただの雑談なのだ。なるほど、頭の中は忙しく働いていても、実際それを言葉にしないなら、タケルは無口ということになるのだろう。
紫陽花を追い越してから、タケルは口を開いた。
「べつに」
「ほら、やっぱり。お喋りは嫌い?」
「べつに」
「夏休み、家族でどっか行かないの?」
「行くわけねーじゃん」
やはり会話というものが苦手である。カンナがそれを求めるのは誰かと共に歩いているのだから当然のことであるとして、それを受けた自分はどうすればよいのか分からないのだ。
そもそも、人とこうして並んで歩くということ自体、極めて少ない。そんなことを考えていると、原付が二人の横を鋭く通り過ぎて、危ないなと思ってタケルは歩く位置を入れ替えてカンナを路側帯の中に入れた。
「そうそう、女の子と歩くときは、ちゃんと車道側から遠ざけてあげないとね」
そういうものか、と思った。それならば、自分はカンナを女性として意識したことになるではないか、と意味のない抵抗をしてみるが、くすくすと笑うカンナに曖昧に頷くしかない。
陽射しとそれがもたらす熱に浮かされたようになっているアスファルトを踏み、なお歩く。ときおりある横断歩道の前で立ち止まるたび、靴裏が溶けそうになった。
「それで、少しは進んだ?」
カンナの視線が、タケルの手元に落ちている。そこには、枕草子。
「図書室の本は、ちゃんと返却しないと駄目よ」
「分かってる」
手元にあるのが学生の共有財産であることはもちろん分かっているが、どうしてもそれを返却する気になれなかった。返却したとしても書店に行って同じものを買えばよいのだが、なぜか図書室のシールが貼られたこの本でないと意味がないような気がしていた。
「今日、ちゃんと返却するように。わかった?」
答えない。返却してしまえば、図書室に来る口実がなくなるではないか。そう言ってしまえれば楽なのだろう。
返却したとしても別に図書室など気軽に利用すればよいし、カンナに会いたいなら連絡先を聞けばよい。しかし、それだけのことすらもできない。
それよりも、今日返却してしまえば、今日が最後になってしまうような気がするのだ。この薄汚れた、自分のものでもなんでもない小さな本が、あの日の女神に祈りを捧げることのできる唯一の道具であるような気がしていた。
学校に着いても、タケルの口数は少ない。札付きのアウトローであることを知らぬ者はないタケルが、学校一の才色兼備であることを知らぬ者はないカンナに伴われているという光景がこの世ではあり得ぬもののように見えるらしく、学内をうろついている教師や部活などのために登校している生徒は呆気に取られて二人を見送った。
タケルが先導しているのならばなにか良からぬことを企んでいるような目で見られたであろうが、カンナの方が先に立って大股で廊下をローファーで踏み鳴らし、それにタケルが合わせるようにしてとことこと付いてゆくといった姿が、滑稽であり不可解であった。
その二人は、まっすぐに図書室へ。
「さ、始めましょ」
冷房のスイッチを入れ、カンナがいつもの席についた。タケルも、その向かいの指定席へ。それに遅れてやってくる冷気に、タケルのツイストパーマがわずかに揺れた。空調のルーバーの動きに合わせ、さらに遅れてカンナの髪が。
先ほど見た紫陽花は季節遅れではあるが、利きの悪い空調に運ばれてくるカンナの髪の香り。その花の香りは季節遅れどころか、季節外れである。
そのまま、今までの通り枕草子を読み解いてゆく。頭に入ったり入らなかったりであったが、よく分からぬ部分に関してはカンナが丁寧に、繰り返し教えてくれた。
季節のことや、人。そしてその心のうち。自らの価値観。文化。世の中の流れ。早い話が、そのようなものを面白おかしく、ときに辛口に書き連ねてゆくようなものが枕草子なのだとタケルは解釈している。
いくらか、会話もした。今二人で眺めている書籍の内容についてであるから、会話をすることができた。枕草子があれば、タケルはカンナと対等であった。
タケルが質問をし、カンナが書籍を覗き込もうと顔を近付ける。そんなことも、気にならなかった。
気付けば陽はなお高くなり、怒り狂ったように世界を見下ろしている。それを、どちらからともなく見た。
「おなか、すいたね」
「そうかよ」
「帰ろっか。その前に、ちゃんと返却手続きね。ほんとは、貸し出し期間は一週間なんだから」
時計は、正午を回っている。学校に到着したのが十時ちょうどであったから、気付けば二時間あまりが経過していたのだ。明るく笑って立ち上がるカンナと席から立とうとしないタケルが、真夏の昼間の世界に置き去られたように存在している。
「どうしたの」
憮然とするタケルに、カンナは椅子を引いたまま不思議そうな顔を向けた。
「帰ろう?」
「――嫌だ」
空調の音が、頼りなげに響いている。その中で、タケルはカンナからも自らの世界を切り離そうとした。彼の中に決して誰にも打ち破れぬ砦があるとするなら、ヒップホップのスキルでも喧嘩の強さでもなく、この他者に対して野良猫のように距離を取ろうとする性格であろう。その砦が、カンナの誘いを拒んだ。
「どうして?」
当然の疑問を、カンナは投げかけた。帰るならば、返却手続きをしなければならない。タケルはそれを拒んだのであるが、その理由について明確な自覚もなければそれを表す言葉もない。
「――嫌だ」
ただ、そう言うしかない。
「変なの。だだっ子みたい」
この陽射しがずっと柔らかくなり、風が冷たくなりかけた頃に南天の実が
「あーあ。せっかく、いいもの持ってきたのにな」
タケルは、答えない。いいものと言われてそれに食いついていては、ほんとうに子供ではないか。
「仕方ないなあ」
面倒見のよい姉のように、鞄に手を差し入れる。
「はい、これ」
取り出したものを、タケルは凝視した。そこには、紛れもなく枕草子の文字。タケルが借りたままになっているのとはまた別の出版社のものであろうが、現代語訳つきと表紙には書かれている。
「持ってきたの。これ、あげようと思って」
「俺に?」
「そう。夏川くんに」
なぜか、ひどく重要なものでも渡すかのようにして差し出された枕草子を、流されるように手に取った。
「だから、ちゃんと返却手続きしなきゃ。ね」
「――わかった」
やはり、駄々をこねる子供である。すんなり応じた。カンナは満足そうに頷いて笑い、タケルを促して立ち上がらせ、返却手続きの仕方を教示した。
「また明日ね」
「おう」
図書室の前で、別れるのか。行きは共に来たのに、帰りは別。特に不思議なことではないが、なんとなく違和感を覚えた。それとは別に、また明日、という言葉が妙な残す
「ねえ、夏川くん」
数歩進んだタケルを、カンナが呼び止める。
「お昼ごはん、どっかで食べて帰る?」
口の中が酸っぱくなり、タケルは赤面を禁じることができなかった。カンナにそれを見られぬよう、あわてて窓の外を睨み付けた。
そこには、南天の木。いまはまだ葉ばかりが茂っているが、然るべき季節になれば真っ赤な実が鳴り響くのだろう。
それをひとつ摘んで口に入れたらこのような味がするものだろうか、と何となく思った。
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