タケルは素直が一番だと諭される

「勉強、進んでんのかよ」


 眼を合わせることなく、タケルがメグに話しかけた。一瞬の静寂ののち、声が返ってきた。


「うん」

「そうかよ」

「何。どうしたの?」

「べつに」


 みじかいやり取りを交わし、メグの部屋の扉を閉めた。カンナはメグに謝りたいと言ったが、この先この二人が関わることなどないのだから、べつにいいだろうとタケルは思う。しかし、筋は通す、と強い意志を示すのを見てしまったものだから、気にはなる。


「お兄ちゃんこそ、勉強しなさいよ」


 閉めた扉を突き破って届く声に曖昧に返事をし、タケルも自室に戻った。

 夏場は、さすがに上着は着ない。高校生とは思えぬほどによく締まった腕をむき出しにし、皺だらけのTシャツに着替える。足を穿った三本ラインのトラックスーツと同じメーカーのものである。

 ツイストパーマが垂れて視界を妨げる度、なぜ自分がこのような頭をしているのか恨めしくなる。海外のヒップホッパーに憧れてそれを真似たのだが、煩わしいことも多い。

 それを額から頭頂にかけて麻布を巻いて乱暴にまとめ、またドアを開く。

 出かけるのだ。自分の世界へ。なぜか、身体の内から力が一から湧いてくるような、そのにこちらから手を伸ばすような気分だった。


「どこ行くの」


 部屋の外では、自室で机に向かっていたはずのメグがじっとりとした眼をしながら立っていた。


「ライブハウスだよ。悪いか」


 わざと悪びれる様子を見せず、居丈高になって言うタケルをしばらく眺め、メグが口の端を吊り上げて笑った。


「玄関でたらそこは戦場、しかしするな喧嘩、もたらせよ変化、真面目だけが正義じゃない、しかし悲しませるなお前の妹、そう思うとうとうとしてられねーぞタケル、発想の転換、キメて来いよ連歌れんが、そして早く帰れよ負け犬殿下」


 メグなりに、応援しているということであろうか。しかしこの前のように危ない目に合うようなことを案じている。その気持ちが分かり、タケルは顔をしかめ、


「段々ライムが上手くなってるの、何なの」


 と言ってぎこちなく笑い、メグの脇を通り過ぎた。


 そのまま、夜へと踏み出す。己が身を置くべき場所が、そこなのだ。

 真面目に勉強をして、何になる。ひたすらヒップホップに打ち込んで、何になる。その先に自分が生きるべき世界があると定めぬのに、それをして何になる。

 ただ言われた通りに学校に通い、ただ言われた通りに問題を解き、テストの点が良かった悪かったで騒ぐ。その先にあるものは、何だ。

 ただ憧れてヒップホップに入れ込み、ただ自分もヒーローになりたくてステージ立ち、その結果観客の声が多かった少なかったを気にして騒ぐ。その先にあるのもは、何だ。

 勉強が無意味なわけではなく、ヒップホップが無価値なわけでもない。ただ、何となく自分が流されるようにしてその世界を漂うのが、嫌なのだ。


 だから、タケルは踏み出した。夜へ。いくつものテールランプがタケルを追い越し、いくつものヘッドライトがタケルを貫いた。何人もの人を追い越し、何人もの人とすれ違った。

 それら全てを越えたその向こうにある、今にも壊れそうな螺旋階段の下へ。


「ちょっと見なかったな。調子はどうだ」

「まあな。悪くない」


 受付のリュウに軽く挨拶をし、ミサキからジンジャーエールを受け取る。それで少し喉を湿して、フロアへ。

 重低音キック。熱気と歓声と罵声。スポットライト。それらが、タケルを見てよそよそしく笑った。


勝者ウィナー、ハルト!」


 司会M Cが場を盛り上げる。破れた者は小さくなってステージを降りる。いつもの光景だ。

 タケルの存在に気付いたハルトがにやりと笑い、顎で合図をした。

 上がって来い、ということである。タケルは無表情のままジンジャーエールをがぶ飲みし、ぱっと手から離した。

 砕かれた氷と黄金色の液体が、ライトに踊る。見下ろしながらおごるハルトを睨み上げ、一度立ち止まる。


「タケルだ!永遠の負け犬ルーザー、タケルだ!」


 タケルを見つけ、観客を煽り立てるマイクゴーハチ越しの声。観客は、それほど沸かない。いい加減、飽きられているのだ。ハルトがまた勝ち、タケルは無様に負けるのが見えているからである。

 もう、タケルはやられ役としてすら必要とされていない。そのことに腹を立てることもない。ただ黙って観客をかき分け、舞台袖を通ることなくステージへ飛び上がった。


「もう、怪我はいいのかよ。ヘタレ」

「世話んなったな。海兵隊」


 肉声を交わす。善悪も、好悪もない。そういうところに、二人は立っている。


「表だ」


 ハルトが、M Cをちらりと見る。投げられたコインの表裏で、先攻を決める。

 ハルトが先。手にしたままのマイクゴーハチを、口元に。

 シーケンス。


「Hey,Yo――」


 グルーヴを掴むために、入り口ドアを探す。だんだんビートが身体に染み込んでゆくのが分かって、向かい合うタケルはじっとそれを睨みつけながら乾いた唾を飲み込んだ。

 スネアの裏に、呼吸ブレス

 そして頭のキックに合わせ、それを言葉にして吐く。


「暫くぶりのステージ、空っぽのゲージ、平時はアウトロー演じ、可愛い妹に怒られて思考停止、マジ古臭いヤンキー昭和より明治、帰宅遅くなるなよ零時、門限を提示、閉じ込められろケージ、喧嘩吹っかけて負けて落ち込んでセンチ、てえしたことないのに騒ぎ立てて狭まるレンジ、あのコに嫌われる前にそのダセェ垢クレンジングして落としてきなマザー×ッカー」


 大歓声。後ノリを基本にしながら、頭にもライムを混ぜ込んで巧みにグルーヴさせている。技巧派と呼ばれるハルトらしいリリックである。同じシーケンスの中投げ渡されたタケルがどのような負け方をするのか、観客の関心はすぐそちらに移った。


「その節は世話になったな先人」


 観客が、目を見開いた。ハルトが用いた韻をそのまま受け継いでのライムである。


「心配すんな、あのコは天使、さながらアンジー、かとおもいきや悪魔みてーな変人、俺のことなんざ眼中にねーぜメンチも切らねー俺がビビっちまってるんだからな」


 観客はタケルの自虐的なライムに大喜びをし、フロアを揺らしている。タケルはそれに眼もくれず、ハルトを睨みつけたままリリックを解き放ってゆく。


「お前の言う通りさ俺の生まれは原始、使い方は知らねえ電子レンジ、だけど瞬間沸騰で繰り出すパンチ、おかげで返り討ち、大惨事、がんじ絡めの家庭事情を明示、人の教えを肝に銘じ、生きていければ楽になれるんだろうけどよ」


 持ち時間が過ぎ、シーケンスが止まった。それでもタケルは歌うのをやめない。彼の持ち味である、詰め込み型のフリースタイルである。


「残念ながらそんなめでたく出来ちゃねーし、反面教師にしたい親すら会話ねーし蒼天航路なんてわけにいかねーし完全にてんで全然ちんぷんかんぷんの勉強に追われることなく人生終われちまうしせめてもって思ってあのコに気に入られれば何か変わるのかななんて期待して読んだ枕草子、それすらはじめの一文さえ意味わからないまま暮れそうだし、だけど同志、生きる生にいくらかの値段付けてみろって言われて志望し奉仕、疲労してくなんて御免でそれなら牡牛みてえに追い回される方がまだマシ、こうして俺ははみ出し、出られない自分で作った鉄格子揺らしこっそり枕濡らし――」


 マイクを、そこで投げた。MCがそれを受け取り、呆気に取られたような顔でタケルを見た。


「――自分で、分かってんだ。文句あるかよ」


 まっすぐにハルトの眼を見て、言った。客席にまで聴こえたかどうかは、分からない。

 しばらく、静寂。そののち、大歓声。タケルが、かつて聞いたどんなものよりも大きな。


「おいおいおい、マジかよタケル、どこの山に篭って修行してきたんだ!」


 MCが観客の声援を更に盛り上げる。フロアは弾け飛びそうなほどの熱量に満ちている。それでもタケルは眉一つ動かさず、ハルトを見つめている。


「はじめてだ!はじめて、タケルがハルトに勝ったぞ!皆、文句はないな!」


 応じる観客。揺れるフロア。うっすらと、タケルは口の端を吊り上げた。ハルトも、同じようにした。


「人間、素直が一番。やればできんじゃん、ヤンキー」

「負け惜しみ言うな、海兵隊頭ジャーヘッド。戦場だったらお前、死んでるぜ」

「うるせー、ナメてんじゃねーぞクソガキ」

「ていうか、今すぐ死ね」


 ハルトは苦笑しながらタケルの肩を一つ叩き、ステージを降りた。

 タケルが喜ばないのは、勝った実感がないからである。自分で意識して繰り出したライムではなく、内にあるものをそのまま口から吐き出したに過ぎないのだ。それがたまたまグルーヴを掴み、ハマった。それだけのことだと思っていた。

 永遠のルーザーの汚名返上だ!などとMCは騒ぎ立て、フロアにはタケルの名を呼ぶコールする声が渦巻いている。

 しかし、タケルは笑わず、何事もなかったかのようにステージを降りた。


 格好よかった、すごい、と絶賛するミサキも無視し、見直したぜ、やるじゃねーかとハイタッチを求めてくる受付のリュウも無視し、頼りない街灯の下に出た。

 そこにはシーケンスのように生臭く湿った風が流れていた。タケルは眉をひとつしかめ、スニーカーでアスファルトを鈍く鳴らした。

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